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2005年12月25日 (日)

ルドルフ・ブルトマン『イエス』

 旧約の預言者たちがその民に要求したのは、ただ神への服従でした。人間は祭儀と潔めさえ守っておれば神の意志を満足させるという安易な宗教性に対して、預言者たちは十戒を手にしてひたすら神への服従を説いたのです。イエスもまた服従を説きました。しかし、そこには一つの根本的違いがあって、彼は服従の思想をその極限まで貫いたのです。葡萄畑の主人は、朝早く雇った者にも、昼間に雇った者にも、夕方雇った者にも同じ一日分の給料一デナリを支払いました。丸一日働いた労働者がその不公平に文句を言うと、主人は「私はこの最後の人にも君と同じだけやりたいのだ」と答えます(マタイ20・1)。このたとえは人間は神の前には何の要求も持ち出せないのだということを示しています。それは絶対的な服従にほかなりません。「汝、姦淫するなかれ」に対してイエスは「情欲をもって女を見る者はみな姦淫を犯すのだ」と言います。十戒が神の言葉であると同時に一般的に妥当しうる社会倫理であるに反して、イエスの教えは日常を超えた一方的命令で、ここでは人間の意志だけが問題となっています。神への服従においては中途半端は許されません。人を愛する者はその敵をも当然愛するのです。左の頬を打たれれば右の頬を出し、下着を盗まれれば上着も差し出すのです。だから、一般的な倫理というものはイエスには存在しません。終末は来たれりと彼は言います。そして彼の言に従って悔い改めするかどうかを人々に問います。この「あれかーこれか」の問いは絶対的であって、容赦のない、その人間の全実存をかけた決断なのです。
 イエスに倫理がないのと同様、また人格の発展や人間社会の理想なども彼には無縁です。それ自身価値ある行為なぞ彼には存在しません。徳論も義務論も彼にはありません。神に全面的に従順であろうと意志しているかどうか、自己の権利を全く断念しているかどうかだけが問題なのです。よって、信仰も無意味です。罪深き人はその決断の重さによって信仰厚き善人よりも救われます。修行も無意味です。人間が努力によって何かをつかみ取れるという考えほど不遜なことはありません。この絶対的な自己放棄にも救いはあって、それは一度決断したら二度と迷わずに済むということです。
 聖書の「非神話化」(聖書の神話的言語を現在の言葉に置き換える)で有名なルドルフ・ブルトマン(1884~1976)の『イエス』(1963未来社川端純四郎・八木誠一訳)は1926年に出た新約学における世界的名著です。あなたが1920年代のマールブルク大学の学生なら、朝7時からのハイデガーの哲学講義を受け、次にルドルフ・オットーの宗教学講義、お弁当を食べてブルトマンの聖書解釈学を聞けるでしょう。さらに、毎週木曜の夜にはブルトマンの家で「グレーカ」というギリシア書読解の夕べがあって、それに出席すると11時きっかりに一本のワインが供されます。倹約家のブルトマンは一回りして空っぽになったワインの瓶を横に寝かせて置き、たまった2、3滴を自分のグラスに注ぐのでした。この倹約精神は徹底して、彼の業績の多くは封筒や払い済みの請求書の裏に書かれたとも言われています。また彼は極端に時間を惜しみ、友人や家族との語らい以外は一秒も無駄にせず、余暇さえも綿密な計算のもとになされました。ましてや学問における誠実さはいうまでもなく、巨大な知識を蔵しながら、荘重ぶったり、レトリックを弄んだりせず、誰にも親切で心温まるユーモアを愛し、自身の非神話化にも成功して92歳の天寿を全うしました。

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