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2005年12月16日 (金)

アンリ・ペリュショ『セザンヌ』

 ポール・セザンヌは裕福な子弟の通うエクスの中学校に入っていました。途中から一人の転校生がやってきて、低い背、異常に大きな頭、しかも地元人でなくパリっ子でおまけに母子家庭の貧乏人のゆえに徹底的にいじめられていました。学校の全員から追放され、いつも物陰で一人で泣いていたのです。ポールはこの男の子のやさしい性格を気づいていたので、ある日いつものようにその転校生がみんなにいじめられていたとき、敢然と彼をかばいました。生徒たちが一斉にポールに襲いかかり、拳が霰のように降りそそぎました。翌日、その転校生エミール・ゾラは感謝と友情のしるしとして林檎を入れた大きな籠を持ってポールのもとを訪れました。ずっと後になってセザンヌの林檎がほとんど画家の神話にまでなった時、彼はこの時のことを甘酸っぱい味とともに思い出すでしょう。
 エミールとポール、それにバスティタン・バイユが加わった三人組は学校内で inseparable と呼ばれるほど強固な友情によって結ばれました。暇があると彼らはそろってプロヴァンスの川で泳ぎ、山に登り、詩を朗読し、人生のどんな時でもこの友情に忠実に生きようと誓い合いました。三人には共通の野望が、芸術においてパリを征服するという野望がありました。卒業すると彼らはそれぞれパリに上り、各自の精進を始めました。ゾラは三人の友情を常に確認し合い、いつも三人にプロヴァンスの楽しかった日々を思い起こさせながら、しかも極貧の生活の中で全精力を栄光の獲得のために注ぎ込んでいました。セザンヌもまた試行錯誤を重ね、親の仕送りに頼りながら、ひたすら絵の勉強を続けました。ついにゾラは成功します。37歳の時、「ルーゴン・マカール叢書」の第七作目の『居酒屋』(1877)が好評を得、彼の小説は爆発的に売れ始めます。金持ちになったゾラはメダンに大邸宅を建て、セザンヌを招待しました。中世の武具、日本の着物、トルコの金細工など豪華な置物で溢れかえった俗っぽい屋敷にセザンヌは驚きました。一方、ゾラは依然として無名のセザンヌを落伍者として憐憫の情で見るようになります。ゾラ夫人は贈られたセザンヌの絵をみっともないので客から隠していました。1886年、47歳になってもセザンヌは無名でした。ゾラは『制作』という作品の中でセザンヌをモデルにした画家ランティエを主人公にし、彼が失敗者として落伍し自殺するさまを嘲笑をふくめて描きました。35年続いた友情がこれで終わったことをセザンヌは知りました。その年、銀行家だったセザンヌの父親が死んで、彼は莫大な財産を受け継ぎました。父親は銀行の会計書の隅に絵をびっしり描いている息子を見て、その将来をあきらめ、ボヘミアンとして生きるだろう息子が将来餓死しないよう遊んで暮らせるだけの金を必死に働いて残してくれたのでした。「この遺産がなかったら」とセザンヌは涙を浮かべて語っています。「私はパリの街路でいかがわしい版画を売る貧乏画家で死んだだろう」
 1895年、若い画商アンブロワーズ・ヴォラールが開いたセザンヌ展がパリの耳目を集め、人々がこの難解な絵をこぞって買い出しました。56歳のセザンヌはやっと相応の勝利を得たのです。その年、エクスにゾラが久しぶりに逗留にきたことを知ったセザンヌは懐かしさのあまり彼に会いに外に出ました。しかし、道の途中で人に呼び止められ、ゾラが自分の悪口を言っているのを聞いて、寂しく後戻りしていきました。1902年、ゾラがガス中毒で窒息死したのを聞いたとき、セザンヌは驚愕し「ゾラ!ゾラ!」と叫び、終日部屋に閉じこもって泣きました。「栄光とは」とアンリ・ペリュショは『セザンヌ』(1963みすず書房・矢内原伊作訳)で書いています。「青春の頃は輝く肉体を持った美しい乙女に思える。しかし、それは賞賛であり、呪詛であり、羨望、憎悪、屈辱、そして嘲笑的な死人の顔である」と。

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