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2005年12月22日 (木)

メルロ=ポンティ『意味と無意味』

 『意味と無意味』(1983みすず書房・滝浦静夫、粟津則雄、木田元、海老坂武訳)は1945-47年の間の論文が収められています。第二次大戦後、フランスの思想界は実存主義に席巻されました。ナチ占領下のフランスでの知識人の生き方は常に状況への関わり方の選択でした。生死が傍らにある経験を通り過ぎたすぐ後は厳しい思索が流行るもので、インテリの溜まり場であったサン・ジェルマン・デ・プレのカフェーには世界中からスノッブが訪れました。軍服のままカフェー「ドゥ・マゴ」に来たヘミングウェイはサルトルに抱きついて「私は大尉だが、あなたは将軍だ」と言ったそうです。さて、メルロ=ポンティ(1908~1961)はサルトルの三歳年少で、実存主義の拠点「レ・タン・モデルヌ」の編集長を務め、44歳の若さでコレージュ・ド・フランスの教授になった俊秀ですが、53歳で心臓麻痺で仕事中に亡くなりました。幼少で父を失い、母親と弟妹と一緒にパリのアパルトマンで閉鎖的な少年時代を送りました。45歳のときの母親の死が決定的なものを彼にもたらしたと言われています。透明さと柔らかさが命である数々の収録論文から時代の雰囲気を最もよく伝える一編『ヘーゲルにおける実存主義』を紹介しましょう。これはヘーゲルの翻訳者で研究家のジャン・イポリットの講演について書かれたものです。
 メルロ=ポンティはまず1807年のヘーゲル、つまり『精神現象学』を書き上げた37歳のヘーゲルに私たちを誘います。私たちが苦痛で苦しんでいる時、健康な時の歓びを強く感じるように、生そのものは死の意識によって初めてほんとうに意識されるようになります。いわば、生の意識は根本的には死の意識に他ならないのです。人間は死を知らないでいることは誰にもできず、それができるためには動物に戻らねばなりません。人間は意識を失わずにいる限り悪い動物であると言えましょう。動物は与えられた生活に満足し、それを再生産することで事足りていますが、人間は生きるのではなく実存しているからこそ普遍的なものに達しうるのです。言い換えれば、人間は人間性の代償として実存という支払いをしなければならないのです。だから、健康な人間という観念は一つの神話にすぎません。「人間は病める動物である」とヘーゲルは書いています。人間を人間たらしめている意識は一つの不幸な意識であり、それは自分が二次的なものであることを知っていて、その出生の地である無垢の状態を懐かしんでいます。「ユダヤ教の歴史的使命はまさにこの分離の意識を全世界に広めることにあったので、イポリットが戦時中その弟子たちに言っていたように、われわれが普遍的なものへの配慮を持ち、ただ独りで存在することをあきらめず、実存しようと欲する限り、われわれはみなユダヤ人なのである」とメルロ=ポンティは書いています。こういう文章が、不安な魂を持ち、孤独のまま焦燥している戦後の青年たちを感激させたのです。
 「ぎりぎり最後まで語る者はいない」とモーリス・ブランショは友人メルロ=ポンティの突然の死について言いました。死は、いつも野蛮なやり方で、唐突に私たちを訪れます。「哲学は驚異の確証である」というメルロ=ポンティの美しい言葉を最後に記しておきましょう。
 

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コメント

こんにちわ。ヘーゲルで検索してこちらにたどり着きました。哲学は驚異の確証であるとはまことに美しい言葉ですね。

投稿: かわうそ亭 | 2005年12月23日 (金) 09時19分

かわうそ亭さん、こんにちわ。
コメントありがとうございます。アリストテレスも似たようなことを言っていましたが、思い出せません。これからもどうぞよろしくお願いします。
それでは。

投稿: argus | 2005年12月25日 (日) 04時03分

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