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2005年12月28日 (水)

グロウウ゛『フランツ・シュウベルト』

 フランツ・シューベルト(1797~1828)はウイーンの貧しい学校長の家に生まれました。父や兄からヴァイオリンやピアノを習いましたが、弾き始めると直ちに二人を追い抜いてしまいました。11歳で聖歌隊付属学校の寮に入れられましたが、彼はシュパウンという同級生に「いつも作曲しなければいられないんだ、五線紙さえあればいくらでも作曲できるのに」と嘆きました。裕福な家の息子シュパウンは彼に五線紙を供給してやりますが、彼はまさにこの行為のゆえに音楽史にその名を残しています。シューベルト家は週末に帰宅するフランツを交えて家族演奏会を催すのが楽しみでした。父がチェロ、二人の兄が第一第二ヴァイオリン、フランツがヴィオラです。父はよく間違えて弾きました。最初はフランツは黙っていて、二度目に父が間違えると、彼は微笑しながら恥ずかしそうに「お父さん、どうも間違ったところがあるようです」と言うのでした。
 17歳で退学して、徴兵逃れに父の学校の教師や貴族の家庭教師を勤めましたが、自制できない性格のため、どれも長続きしませんでした。彼は溢れる曲想をとどめることができず、次から次へと作曲しました。『冬の旅』六曲はある日の午前中に完成させています。手数をかけるのが面倒なのでいつも眼鏡を外さずに寝て、起きるとそのまま作曲に取りかかりました。天気が良いと三時頃に散歩に行き、夕方はガストハウス(宿屋兼食堂)で友人と大いに歓談しました。彼を知ることは直ちに彼を愛することだったと言われています。彼は誰をも拒絶せず、透明な誠実さ、並外れた謙虚さを持っていました。「彼は自分が世界で最も偉いと思ったことが一度もない数少ない音楽家の一人である」とグロウヴも書いています。
 当時、ウイーンで人気があった歌劇でフランツはついに成功しませんでした。それで、彼の収入は歌曲の楽譜を出版することからしか得られず、人々は彼の美しい曲の譜を争って買い求めたのですが、それでも収入は「顕微鏡的に」わずかなものでした。しかも彼はそれをほとんど友人への援助や食事に使ってしまったので、コーヒーとビスケットだけで何日も過ごすことがよくありました。同時代のベートーヴェンと比べてみましょう。ベートーヴェンは貴族とのつきあいがうまく、(彼の作品は主に王侯貴族に捧げられています)人々は神殿を参拝するように彼に会いにきました。シューベルトは反対に最下層の人々との交際を愛し、如何なる賞賛や注目からも身を退け、規則ばったことを一切嫌いました。それでも31歳でチフスで死ぬ数週間前から、絶望は彼を深く捉えていたのです。最後の仕事である『冬の旅』第二部の校正をしながら彼はきっと自分の生涯が絵のようにそこに展開されていくことに気づいたでしょう。「最後の希望」「道しるべ」「鴉」「自動オルガンのながし」「宿屋」などはいずれも孤独、絶望、貧乏、死、墓を歌ったものでした。彼は一銭も残さずに淋しく死にました。彼は「ウイーンが餓死するまで見過ごした二人の偉大な音楽家の一人」であるとグロウヴは『フランツ・シュウベルト』(1935岩波文庫・辻壮一訳)で書いています(もう一人はモーツアルト)。 彼の死後、部屋を訪れたシューマンは、残された厖大な遺稿を前にして、人間の願いが幾千という形をとるように彼の作品もまた多様を極めている、彼のような人間が生きていたという事実だけでこの世は生きる価値があるのだ、と述べています。

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コメント

はじめまして。
かわうそ亭さんから来ました。
今年初めに、
「今まで理解できなかったシューベルトに目覚めた。」を書いたところ、こちらの記事を紹介してもらいました。
とても興味深かったです。


投稿: MARU | 2006年1月 5日 (木) 23時22分

MARUさん、はじめまして。
コメントありがとうございます。MARUさんのブログもゆっくり拝見させていただきます。どうかこれからもよろしくお願いします。
 それでは         argus

投稿: argus | 2006年1月 6日 (金) 23時10分

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