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2006年1月27日 (金)

メダルト・ボス『夢ーその現存在分析』

 ヴァイオリニストで作曲家であったタルティーニは、ある晩、夢の中で、悪魔に魂を譲り渡すかわりに悪魔の弾く素晴らしく魅惑的な曲を聴くことができ、目覚めるや、彼はただちに五線紙に向かい、一気にその曲を再現したのです。これが『悪魔ソナタ』ですが、人はそこに、悪魔の忍び寄る足音、人を嘲弄するダンス、技巧の限りを尽くした誘惑を見いだすことでしょう。また、ルードヴィッヒ・ティークは、コレッジォの画を知ったとき、なぜそれらの画がそれほどに評価されるのか疑問に思っていました。ある晩の夢で、彼はギャラリーのコレッジォの画の前に立っていました。そこにコレッジォ本人が現れて、彼に、おまえならこの画の良さをわかるはずだ、と言ったのです。目覚めるやすぐに彼はギャラリーに走り、まっすぐにコレッジォの画の前に行きました。以来、ティークはコレッジォの熱烈な賛美者となったのです。
 夢解釈は古来人類の関心のまとでした。アイスキュロスは『エウメ二ドス』の中でクリテムネストラをして「眠りの中では人間の本質が夢の視力のおかげできわめて明らかとなり、他方昼間には死すべきものである人間にはその運命はかくされたままになっている」といわせていますが、まさにそれがメダルト・ボス(1903~1990)の『夢ーその現存在分析』(1970みすず書房・三好郁男、笠原嘉、藤縄昭訳)の結論でもあります。
 ところで、フロイトによれば、夢は幼児的衝動欲求の充足です。覚醒時には道徳的なふるまいをしている私たちも、心の奥底では強迫的な性格、または幼児的な下品な衝動によって動揺させられているのですが、幸いにも「夜警」である夢のおかげでその欲望は充足され、ことなきを得ているというわけです。フロイトによれば、ピストルは男性性器の、皿は女性の、橋は性交の象徴となるのです。しかし、C.G.ユンクは、それらはシンボルではなく、単なる事物の置き換えにすぎない、といいます。シンボルとは夢見るものがその純粋の事実性を超えた意味を感じたときにのみ、またその意味が了解できないときにのみシンボルといえるので、ユンクはその「超えた意味」を集合的無意識という言葉で表しました。集合的無意識は具体的には「元型」という形であらゆる民族、時代に見られるものですが、この瞬間ユンクもフロイトと同様に、夢はその背後にある一つの強力なモーター(フロイトにとっては欲望充足、ユンクにとっては元型という)によってすべて説明できるという実証主義的科学観の陥穽に落ち込んだのです。しかし、彼らの偉大さは、夢の研究を通じて、私たちがリアリティとみなしているものはその背後にある底知れぬ巨大なものの一部でしかないという点を徹底的に明らかにしてくれたことにあるのです。
 さて、メダルト・ボスは打ち捨てられた「純粋な事実性」に立ち返ります。ピストルは攻撃性の、皿は空に開かれた受動性の、そして橋は神的なものへのあるいは存在の秘密へのかけわたしに他なりません。覚醒時には、事物は有用という顔でしか現れないが、夢では事物の秘密があきらかにされ、そこに閉じ込められていた人間存在も開示されるのです。ここから一気にボスはオカルティスムの領域に突き進みます。人間は、本質的に、過去と未来に身を浸しているし(予知夢)、また空間的にも展がりのある存在である(テレパシー夢)、というのです。『夢ーその現存在分析』の後半は著者が集めた不思議な夢の症例に満ちています。ひとつだけ紹介しましょう。ある夫人は二人の息子が自転車事故で死に、自分も同じ日に死ぬ夢を見ました。彼女は心配して息子の自転車を売らせたのですが、ある日、それまで元気だった父親が急病になって、彼女は急遽二人の息子を家に呼び寄せました。一人は学校から友人の自転車を借りて帰り、もう一人は友人の家から友人の車を借りて、ともに猛スピードで帰りました。家の前で自転車と車は衝突して二人は即死し、母親は運ばれたその遺体を見て心臓発作でなくなりました。父親はこの悲劇の道具にすぎないかのごとくすぐに全快したということです。

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