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2006年1月22日 (日)

上林暁『聖ヨハネ病院にて』

 『憂愁書架』の記事は中二日で書かれてきましたが、作者が体調不良で寝込み、やむなく更新が遅れてしまいました。今は全快に近く、早く以前のペースを取り戻したいと思っております。これからもよろしくお願いいたします。

 上林暁(1902~1980)の『聖ヨハネ病院にて』(1946作、1949新潮文庫) は精神を病んで入院している妻を泊まり込みで看病する夫の話です。妻は眼も不自由になり、自分の始末ができず、汚物で衣服を汚し、手に入るものは何でも口に入れてしまいます。実際に暁の妻の繁子は1939年に発病して、何度か転院した後1946年に亡くなっています。病気で苦しむ妻の姿を小説の種にしているわけです。狂っているため、それとさとられずに病室のベッドの横で原稿用紙を埋めていきます。もし妻が死んだら書くことがなくなってしまうのではないか、という心配までしています。許し難いことには、自分のそのような姿勢は万死に値するとか、将来子供が読んだらどう思うだろうか、などと女々しいことも書いています。おまけに「この妻あるがために自分の文学生活が高きに保たれた」云々と、まるで不幸を飯の種にすることを正当化するごとくです。描かれている事実は都合よく選ばれ、削られ、粉飾されているもので、むろんありのままの事実ではありません。作者の誠実さなどは問題にもなりません。
 しかし、それにもかかわらず、私はこの『聖ヨハネ病院にて』を何度も読み返しています。というのも、このような小説を書き上げるためには無限に大きな力を必要とするように思われるからです。それは大袈裟にいえば人生を捨てるほどの覚悟です。一切の煩悩を捨て去って、透徹した眼差しの力のみで自らの生活をはっしと見るのです。そのとき、紅茶の茶碗に二人で分けて飲む牛乳のおいしさが、弁当箱のサツマ芋の柔らかさが、妻が隠してくれていた栗の実の甘さが、いや二人で過ごす病室のすべての時が至福の光をもって現れてくるのです。この物語の最後に「私」は好奇心のまま病院が催すミサに列席します。熱心に祈る患者や看護士たちに混じって、「私」は自分だけ異邦人のように感じます。しかし、突然、「私」は「道は遠きに求むるに及ばず」と自覚し、自分の最も近くにいる、眼も見えなければ頭も狂っている、その苦痛をすら自覚しない妻のことを考えます。「この人間を神と見立ててはいけないだろうか」すなわち、妻にもっともっとやさしくすることで基督教徒よりもっともっと基督教徒になれるのでは、と考えたのです。この嘘っぽい悟り以上に真実なものはこの物語にはありません。この悟りの上に描かれた妻の肖像は何ものにもまして美しく私たちの心に残ります。これは上林暁の傑作であり、あの混沌として暗く貧しかった時代に堀り出された宝石のように静かに輝いています。

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