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2005年12月 7日 (水)

カフカ『カフカ最後の手紙』

 1986年、プラハ国立文書館は古籍商から32通の手紙(そのうち23通は葉書)の束を買い取りました。それこそフランツ・カフカが死の数時間前まで、力が失せてペンが手から落ちるまで家族にあてて出した便りの束だったのです。その最後の手紙の中で彼は父親に「お父さんがぼくを市民水泳スクールに連れて行ってくれたときのこと」を書いています。水泳の練習が終わった後、二人でビア・ガーデンでビールを飲んだこと、いつかまた二人でビールをたっぷり飲む約束、豪快な父親の飲みっぷりに対して自分はちびちびしか飲めないこと、、、父親に対する劣等感は愛情と混じり込んで死の淵の傍らにいたカフカを少年時代のおぼろげな世界に誘います。
 プラハの労働災害保険局を辞めたカフカは死の数ヶ月前からユダヤ人サークルの林間学校で出会ったドーラ・ディアマントとベルリンで共同生活を始めました。(彼女の献身的な看病ぶりをマックス・ブロートは伝えています。「サナトリウムに移る時に雨と風の中、彼女は無蓋の自動車の端にずっと立って彼の防壁になろうとした」)。ベルリンの暮らしは法外なインフレのために年金暮らしのカフカには苦しいものでした。暖房費も洗濯代も払えず、食事は蝋燭の燃えさしで暖め、切手代が高いので葉書は隅の数ミリまでびっしり書き込まれていました。やがて、発熱が収まらなくなり、ウイーンのサナトリウム、そしてハイエク博士の診療所に移りました。ここで喉頭結核の末期症状が確認され余命いくばくもなしと診断されます。カフカ最後の数週間はウイーン郊外のドクトル・ホフマン・サナトリウムで過ごされました。痛みのため食べることはおろか水を飲むことも苦しい状況で、183cmの体は49キロまで体重が落ちました。結核は口蓋の一部まで破壊し、もはや外科的処置は不可能で局部へのアルコール注射で痛みを抑えるしかありません。一時、喉の具合が奇跡的に良くなったようだと医者に言われたときにはカフカはうれしさのあまり泣き出しました。彼はドーラを抱きしめ、今ほど命と健康が欲しいと思った時はない、と言いました。しかし病勢はまた進行し、ついに水も喉を通らなくなります。堪え難い喉の渇きとの闘い、その時に父親と飲んだビールを思い出したのです。今や喉をかろうじて通るのはアルコール飲料のみ、「もちろん、飲む量も、またその飲み方もお父さんには気に入ってもらえないでしよう。ぼくも気に入りません。でも、仕方がないのです。、、、いつかお父さんとグイグイ飲むやり方で飲んでみたくてたまりません。というのも、ぼくの酒量はそんなに多くないとしても、喉の渇きという点では誰にも引けはとらないからです、、」もはや、ドーラの書いた手紙の後に添え書きするしかできなくなり、突然、その筆跡は終わります。「彼の手から手紙を取り上げます。そうでなくとも、立派な出来映えでした。彼の願いであと2、3行だけ。とても重要なことらしいので、、」しかし、その2、3行を書くことはできませんでした。1924年6月3日41歳でフランツ・カフカは亡くなりました。『カフカ最後の手紙』(1993 白水社・三原弟平訳)は和解と慈愛と希望に満ちています。絶望はほんのひとかけらもそこには見られません。

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