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2005年12月13日 (火)

ゲルツェン『ロシヤにおける革命思想の発達について』

  ルイレーエフはニコライによって絞首刑に処せられた。
  プーシキンは38歳のとき決闘で殺された。
  グリボエードフはテヘランで暗殺された。
  レールモントフは27歳の時にカフカースで決闘で殺された。
  ヴェネヴィーチノフは22歳のとき社会によって殺された。
  コリツォーフは33歳でその家族に殺された。
  ベリンスキーは37歳で飢えと貧困のために殺された。
「わざわいなるかな、おのが預言者たちを石にて撃たんとする民は」とゲルツェンはマタイ伝25章を引用しています。1825年のデカブリストの乱以降、ロシア専制政府はその反動性を強め、二重の検閲、大学の閉鎖、女や子どもにいたる迫害が白昼公然と行われていました。流刑者を出さない貴族の家はなく、仲間うちで詩を朗読しただけで過酷な前線の兵隊に飛ばされる時代でした。「勇敢に語られた一語のためにー幾年にもわたる流刑、幾年にもわたる監視、ときには牢獄がひかえていたのである。それゆえにこそ、これらの言葉が語られ、これらの涙が流されたのだ、、」文学だけが、かろうじて心の奥底を吐露できる、そして人々に訴えることのできる道具でした。1837年、プーシキンがフランスから来た殺し屋の手にかかって決闘で殺されたとき、ペテルブルグ全市は彼のために悲しみに包まれました。遺体のある教区の教会へ向かう大勢の群集の姿を冬宮から見た皇帝はひそかに警察を使ってプーシキンの遺体を他の教会に移し、そこで司祭が追善の祈りをすますと、そりに乗せられた遺体は大急ぎで彼の故郷の修道院に運ばれました。あざむかれた群集がその教会へ移る時には雪がそりの後をすっかり消していたのです。
 アレクサンドル・ゲルツェン(1812~1870)はプーシキンと同じく裕福な貴族の家に生まれました。外国人の家庭教師と父の厖大な蔵書(フランスとドイツの哲学書を中心とした)が彼の少年時代の教養を形作りました。デカブリストの参加者への冷酷な処刑と農奴の悲惨さを深く感じた彼はモスクワ大学の頃から反政府的なサークルを主導し、2度の流刑の後、1847年に家族を連れて国外へ脱出しました。1851年にはジェノバ沖の汽船の転覆で母と息子を失い、同年に最愛の妻を亡くし、1870年に孤独のうちにパリで死にました。残された『過去と思索』(1854-1868)は世紀の最高の作品のひとつです。彼は目の当たりにした1848年のフランスの革命とその挫折で立憲性と民主主義の夢を砕かれましたが、なおロシアには西欧の失ったものが残されていると信じていました。しかし、ゴーゴリのように排他的なスラブ主義者にはならず、あくまでもフランス的合理的な態度を貫き通したのです。
 『ロシヤにおける革命思想の発達について』(1950岩波文庫・金子幸彦訳)は1851年に、西欧の知識人にロシアの現状を知らせるために亡命先のパリで書かれました。「希望のなかば、信仰のなかばは失われた」「しかし勝負はついていない、まだ戦いは続いている」「私はただひとつの和解をー完全なる敵意を主張する」
 あらゆる専横に対する憎しみこそゲルツェンの際立った特徴です。この書はペトロパウロ要塞監獄に出獄の望みないまま収容されているミハイル・バクーニンに捧げられました。

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