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2006年1月31日 (火)

P.アクロイド『T.S.エリオット』

 「葬儀屋」というのがエリオットにつけられた綽名でした。完璧な身だしなみ、尊大な物腰、物静かで退屈、文学的愚者に対する軽蔑、それはまさに「冷蔵された人間性」と評されるに相応しい人物だったのです。「彼は苦痛を、自分のも人のものも、愛していた」とアクロイドは『T.S.エリオット』(1988みすず書房・武谷紀久雄訳)で書いています。十字架上で苦しむキリストの絵を好み、人間に関わることはすべて空虚である、と感じ、地獄の存在が唯一人生に意味を与えていると思っていた一人の男、彼は他人の人格を恐れ、誰とも深く知り合うことを避け、何よりも孤独を好み、金持ちになった後でもポットのお茶を決して残さない倹約家でした。
 T.S.エリオット(1888~1965)はミズーリ州セントルイスの裕福な名家に生まれ、優しい大家族に囲まれた末っ子として幸福な幼年時代を過ごしました。ハーヴァードを出た後、ロンドンで暮らし、そこで27歳のとき同年のヴィヴィアンという女性と結婚しました。ヴィヴィアンはイギリスの立派な中産上層階級の娘でしたが、幼い頃から神経症とそこからくる頭痛や胃痛に苦しんでいました。二人は結婚した直後に互いに後悔したようです。それは愛情のない半ば衝動的な結婚で、エリオットは人生の最も実りある30年間を不幸な結婚生活の重圧の下で過ごしたのです。絶えず病気であったヴィヴィアンはエリオットにきつく当たること多く、彼は妻の看護と治療の出費を賄うため朝9時半から夕方5時半まで銀行で働き、夕方からは雑誌の編集と新聞への書評を精力的にこなしていきました。代表作『荒地』が書かれたのは、一日十四、五時間も働いていたこの時期だったのです。やがて、ヴィヴィアンには精神病の症状が出始め、エリオットも心労で神経に変調をきたしていきました。夫婦はパーティの席でお互いに怒鳴りあい、ヴィヴィアンはエリオットに「この俗物!」と、彼がもっとも嫌った言葉を投げつけるのでした。ついに二人は別居し、その後、ヴィヴィアンが58歳で精神病院で衰弱死したとの知らせを受けて、エリオットは「おお、神様」と言って泣き崩れました。二人はお互いに相手が正確に何ものかを理解できないまま永遠に別れたのです。ヴィヴィアンにもエリオットにも落ち度はなく、すべての原因はきわめて頭の良い二人の男女がきわめて愚かな結婚をしたということにすぎないのでしょう。
 エリオットが結婚生活に耐えられたのは、人生が悲しみの通り道にほかならないという達観の故でもあったのですが、ヴィヴィアンの死後は、さらに孤独の中に閉じこもり、二人の女友だちからの求婚も退け、キリスト教的な背景をもった戯曲の制作にいそしみました。この間に彼の名声は頂点に達し、世界のどこでも彼は熱狂的な歓迎の嵐で迎えられました。しかし、ノーベル賞すら彼の本来の悲観的懐疑主義を懐柔することはできませんでした。彼は「隠れたところで静かに死にたい」とエズラ・パウンドに語っていました。
 ところがエリオットの最晩年にすべてをひっくり返す出来事が起こります。イングランド北部の田舎に生まれたヴァレリー・フレッチャーは14歳で『東方三博士の旅』の録音を聴いてエリオットのファンになり、自分はいつか彼の下で働きたいと思っていました。彼女は学校を出ると、秘書の専門学校に通い、22歳でちょうど空きのできたエリオットの秘書に採用され、8年間有能に仕事をこなしました。鈍感なエリオットは彼女が自分を愛しているのを知るまでに8年もかかったのです。彼は仕事場でヴァレリーに求婚しました。彼女は30歳、エリオットは68歳になっていました。「私は世界中でいちばん幸せな男だ」と彼は友人に語りました。著作の中で愛を平凡な人間の慰めにすぎないと笑っていた彼が、生涯の悲惨と孤独から一人の人間の愛によって救われたのです。夫婦は一時も離れることなく、エリオットは幼い日の思い出に勝る幸福な日々をヴァレリーと過ごしました。75歳で意識不明になったとき、妻は終始彼の傍らを離れませんでした。というのも昏睡状態から覚めた時、彼女の姿が見えるかどうかが生死を分ける、と言われたからです。エリオットは回復し、なお2年生きて77歳で妻の名を呼びながら穏やかに死にました。彼は、(子供の時と二度目の結婚の時のように)誰か信頼できる人に見守られているときにのみ本当に幸福だったのです。「わが始めはわが終り、わが終りはわが始め」詩人の墓碑にはそう刻まれています。

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2006年1月27日 (金)

メダルト・ボス『夢ーその現存在分析』

 ヴァイオリニストで作曲家であったタルティーニは、ある晩、夢の中で、悪魔に魂を譲り渡すかわりに悪魔の弾く素晴らしく魅惑的な曲を聴くことができ、目覚めるや、彼はただちに五線紙に向かい、一気にその曲を再現したのです。これが『悪魔ソナタ』ですが、人はそこに、悪魔の忍び寄る足音、人を嘲弄するダンス、技巧の限りを尽くした誘惑を見いだすことでしょう。また、ルードヴィッヒ・ティークは、コレッジォの画を知ったとき、なぜそれらの画がそれほどに評価されるのか疑問に思っていました。ある晩の夢で、彼はギャラリーのコレッジォの画の前に立っていました。そこにコレッジォ本人が現れて、彼に、おまえならこの画の良さをわかるはずだ、と言ったのです。目覚めるやすぐに彼はギャラリーに走り、まっすぐにコレッジォの画の前に行きました。以来、ティークはコレッジォの熱烈な賛美者となったのです。
 夢解釈は古来人類の関心のまとでした。アイスキュロスは『エウメ二ドス』の中でクリテムネストラをして「眠りの中では人間の本質が夢の視力のおかげできわめて明らかとなり、他方昼間には死すべきものである人間にはその運命はかくされたままになっている」といわせていますが、まさにそれがメダルト・ボス(1903~1990)の『夢ーその現存在分析』(1970みすず書房・三好郁男、笠原嘉、藤縄昭訳)の結論でもあります。
 ところで、フロイトによれば、夢は幼児的衝動欲求の充足です。覚醒時には道徳的なふるまいをしている私たちも、心の奥底では強迫的な性格、または幼児的な下品な衝動によって動揺させられているのですが、幸いにも「夜警」である夢のおかげでその欲望は充足され、ことなきを得ているというわけです。フロイトによれば、ピストルは男性性器の、皿は女性の、橋は性交の象徴となるのです。しかし、C.G.ユンクは、それらはシンボルではなく、単なる事物の置き換えにすぎない、といいます。シンボルとは夢見るものがその純粋の事実性を超えた意味を感じたときにのみ、またその意味が了解できないときにのみシンボルといえるので、ユンクはその「超えた意味」を集合的無意識という言葉で表しました。集合的無意識は具体的には「元型」という形であらゆる民族、時代に見られるものですが、この瞬間ユンクもフロイトと同様に、夢はその背後にある一つの強力なモーター(フロイトにとっては欲望充足、ユンクにとっては元型という)によってすべて説明できるという実証主義的科学観の陥穽に落ち込んだのです。しかし、彼らの偉大さは、夢の研究を通じて、私たちがリアリティとみなしているものはその背後にある底知れぬ巨大なものの一部でしかないという点を徹底的に明らかにしてくれたことにあるのです。
 さて、メダルト・ボスは打ち捨てられた「純粋な事実性」に立ち返ります。ピストルは攻撃性の、皿は空に開かれた受動性の、そして橋は神的なものへのあるいは存在の秘密へのかけわたしに他なりません。覚醒時には、事物は有用という顔でしか現れないが、夢では事物の秘密があきらかにされ、そこに閉じ込められていた人間存在も開示されるのです。ここから一気にボスはオカルティスムの領域に突き進みます。人間は、本質的に、過去と未来に身を浸しているし(予知夢)、また空間的にも展がりのある存在である(テレパシー夢)、というのです。『夢ーその現存在分析』の後半は著者が集めた不思議な夢の症例に満ちています。ひとつだけ紹介しましょう。ある夫人は二人の息子が自転車事故で死に、自分も同じ日に死ぬ夢を見ました。彼女は心配して息子の自転車を売らせたのですが、ある日、それまで元気だった父親が急病になって、彼女は急遽二人の息子を家に呼び寄せました。一人は学校から友人の自転車を借りて帰り、もう一人は友人の家から友人の車を借りて、ともに猛スピードで帰りました。家の前で自転車と車は衝突して二人は即死し、母親は運ばれたその遺体を見て心臓発作でなくなりました。父親はこの悲劇の道具にすぎないかのごとくすぐに全快したということです。

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2006年1月22日 (日)

上林暁『聖ヨハネ病院にて』

 『憂愁書架』の記事は中二日で書かれてきましたが、作者が体調不良で寝込み、やむなく更新が遅れてしまいました。今は全快に近く、早く以前のペースを取り戻したいと思っております。これからもよろしくお願いいたします。

 上林暁(1902~1980)の『聖ヨハネ病院にて』(1946作、1949新潮文庫) は精神を病んで入院している妻を泊まり込みで看病する夫の話です。妻は眼も不自由になり、自分の始末ができず、汚物で衣服を汚し、手に入るものは何でも口に入れてしまいます。実際に暁の妻の繁子は1939年に発病して、何度か転院した後1946年に亡くなっています。病気で苦しむ妻の姿を小説の種にしているわけです。狂っているため、それとさとられずに病室のベッドの横で原稿用紙を埋めていきます。もし妻が死んだら書くことがなくなってしまうのではないか、という心配までしています。許し難いことには、自分のそのような姿勢は万死に値するとか、将来子供が読んだらどう思うだろうか、などと女々しいことも書いています。おまけに「この妻あるがために自分の文学生活が高きに保たれた」云々と、まるで不幸を飯の種にすることを正当化するごとくです。描かれている事実は都合よく選ばれ、削られ、粉飾されているもので、むろんありのままの事実ではありません。作者の誠実さなどは問題にもなりません。
 しかし、それにもかかわらず、私はこの『聖ヨハネ病院にて』を何度も読み返しています。というのも、このような小説を書き上げるためには無限に大きな力を必要とするように思われるからです。それは大袈裟にいえば人生を捨てるほどの覚悟です。一切の煩悩を捨て去って、透徹した眼差しの力のみで自らの生活をはっしと見るのです。そのとき、紅茶の茶碗に二人で分けて飲む牛乳のおいしさが、弁当箱のサツマ芋の柔らかさが、妻が隠してくれていた栗の実の甘さが、いや二人で過ごす病室のすべての時が至福の光をもって現れてくるのです。この物語の最後に「私」は好奇心のまま病院が催すミサに列席します。熱心に祈る患者や看護士たちに混じって、「私」は自分だけ異邦人のように感じます。しかし、突然、「私」は「道は遠きに求むるに及ばず」と自覚し、自分の最も近くにいる、眼も見えなければ頭も狂っている、その苦痛をすら自覚しない妻のことを考えます。「この人間を神と見立ててはいけないだろうか」すなわち、妻にもっともっとやさしくすることで基督教徒よりもっともっと基督教徒になれるのでは、と考えたのです。この嘘っぽい悟り以上に真実なものはこの物語にはありません。この悟りの上に描かれた妻の肖像は何ものにもまして美しく私たちの心に残ります。これは上林暁の傑作であり、あの混沌として暗く貧しかった時代に堀り出された宝石のように静かに輝いています。

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2006年1月15日 (日)

マイケル・ホワイト『ナルニア国の父 C.S.ルイス』

 紀元1100年以後に書かれたものは総じて一読の価値もない、とJ.R.R.トールキン(1892~1873)は言っているそうですが、C.S.ルイス(1898~1963)も現代文学のほとんどを理解できませんでした。『ベーオウルフ』をすらすら読める彼がヘミングウエイやフィッツジェラルドを一ページ読むのに苦労しているのです。トールキンとルイスは現代社会そのものにも無関心で、新聞も読まず、現代詩やハリウッド映画を嫌い、政治と政治家を軽蔑していました。オックスフォード大学の同僚であった彼らは、また、学問だけで想像力も知的なひらめきもない他の教授たちを半ば軽んじていました。よく似た同士の二人は知り合うとすぐ親友になりました。知的水準も同程度で(ルイスの方がやや興味の範囲が広い)、彼ら自身の学問よりも彼らの作り出したファンタジーで名声を得たという点も同じでした。『指輪物語』を出版するよう励ましたのはルイスで、『ライオンと魔女』の原稿を最初に読んだのはトールキンです。
 しかし、二人の本質的な類似点は、ともに少年時代の始まりに母親を亡くしているということでした。この喪失感はあまりに大きく、二人とも完璧に自分だけの王国を想像の上で創り出すことでかろうじて現実の寂寥感に耐えられたのです。この友情は20年続いた後、冷たく、疎遠になっていきました。トールキンは嫉妬深く、二人の友情に他の人間が介入するのを嫌ったようです(ルイスには友人がたくさんいましたが、トールキンは学内で友人がいませんでした)。また、ルイスの著作の世界的成功が彼の心をぎりぎり苦しめたのです。トールキンは『ナルニア国物語』の構成の杜撰さ、筋の矛盾を指摘しました。実際、ルイスは早書きで、書き直しをほとんどしないのですが、トールキンは細部まで慎重にじっくり書き込んでいく性格だったのです。トールキンがカトリックで、ルイスがプロテスタントであったこともこの偉大な二人の物語作家を離反させる一因だったのかも知れません。
 マイケル・ホワイト『ナルニア国の父 C.S.ルイス』(2005岩波書店・中村妙子訳)によれば、ルイスの女性関係は、彼の護教家としての名声が災いしてか、未だ完全には知られていないそうです。第一次大戦に出征した19歳の時、友人のパディと、どちらかが死んだら残された親の面倒を生き残った者がみよう、と約束しました。ルイスが負傷しながらも生還して、残されたパディの母親と妹の面倒をみることにしたのです。母親のジェイニーとは26歳離れていましたが、何とそれからジェイニーが78歳で死ぬまでの33年間二人は同居していたのです。ルイスは老年になった彼女の身の回りの世話を献身的に成し遂げました。二人の間がどのような関係であったかは明らかではありません(ホワイトは、性的関係は当然あった、と書いています)。
 ルイスの晩年に映画になるほどのロマンスがありました。58歳の彼は、アメリカから会いにやって来た熱烈なファンのジョイという41歳の女性と結婚したのです。しかし、幸福な結婚生活は、ジョイの癌による死により三年で終わりました。ルイスはもはやこの痛手から立ち直れず、一気に体調を崩し入院しました。死の三ヶ月前、ケンブリッジに教授辞任の手紙を送ると、これまで願ってもできなかったこと、ベッドの中で好きなだけ本を読むという贅沢をたっぷり味わいました。それは子供時代の、母親がベッドでやさしく彼の頬をなでてくれた記憶を呼び覚ましました。1963年、64歳でルイスは、あのナルニア国に行く四人の少年少女たちが通っていった衣装箪笥の向こうの秘密の世界に旅立って行ったのです。

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2006年1月12日 (木)

シュティフター『水晶』

 アーダルベルト・シュティフター(1805~1868)は子供の頃、山道を歩きながらきれいな石を拾うのが好きでした。彼は大人になって、子供たちのために石の名を冠した短編の連作を書き始めました。『石さまざま』(1853)は彼の作品の中でひときわ輝いているばかりでなく、19世紀のドイツ語で書かれた最高の短編のひとつを含んでいます。それこそ有名な『水晶』(1952岩波文庫・手塚富雄訳)に他なりません。
 読者は最初の5ページで物語の中に連れ込まれ、ボヘミア南部の山間の小さな村にいる自分を発見します。真ん中の広場には高い尖塔のある教会と学校と村役場があります。顔を上げると白い雪を戴いた山々がすぐ後にそびえています。今日はクリスマスの前日で、靴屋の子供のコンラートとザンナの兄妹は峠を越えた隣村の祖父母のもとに遊びに行くのです。母親は十字を切って子供たちを送り出します。無事隣村に着き、楽しい食事が終わって、さて帰り道になると、突然はらはらと雪が落ちてきます。二人はうれしくて雪を踏みしめ、手をつないで馴染みの山道を歩きますが、雪のため標識が見えず、迷ってしまいます。帰る道を探しながら、いつのまにか山の頂上近くまで来て、気がつくと辺りは厚い氷の壁に閉ざされています。二人は氷で囲まれた岩屋で夜を越すことにしますが、眠りに落ちないために祖母にもらった濃いコーヒーをかわるがわる飲みました。明け方近く不思議なことが起こります。満天の星々が弓のようにつながれて、王冠に似た輝きを放っているのです。それに魅せられているうちに夜は明け、無事二人は、探しに来た村人たちに助けられます。うれしさのあまり抱きしめる母親にザンナは「キリスト様を見た」というのでした。
 全編、無駄な言葉を一切使わず、禁欲的なまでに簡潔に物語は進みます。厳しくも美しい自然の描写、人々の簡素な振る舞い、素朴な子供の愛らしさは読後いつまでも心に残るでしょう。シュティフターはオーストリアの麻布織の業者の家に生まれ、小学校の視学官を16年務めてきました。初恋の人、ファニーへの求婚を断られたのが彼の全生涯を暗く彩ったようです。他の女性との結婚生活はうまくいかず、二人の養女の一人は病死、一人は18歳でドナウ河に身を投げています。彼は楽しみにしていた年金生活に入ると同時に病魔に冒され、肝臓ガンののたうちまわる苦痛に耐えかねて剃刀で頸動脈を切断しました。長編『晩夏』(1857)の最後は、激烈な恋よりも結婚後の静かに続く誠実な幸福を称揚しています。幸せな家庭生活こそ偉大なことの基盤になり、非凡なことの揺籃になるというのですが、そのような家庭生活の幸福を彼自身が得られなかったのは悲劇といえましょう。
 『水晶』は『共産党宣言』(1848)とほぼ同じ頃出ましたが、彼にあっては革命など何ほどのこともなかったようです。激情こそ最も不当不遜のもので、穏やかで堅実なもの、強く抑制されたもの、「石を積み上げた塀から一個の石が抜け落ちれば、その石がまたはめこまれる」ように毅然として変わらぬものだけが価値がある、と彼は書きました。山に降り積もった雪が地下水となって流れ落ち、やがて平地のそこかしこから柔らかに冷たく湧きでるように、ほんとうに偉大なものは静かに休みなく続く日常の持続の中にある、これこそシュティフターの哲学です。
 
 

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2006年1月 9日 (月)

チェーホフ『犬を連れた奥さん』

 モスクワからヤルタに保養にきていたグーロフはそこで犬を連れた若い夫人と出会います。彼女はアンナ・セルゲーヴナという名で、ペテルブルグ近くの S 市の市会議員の妻でした。グーロフはモスクワの銀行に勤める裕福な40近い男で、学生結婚した夫人と三人の子供を持っていました。インテリで面白みのない夫人はグーロフに楽しみを与えず、そのためグーロフはもっぱら他の女たちとの情交で憂さを晴らしていました。それまで遊んだ女は数知れず、しかし彼は一度も恋したことがなかったのでした。グーロフとアンナは互いに愛しあうようになりますが、すぐに急用で夫人は S 市に帰ることになります。アンナは初めての浮気に気もそぞろで、別れの時に「二度と会えないけれど、あなたのことは決して忘れないわ」と涙ながらに叫びます。グーロフも淋しくは感じましたが、いつものようにこの女も思い出の中の一人になっていくのだろうと達観していました。
 ところが休暇を終え、モスクワに帰ったグーロフはなぜかアンナのことが思い出されてなりません。月日が経てば忘れるどころか、ますますはっきりとアンナの面影が浮かんできます。一人で家にいるときはもちろん、外を歩いても雑踏の中にアンナに似た顔を探していました。こんなことは彼の人生で初めてでした。部屋のどんな片隅からも彼女の息づかい、彼女の香りが漂ってきます。グーロフはついに出張を理由に S 市にアンナに会いに行きます。劇場でグーロフに会ったアンナは驚いて、すぐに帰ってくれ、私がモスクワに行くから、と懇願します。それから2、3ヶ月に一度の割で、激しく愛し合う二人の逢瀬がモスクワのホテルでくり返されました。
 物語は突然ここで終わります。偽りの結婚生活、偽りの世間体の空しさを知った二人は、互いに誠実であることを約束しながらもこれからどうなって行くのでしょうか。二人の行末は読者の想像にゆだねられています。そしてここにチェーホフ(1860~1904)の偉大さがあるのです。「彼は人生から一つの時間、一つのエピソードだけをとって書いた」とクロポトキンは言っています。それだけで十分なのです。グーロフは初めて自分の心を捉えたものが何であるかを必死に探ろうとします。それは毎日の仕事とか賭けトランプとか翌日に残る酒の香とは全く違うものでした。それは、この世の一切は美しいと思わせる強烈な感覚でした。ここで現実の枷(かせ)が彼を縛ります。アンナの待つホテルに行く途中、彼は小さな娘を学校に送って行きます。道々彼は娘に雪や雷の知識をやさしく教えてやります。アンナに逢うと、抱きしめ、涙にくれます。これがいわゆるそこはかとない「チェーホフの悲しみ」です。人生のあらゆる瞬間と同じように、最も困難なことは今これから始まるのです、、、。
 余分なものが全くない完璧に短いこの小説は神西清の名訳で『可愛い女・犬を連れた奥さん』(1940岩波文庫)に収録されています。

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2006年1月 6日 (金)

ジェーン・オースティン『説きふせられて』

 27歳になったアンは友人のラッセル夫人を除けば、誰も心の通じ合える人はいませんでした。従男爵の父親も、独身の姉も、結婚して近くに住む妹も、虚栄心にあふれ、わがままで、善意の心に欠けていたのです。アンは13歳の時に死んだ母親の面影を受け継ぎ、美しく聡明で分別に冨み、全身優しさの塊でした。ただ一つだけ欠点があって、思慮深いがゆえに思い切って決断できないことがままあったのです。19歳のとき、23歳の海軍士官と恋に落ちましたが、ラッセル夫人から、家柄と不確かな収入を理由に説きふせられ、泣く泣く結婚を断念しました。その士官ウェントワースは裏切られた思いで彼女のもとを去り、遠い南方に船出していきました。そして、八年の歳月が過ぎ、ほろ苦い後悔を抱いて生きているアンの前に、今は大佐となり、十分裕福になったかつての恋人が姿を現します。アンは彼のことが今でも忘れられません。しかし、ウェントワースは昔の彼女を許し、今でもなお昔日の愛情をアンに注いでくれるでしょうか、、、。
 ジェーン・オースティン(1775~1818)の死後出版された彼女の最後の小説『説きふせられて』(1942岩波文庫・富田彬訳)は一分の弛みもなく最後まで読者を引っ張ります。大勢の人がいるパーティの中で誰にもその仲を知られていない恋人同士が、わざと互いによそよそしく振る舞っているときのそのワクワクした気分、そんな気持ちがオースティンの小説の醍醐味なのです。読者はヒロインと一体化します。物語の中のもっとも素晴らしい女性がもっとも完璧な男性と結ばれるのです。その歓びをともに味わうためには一頁一頁ゆっくりと、ひとつの文字も見落とさずに読んでいかねばなりません。登場人物のすべての性格、その土地のしきたりと身分の相違など、緻密に残さず把握していなければなりません。しかし、それはあまりに楽しい責務です。「私はオースティンに狂っています、、、何度でも何度でも読み返します。口を開け、理性を閉じて」とE.M.フォースターは書いています。
 ジェーン・オースティンは英国南部の牧師の家に生まれました。若くして小説を書き始めましたが、好評を得るようになったのは40歳近くなってからです。独身のまま42歳で死んだ後は、その評価は年を経るごとに高まりました。彼女の小説のほとんどは平凡な田舎の町の平凡な日常の描写に終始しているにもかかわらず、何がこれほど読者をひきつけるのでしょうか。私は、それはヒロインに対する作者の愛情だろうと思います。オースティンは、きっと、『高慢と偏見』のエリザベス・ベネットや、『説きふせられて』のアン・エリオットが好きで好きでたまらないので、どうしても読者に紹介したかったのでしょう。そして、物語を考えて夢見た少女の時のように、読者にもまた話の筋道を胸をときめかせて辿ってもらいたかったのです。これは限りなく重要なことだと思われます。なぜなら、上司小剣の『鱧の皮』や岡本かの子の『老妓抄』など舌を巻くほど上手な小説には何か本質的に欠けたものがあって、感心はしても心の動かされることなく、恐らくそれは作者自身の感動の深浅によるのではないかと思われるからです。私たちは人生が何であるかを知りたいのでなく、それを肺の底まで吸い込み、心ゆくまで味わいたいのです。
 

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2006年1月 3日 (火)

バートランド・ラッセル『幸福論』

 バートランド・ラッセル(1872~1970)は幼児期に父母を失い、厳格なピューリタンの祖母のもとで育てられました。ヴィクトリア朝(1837~1901)の雰囲気を色濃く体していた祖母は彼にスパルタ式教育を施しましたが、彼はそれに反発して、質素と禁欲と偽善的道徳に対しての終始変わらぬ敵対者となりました。『教育論』の中で彼が体罰をあれほど強く非難しているのも故なしとしないので、それは体罰が親と子どもの信頼にわだかまりを残し、子どもを親の前でだけ良い子になる裏表の人間を作り上げる恐れがあるからです。ラッセルの『幸福論』(1991岩波文庫・安藤貞雄訳)の主要なターゲットは、まさに幼児期に適切な扱いをされず、親に「良い子だね」とほめられた記憶のみを生きがいにし、異性に絶対的な愛情のみを求め、罪の意識の裏返しで自分で自分を罰したいと思いながら人生を無駄に費やしていくそういう人間たちなのです。
 「私は幸福に生まれつかなかった。子供のころ、私のお気に入りの賛美歌は『この世に倦(う)み、罪を背負いて』であった」と彼は書いています。思春期には生をいとい、自分をあわれな人間の見本のように思い、自殺も考えたそうです。そんな彼が立ち直るために成功した方法は、まず自分が望んでいるものは何かを発見して(彼の場合は数学や哲学)、さらに達することが困難なものをあきらめることでした。彼は自分の罪の意識の原因となっている性格上の欠点を克服することをあきらめました。彼は徐々に自分の欠点に無関心になり、目を広く外界の事物に注ぐよう努力しました。世界の状況、さまざまな分野の知識、自分の愛する人たちのこと、などです。世界は戦争に突入するかもしれない、知識はなかなか身につかないかもしれない、友人は死ぬかもしれません。しかし、この種の苦しみは自己嫌悪からわきでる苦しみと違って、生の本質的な部分まで打ち砕くことはありません。しかも、外の世界への興味は、自己と世界の対立を緩和し、自分を宇宙の一部として、ねたみや敵意や競争に痛めつけられた生を慰めてくれるのです。
 ジョージ・ボローのある小説の中で、妻を失って、心が空虚になった男の話があります。彼はじっと目前のティーポットを見つめているうちに、そこに描かれている東洋の文字に興味を持ち、漢字を勉強するためにフランス語を学び始め、フランス語で書かれた中国語文法書を読んでついに漢字を読めるようになり、それによって世界への新しい興味が起こり、辛いことを忘れられました。「覚えている人もいるだろうが」とラッセルは書いています。「シャーロック・ホームズは、ふと、通りに落ちている帽子を見つけて、拾い上げた。いっとき、その帽子をながめたあとで、その持ち主は酒で身をもちくずし、妻はもう昔ほど彼を愛していない、と言った。何げない物からこれほど豊かな興味を与えられる人にとって、人生は退屈であるはずがない」
 『幸福論』全編でラッセルが言いたいことは結局あまりに単純なことです。自分にとらわれるな、宇宙的規模で考えれば自己の欠点や失敗など何ということもない、つまり、気持ちの持ちようで人生はいくらでも幸福に転化しうる、ということです。「私の言いたいことの神髄はすでにスピノザが書いている」とラッセルが言うのも誇張ではありません。なぜなら、スピノザ哲学こそ人間の束縛について考え、そこからの自由を必死で訴える幸福の哲学に他ならないからです。

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