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2005年12月31日 (土)

モーパッサン『ペルル嬢』

 25歳の「私」は王さままつりの夕に知人のシャンタル氏の家に招かれます。そこには56歳になるシャンタル氏とその妻、そして二人の娘とそしてもう一人、その家の同居人のペルル嬢という中年の女性がいました。食事が済んでデザートのケーキが運ばれてきます。取り分けられたケーキの中に陶器の小さな王さまが入っていると、その人はその夜の王さまで、一人の女性を女王として指名することができます。王さまが入っていたのは「私」だったのですが、「私」は迷わずペルル嬢を指名します。彼女がどういう女性か興味があったのですが、ペルル嬢は自分が指名されると意外な風に恥ずかしそうな顔をしました。皆は大はしゃぎで彼女をからかいます。温和で物静かなペルル嬢は家族の誰にも愛されていたのです。食事の後、テーブルを離れて、喫煙室で、「私」はシャンタル氏からペルル嬢の思いがけない過去を聞き出します。41年前、シャンタル氏の家の前に赤ん坊が捨てられていました。シャンタル氏の父親はその捨て子を育てる決意をし、布にくるんであった一万フランはその子の婚礼のための支度金にとっておくことにしました。その子はクレールと名付けられましたが、気だてのよさ、分をわきまえた控えめな物腰、美しい心から、いつしかペルル(真珠)と呼ばれるようになりました。「非のうちどころのない少女だった」とシャンタル氏は語りました。「実にきれいで、けなげで、透き通るような青い目をしていた、、、でも、たっぷりの持参金がありながらどうしても結婚しようとはしなかったんだ。私は、、六年前から婚約していた従妹と結婚したが、彼女はずっと独身を通していた、、、」それを聞いて「私」はシャンタル氏の表情を見、思い切って次の質問をします。「シャンタルさん、あなたが結婚の相手になるべきではなかったのですか」「なぜ?」「あなたは従妹さんよりペルル嬢の方を愛していらしたからですよ!」そういうとシャンタル氏は海綿から水がもれるように目からどっと涙を溢れ出しました。抑えていたものが一気に外に飛び出したように彼は激しく嗚咽を始めたのです。突然のシャンタル氏の急変に家族が集まってきました。「私」はペルル嬢を部屋の隅にそっと呼んで「シャンタル氏はあなたと結婚しなかったことを後悔しています」と告げました。その途端、ペルル嬢はショールを落とし、そのまま床に倒れ込んだのです。
 『ペルル嬢』(1955岩波文庫・杉捷夫訳)はモーパッサン(1850~1893)の35歳の時の短編です。結婚には神秘的なものがあって、決して結ばれない男女というものがいるようです。あまりに近きにいるがゆえに、あるいは家庭、家族の思惑から結婚に踏み切れない人々、「冷静に」考えすぎたがゆえに後悔の辛味を生涯抱いている人もいるでしょう。それでも「いつか二人は、おしころした痛ましい苦悩の思い出に、互いに手をとりしっかり握りあうだろう」とモーパッサンは書いています。そして二人は陶酔と狂気の感覚を味わうでしょう。「ほかの人間が生涯かかって摘みとりうる以上の幸福をつかの間の戦慄のうちに恋人同士に与えるあの狂気の感覚を!」
 皆様、2005年もあと少しで過ぎようとしています。この一年、つたない私のブログを読んで下さってほんとうにありがとうございます。明るいとはいえない、そして安穏に生きることの難しい世界ではありますが、せめて皆様はご多幸な新年を迎えられることをネットの片隅で祈っております。

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2005年12月28日 (水)

グロウウ゛『フランツ・シュウベルト』

 フランツ・シューベルト(1797~1828)はウイーンの貧しい学校長の家に生まれました。父や兄からヴァイオリンやピアノを習いましたが、弾き始めると直ちに二人を追い抜いてしまいました。11歳で聖歌隊付属学校の寮に入れられましたが、彼はシュパウンという同級生に「いつも作曲しなければいられないんだ、五線紙さえあればいくらでも作曲できるのに」と嘆きました。裕福な家の息子シュパウンは彼に五線紙を供給してやりますが、彼はまさにこの行為のゆえに音楽史にその名を残しています。シューベルト家は週末に帰宅するフランツを交えて家族演奏会を催すのが楽しみでした。父がチェロ、二人の兄が第一第二ヴァイオリン、フランツがヴィオラです。父はよく間違えて弾きました。最初はフランツは黙っていて、二度目に父が間違えると、彼は微笑しながら恥ずかしそうに「お父さん、どうも間違ったところがあるようです」と言うのでした。
 17歳で退学して、徴兵逃れに父の学校の教師や貴族の家庭教師を勤めましたが、自制できない性格のため、どれも長続きしませんでした。彼は溢れる曲想をとどめることができず、次から次へと作曲しました。『冬の旅』六曲はある日の午前中に完成させています。手数をかけるのが面倒なのでいつも眼鏡を外さずに寝て、起きるとそのまま作曲に取りかかりました。天気が良いと三時頃に散歩に行き、夕方はガストハウス(宿屋兼食堂)で友人と大いに歓談しました。彼を知ることは直ちに彼を愛することだったと言われています。彼は誰をも拒絶せず、透明な誠実さ、並外れた謙虚さを持っていました。「彼は自分が世界で最も偉いと思ったことが一度もない数少ない音楽家の一人である」とグロウヴも書いています。
 当時、ウイーンで人気があった歌劇でフランツはついに成功しませんでした。それで、彼の収入は歌曲の楽譜を出版することからしか得られず、人々は彼の美しい曲の譜を争って買い求めたのですが、それでも収入は「顕微鏡的に」わずかなものでした。しかも彼はそれをほとんど友人への援助や食事に使ってしまったので、コーヒーとビスケットだけで何日も過ごすことがよくありました。同時代のベートーヴェンと比べてみましょう。ベートーヴェンは貴族とのつきあいがうまく、(彼の作品は主に王侯貴族に捧げられています)人々は神殿を参拝するように彼に会いにきました。シューベルトは反対に最下層の人々との交際を愛し、如何なる賞賛や注目からも身を退け、規則ばったことを一切嫌いました。それでも31歳でチフスで死ぬ数週間前から、絶望は彼を深く捉えていたのです。最後の仕事である『冬の旅』第二部の校正をしながら彼はきっと自分の生涯が絵のようにそこに展開されていくことに気づいたでしょう。「最後の希望」「道しるべ」「鴉」「自動オルガンのながし」「宿屋」などはいずれも孤独、絶望、貧乏、死、墓を歌ったものでした。彼は一銭も残さずに淋しく死にました。彼は「ウイーンが餓死するまで見過ごした二人の偉大な音楽家の一人」であるとグロウヴは『フランツ・シュウベルト』(1935岩波文庫・辻壮一訳)で書いています(もう一人はモーツアルト)。 彼の死後、部屋を訪れたシューマンは、残された厖大な遺稿を前にして、人間の願いが幾千という形をとるように彼の作品もまた多様を極めている、彼のような人間が生きていたという事実だけでこの世は生きる価値があるのだ、と述べています。

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2005年12月25日 (日)

ルドルフ・ブルトマン『イエス』

 旧約の預言者たちがその民に要求したのは、ただ神への服従でした。人間は祭儀と潔めさえ守っておれば神の意志を満足させるという安易な宗教性に対して、預言者たちは十戒を手にしてひたすら神への服従を説いたのです。イエスもまた服従を説きました。しかし、そこには一つの根本的違いがあって、彼は服従の思想をその極限まで貫いたのです。葡萄畑の主人は、朝早く雇った者にも、昼間に雇った者にも、夕方雇った者にも同じ一日分の給料一デナリを支払いました。丸一日働いた労働者がその不公平に文句を言うと、主人は「私はこの最後の人にも君と同じだけやりたいのだ」と答えます(マタイ20・1)。このたとえは人間は神の前には何の要求も持ち出せないのだということを示しています。それは絶対的な服従にほかなりません。「汝、姦淫するなかれ」に対してイエスは「情欲をもって女を見る者はみな姦淫を犯すのだ」と言います。十戒が神の言葉であると同時に一般的に妥当しうる社会倫理であるに反して、イエスの教えは日常を超えた一方的命令で、ここでは人間の意志だけが問題となっています。神への服従においては中途半端は許されません。人を愛する者はその敵をも当然愛するのです。左の頬を打たれれば右の頬を出し、下着を盗まれれば上着も差し出すのです。だから、一般的な倫理というものはイエスには存在しません。終末は来たれりと彼は言います。そして彼の言に従って悔い改めするかどうかを人々に問います。この「あれかーこれか」の問いは絶対的であって、容赦のない、その人間の全実存をかけた決断なのです。
 イエスに倫理がないのと同様、また人格の発展や人間社会の理想なども彼には無縁です。それ自身価値ある行為なぞ彼には存在しません。徳論も義務論も彼にはありません。神に全面的に従順であろうと意志しているかどうか、自己の権利を全く断念しているかどうかだけが問題なのです。よって、信仰も無意味です。罪深き人はその決断の重さによって信仰厚き善人よりも救われます。修行も無意味です。人間が努力によって何かをつかみ取れるという考えほど不遜なことはありません。この絶対的な自己放棄にも救いはあって、それは一度決断したら二度と迷わずに済むということです。
 聖書の「非神話化」(聖書の神話的言語を現在の言葉に置き換える)で有名なルドルフ・ブルトマン(1884~1976)の『イエス』(1963未来社川端純四郎・八木誠一訳)は1926年に出た新約学における世界的名著です。あなたが1920年代のマールブルク大学の学生なら、朝7時からのハイデガーの哲学講義を受け、次にルドルフ・オットーの宗教学講義、お弁当を食べてブルトマンの聖書解釈学を聞けるでしょう。さらに、毎週木曜の夜にはブルトマンの家で「グレーカ」というギリシア書読解の夕べがあって、それに出席すると11時きっかりに一本のワインが供されます。倹約家のブルトマンは一回りして空っぽになったワインの瓶を横に寝かせて置き、たまった2、3滴を自分のグラスに注ぐのでした。この倹約精神は徹底して、彼の業績の多くは封筒や払い済みの請求書の裏に書かれたとも言われています。また彼は極端に時間を惜しみ、友人や家族との語らい以外は一秒も無駄にせず、余暇さえも綿密な計算のもとになされました。ましてや学問における誠実さはいうまでもなく、巨大な知識を蔵しながら、荘重ぶったり、レトリックを弄んだりせず、誰にも親切で心温まるユーモアを愛し、自身の非神話化にも成功して92歳の天寿を全うしました。

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2005年12月22日 (木)

メルロ=ポンティ『意味と無意味』

 『意味と無意味』(1983みすず書房・滝浦静夫、粟津則雄、木田元、海老坂武訳)は1945-47年の間の論文が収められています。第二次大戦後、フランスの思想界は実存主義に席巻されました。ナチ占領下のフランスでの知識人の生き方は常に状況への関わり方の選択でした。生死が傍らにある経験を通り過ぎたすぐ後は厳しい思索が流行るもので、インテリの溜まり場であったサン・ジェルマン・デ・プレのカフェーには世界中からスノッブが訪れました。軍服のままカフェー「ドゥ・マゴ」に来たヘミングウェイはサルトルに抱きついて「私は大尉だが、あなたは将軍だ」と言ったそうです。さて、メルロ=ポンティ(1908~1961)はサルトルの三歳年少で、実存主義の拠点「レ・タン・モデルヌ」の編集長を務め、44歳の若さでコレージュ・ド・フランスの教授になった俊秀ですが、53歳で心臓麻痺で仕事中に亡くなりました。幼少で父を失い、母親と弟妹と一緒にパリのアパルトマンで閉鎖的な少年時代を送りました。45歳のときの母親の死が決定的なものを彼にもたらしたと言われています。透明さと柔らかさが命である数々の収録論文から時代の雰囲気を最もよく伝える一編『ヘーゲルにおける実存主義』を紹介しましょう。これはヘーゲルの翻訳者で研究家のジャン・イポリットの講演について書かれたものです。
 メルロ=ポンティはまず1807年のヘーゲル、つまり『精神現象学』を書き上げた37歳のヘーゲルに私たちを誘います。私たちが苦痛で苦しんでいる時、健康な時の歓びを強く感じるように、生そのものは死の意識によって初めてほんとうに意識されるようになります。いわば、生の意識は根本的には死の意識に他ならないのです。人間は死を知らないでいることは誰にもできず、それができるためには動物に戻らねばなりません。人間は意識を失わずにいる限り悪い動物であると言えましょう。動物は与えられた生活に満足し、それを再生産することで事足りていますが、人間は生きるのではなく実存しているからこそ普遍的なものに達しうるのです。言い換えれば、人間は人間性の代償として実存という支払いをしなければならないのです。だから、健康な人間という観念は一つの神話にすぎません。「人間は病める動物である」とヘーゲルは書いています。人間を人間たらしめている意識は一つの不幸な意識であり、それは自分が二次的なものであることを知っていて、その出生の地である無垢の状態を懐かしんでいます。「ユダヤ教の歴史的使命はまさにこの分離の意識を全世界に広めることにあったので、イポリットが戦時中その弟子たちに言っていたように、われわれが普遍的なものへの配慮を持ち、ただ独りで存在することをあきらめず、実存しようと欲する限り、われわれはみなユダヤ人なのである」とメルロ=ポンティは書いています。こういう文章が、不安な魂を持ち、孤独のまま焦燥している戦後の青年たちを感激させたのです。
 「ぎりぎり最後まで語る者はいない」とモーリス・ブランショは友人メルロ=ポンティの突然の死について言いました。死は、いつも野蛮なやり方で、唐突に私たちを訪れます。「哲学は驚異の確証である」というメルロ=ポンティの美しい言葉を最後に記しておきましょう。
 

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2005年12月19日 (月)

アーサー・シモンズ『エスター・カーン』

 『エスター・カーン』(2001年平凡社ライブラリー・工藤好美訳)は私好みの短編小説です。まず、たいへん短い、珈琲一杯飲む間に読むことができます。さらに筋がシンプル、余計な伏線はなく、一点に収斂します。そして、素朴で現実的な事柄がこの世ならぬものの予感を生じさせるのです。
 エスターはロンドンの場末のユダヤ人の住む地域に生まれました。貧しい家庭なので小さい頃から針仕事をさせられていましたが、彼女は自分の中に何か現実ばなれしたもの、実現を待っているものを感じていました。唯一の楽しみは兄や姉に連れられて芝居小屋に行くことで、そこでエスターは初めて思う存分自分を忘れることができるのでした。やがて、彼女は自分でも演じることができるのではないかと思い、あちこちの芝居小屋の支配人を訪ねてみることにします。17歳の時、ある劇場主が彼女に小さな役を与えてくれました。それを立派につとめると、今度は独立した役が与えられ、そこで彼女の才能が開花しました。ある日、ウエスト・エンドの劇場の支配人が彼女を見に来て、現在準備中の劇の難しい役のためにエスターを雇いました。その役の成功は彼女をさらに大きな劇場の大きな役につかせることになり、新聞の劇評でもエスターを好意的にとりあげるようになります。彼女は女優として華やかな道を歩み始めるのですが、偉大な女優になるには何か決定的に自分に欠けているものがあると感じていました。同じ劇場のユダヤ人の老俳優に相談してみると、答えは彼女自身の中にあると言われます。つまり、恋を経験しなければならないというわけです。彼女は自分に寄ってくる男性の中から35歳の劇作家のフィリップを選びます。フィリップは知的で垢抜けして仕事のできる男でした。エスターは彼から演技や戯曲について教えてもらううちに次第に強く彼を愛するようになります。しかし、恋もまだ彼女の演技の実質を変えることはありません。そうこうするうちにフィリップは彼女の真剣な愛情を鬱陶しく感じるようになり、心は新しく入ってきたモデル出身の若い女に移ってきます。エスターは激しい嫉妬に狂い、フィリップとけんか別れすることになりました。そして、クライマックスがやってきます。新しい悲劇の初演の日、エスターは客席にフィリップとその新しい恋人を見つけました。身震いが彼女の中に起こりましたが、彼女はそれを抑え、舞台に全力を集中しようとします。その時、何かが彼女の中に生まれました。エスターはかつてないほどひかえめで、無理なく、ほとんど演技をしていないほどに演じました。観客は本当の悲劇のただ中に自分たちがいるように感じました。息をひそめ、その堪えがたい哀感に酔いしれました。圧倒的な時間の後で幕は偉大な女優になった彼女の上に降りました。フィリップは感激の手紙を彼女の楽屋に届けてきました。エスターはそれを手で潰したが、捨てずに宝石箱にしまいました。それは彼女にはもうどうでもよいことでした。生涯の大部分を通じて自分が求めてきたものがとうとう実現して、涙は抑えきれずに彼女の頬を流れ落ちたのです。
 『象徴主義の文学運動』の著者アーサー・シモンズ(1865~1945)はまた場末の芝居小屋を愛しました。「生はたえず私のそばを走りすぎる」と彼は書きました。「そのすべてをつかみとろうとして私は空しい努力を試みた」、、長い晩年を精神を患ったまま過ごしたこの唯美主義者はそのきらめきのいくつかを短編として残したのです。

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2005年12月16日 (金)

アンリ・ペリュショ『セザンヌ』

 ポール・セザンヌは裕福な子弟の通うエクスの中学校に入っていました。途中から一人の転校生がやってきて、低い背、異常に大きな頭、しかも地元人でなくパリっ子でおまけに母子家庭の貧乏人のゆえに徹底的にいじめられていました。学校の全員から追放され、いつも物陰で一人で泣いていたのです。ポールはこの男の子のやさしい性格を気づいていたので、ある日いつものようにその転校生がみんなにいじめられていたとき、敢然と彼をかばいました。生徒たちが一斉にポールに襲いかかり、拳が霰のように降りそそぎました。翌日、その転校生エミール・ゾラは感謝と友情のしるしとして林檎を入れた大きな籠を持ってポールのもとを訪れました。ずっと後になってセザンヌの林檎がほとんど画家の神話にまでなった時、彼はこの時のことを甘酸っぱい味とともに思い出すでしょう。
 エミールとポール、それにバスティタン・バイユが加わった三人組は学校内で inseparable と呼ばれるほど強固な友情によって結ばれました。暇があると彼らはそろってプロヴァンスの川で泳ぎ、山に登り、詩を朗読し、人生のどんな時でもこの友情に忠実に生きようと誓い合いました。三人には共通の野望が、芸術においてパリを征服するという野望がありました。卒業すると彼らはそれぞれパリに上り、各自の精進を始めました。ゾラは三人の友情を常に確認し合い、いつも三人にプロヴァンスの楽しかった日々を思い起こさせながら、しかも極貧の生活の中で全精力を栄光の獲得のために注ぎ込んでいました。セザンヌもまた試行錯誤を重ね、親の仕送りに頼りながら、ひたすら絵の勉強を続けました。ついにゾラは成功します。37歳の時、「ルーゴン・マカール叢書」の第七作目の『居酒屋』(1877)が好評を得、彼の小説は爆発的に売れ始めます。金持ちになったゾラはメダンに大邸宅を建て、セザンヌを招待しました。中世の武具、日本の着物、トルコの金細工など豪華な置物で溢れかえった俗っぽい屋敷にセザンヌは驚きました。一方、ゾラは依然として無名のセザンヌを落伍者として憐憫の情で見るようになります。ゾラ夫人は贈られたセザンヌの絵をみっともないので客から隠していました。1886年、47歳になってもセザンヌは無名でした。ゾラは『制作』という作品の中でセザンヌをモデルにした画家ランティエを主人公にし、彼が失敗者として落伍し自殺するさまを嘲笑をふくめて描きました。35年続いた友情がこれで終わったことをセザンヌは知りました。その年、銀行家だったセザンヌの父親が死んで、彼は莫大な財産を受け継ぎました。父親は銀行の会計書の隅に絵をびっしり描いている息子を見て、その将来をあきらめ、ボヘミアンとして生きるだろう息子が将来餓死しないよう遊んで暮らせるだけの金を必死に働いて残してくれたのでした。「この遺産がなかったら」とセザンヌは涙を浮かべて語っています。「私はパリの街路でいかがわしい版画を売る貧乏画家で死んだだろう」
 1895年、若い画商アンブロワーズ・ヴォラールが開いたセザンヌ展がパリの耳目を集め、人々がこの難解な絵をこぞって買い出しました。56歳のセザンヌはやっと相応の勝利を得たのです。その年、エクスにゾラが久しぶりに逗留にきたことを知ったセザンヌは懐かしさのあまり彼に会いに外に出ました。しかし、道の途中で人に呼び止められ、ゾラが自分の悪口を言っているのを聞いて、寂しく後戻りしていきました。1902年、ゾラがガス中毒で窒息死したのを聞いたとき、セザンヌは驚愕し「ゾラ!ゾラ!」と叫び、終日部屋に閉じこもって泣きました。「栄光とは」とアンリ・ペリュショは『セザンヌ』(1963みすず書房・矢内原伊作訳)で書いています。「青春の頃は輝く肉体を持った美しい乙女に思える。しかし、それは賞賛であり、呪詛であり、羨望、憎悪、屈辱、そして嘲笑的な死人の顔である」と。

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2005年12月13日 (火)

ゲルツェン『ロシヤにおける革命思想の発達について』

  ルイレーエフはニコライによって絞首刑に処せられた。
  プーシキンは38歳のとき決闘で殺された。
  グリボエードフはテヘランで暗殺された。
  レールモントフは27歳の時にカフカースで決闘で殺された。
  ヴェネヴィーチノフは22歳のとき社会によって殺された。
  コリツォーフは33歳でその家族に殺された。
  ベリンスキーは37歳で飢えと貧困のために殺された。
「わざわいなるかな、おのが預言者たちを石にて撃たんとする民は」とゲルツェンはマタイ伝25章を引用しています。1825年のデカブリストの乱以降、ロシア専制政府はその反動性を強め、二重の検閲、大学の閉鎖、女や子どもにいたる迫害が白昼公然と行われていました。流刑者を出さない貴族の家はなく、仲間うちで詩を朗読しただけで過酷な前線の兵隊に飛ばされる時代でした。「勇敢に語られた一語のためにー幾年にもわたる流刑、幾年にもわたる監視、ときには牢獄がひかえていたのである。それゆえにこそ、これらの言葉が語られ、これらの涙が流されたのだ、、」文学だけが、かろうじて心の奥底を吐露できる、そして人々に訴えることのできる道具でした。1837年、プーシキンがフランスから来た殺し屋の手にかかって決闘で殺されたとき、ペテルブルグ全市は彼のために悲しみに包まれました。遺体のある教区の教会へ向かう大勢の群集の姿を冬宮から見た皇帝はひそかに警察を使ってプーシキンの遺体を他の教会に移し、そこで司祭が追善の祈りをすますと、そりに乗せられた遺体は大急ぎで彼の故郷の修道院に運ばれました。あざむかれた群集がその教会へ移る時には雪がそりの後をすっかり消していたのです。
 アレクサンドル・ゲルツェン(1812~1870)はプーシキンと同じく裕福な貴族の家に生まれました。外国人の家庭教師と父の厖大な蔵書(フランスとドイツの哲学書を中心とした)が彼の少年時代の教養を形作りました。デカブリストの参加者への冷酷な処刑と農奴の悲惨さを深く感じた彼はモスクワ大学の頃から反政府的なサークルを主導し、2度の流刑の後、1847年に家族を連れて国外へ脱出しました。1851年にはジェノバ沖の汽船の転覆で母と息子を失い、同年に最愛の妻を亡くし、1870年に孤独のうちにパリで死にました。残された『過去と思索』(1854-1868)は世紀の最高の作品のひとつです。彼は目の当たりにした1848年のフランスの革命とその挫折で立憲性と民主主義の夢を砕かれましたが、なおロシアには西欧の失ったものが残されていると信じていました。しかし、ゴーゴリのように排他的なスラブ主義者にはならず、あくまでもフランス的合理的な態度を貫き通したのです。
 『ロシヤにおける革命思想の発達について』(1950岩波文庫・金子幸彦訳)は1851年に、西欧の知識人にロシアの現状を知らせるために亡命先のパリで書かれました。「希望のなかば、信仰のなかばは失われた」「しかし勝負はついていない、まだ戦いは続いている」「私はただひとつの和解をー完全なる敵意を主張する」
 あらゆる専横に対する憎しみこそゲルツェンの際立った特徴です。この書はペトロパウロ要塞監獄に出獄の望みないまま収容されているミハイル・バクーニンに捧げられました。

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2005年12月10日 (土)

H.ハイネ『流刑の神々・精霊物語』

 アルニムの『伯爵夫人ドローレス』の中で、長期の旅から帰ってきた老伯爵は自分の城が何か違っているのに気づきます。イタリア風の庭園は荒廃しており、夫人の振る舞いは奇妙で、食卓ではおかしなことが起こります。それは、哀れな妻が悲しみのあまり亡くなり、残りの召使いたちもとっくに死亡していたことに由来するのでしょう。やがて伯爵も自分は亡霊たちに囲まれていることを知るようになって、それと気づかせずにこっそり旅立って行きます。ハイネの愛したこの物語のように、彼は自分が亡霊たちの城の中に住む老伯爵であるかのように考えていました。そして彼も人知れず故国を旅立って行ったのです、ただし後髪を引かれる思いで。ハイネはフランスの明晰さ、革新さに憧れましたが、彼の友だちの幽霊たちはライン河の向こうでしか生きることはできません。「私がこの国に来たとき、ドイツの幽霊がフランスの国境までついてきた。しかし、幽霊たちはここで悲しそうに別れをつげたのだった。三色旗のはためきが、どんな幽霊たちも追っ払ってしまうからだ」人間的なものを愛するフランスには本当の幽霊など存在しない。またそれを理解することもできない。フランス人はホフマンに驚くが、ホフマンなどアルニムに比べれば児戯にひとしい、とハイネは書いています。
 『精霊物語』はドイツの愛すべき幽霊たちを他国の人々にそっと知らせるために書かれました。こびとのコーボルトは自分の姿を見えなくする小さな帽子を持っています。人間が誤って彼らを傷つけるとコーボルトたちはどこか他の土地に移って行ってしまいます。小さな精霊であるエルフェと水の中に住むエクセは踊りが好きで、しばしば人間の男を誘惑し、それで傷ついて後悔するのでした。ヴィリスは結婚式の前に死んだ花嫁たちの幽霊で、墓の中でじっとしていることができず、夜中に地上に上がってきて、群れをなしてダンスを踊ります。「神秘的な淫蕩さで幸せを約束するようにうなずきかけてくる」この花嫁たちに出くわした男性は死ぬまで一緒に踊り続けねばなりません。「人生の花咲くさなかに死んでいく花嫁を見た民衆は、青春と美がこんなに突然暗い破滅の手におちることに納得できなかった。それで、花嫁は手に入れるべくして入れられなかった喜びを、死んでからさがしもとめるのだという信仰が容易に生まれたのである」
 『流刑の神々』は三つのすばらしい昔話を含む奇怪で愛すべき作品です。キリスト教はその無慈悲で徹底的な悪魔祓いで異教の神々を北欧の寒風の中に追い払いました。かつての神々は商人や修道士や料理人に身をやつして細々と生き抜いているのです。北海の氷山の間の孤島にウサギを狩って暮らす孤独な老人はユピテルの変わり果てた姿で、かつてのギリシアの輝く陽光、壮大な神殿を夢見ています。ハイネの中ではこのユピテルが老ゲーテと重なって見えたに違いありません。異教の使徒、汎神論の詩人、神はすべての自然の中に均等に現れると信ずる科学者、それがゲーテです。彼にとって十字架は南京虫やニンニクや煙草のように不快なものであった、とハイネは言っています。
 『流刑の神々・精霊物語』(1980岩波文庫・小沢俊夫訳)は「愛情こそほんとうの魔術にほかならない」と書いた詩人ハインリヒ・ハイネ(1797~1856)の散文における傑作です。

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2005年12月 7日 (水)

カフカ『カフカ最後の手紙』

 1986年、プラハ国立文書館は古籍商から32通の手紙(そのうち23通は葉書)の束を買い取りました。それこそフランツ・カフカが死の数時間前まで、力が失せてペンが手から落ちるまで家族にあてて出した便りの束だったのです。その最後の手紙の中で彼は父親に「お父さんがぼくを市民水泳スクールに連れて行ってくれたときのこと」を書いています。水泳の練習が終わった後、二人でビア・ガーデンでビールを飲んだこと、いつかまた二人でビールをたっぷり飲む約束、豪快な父親の飲みっぷりに対して自分はちびちびしか飲めないこと、、、父親に対する劣等感は愛情と混じり込んで死の淵の傍らにいたカフカを少年時代のおぼろげな世界に誘います。
 プラハの労働災害保険局を辞めたカフカは死の数ヶ月前からユダヤ人サークルの林間学校で出会ったドーラ・ディアマントとベルリンで共同生活を始めました。(彼女の献身的な看病ぶりをマックス・ブロートは伝えています。「サナトリウムに移る時に雨と風の中、彼女は無蓋の自動車の端にずっと立って彼の防壁になろうとした」)。ベルリンの暮らしは法外なインフレのために年金暮らしのカフカには苦しいものでした。暖房費も洗濯代も払えず、食事は蝋燭の燃えさしで暖め、切手代が高いので葉書は隅の数ミリまでびっしり書き込まれていました。やがて、発熱が収まらなくなり、ウイーンのサナトリウム、そしてハイエク博士の診療所に移りました。ここで喉頭結核の末期症状が確認され余命いくばくもなしと診断されます。カフカ最後の数週間はウイーン郊外のドクトル・ホフマン・サナトリウムで過ごされました。痛みのため食べることはおろか水を飲むことも苦しい状況で、183cmの体は49キロまで体重が落ちました。結核は口蓋の一部まで破壊し、もはや外科的処置は不可能で局部へのアルコール注射で痛みを抑えるしかありません。一時、喉の具合が奇跡的に良くなったようだと医者に言われたときにはカフカはうれしさのあまり泣き出しました。彼はドーラを抱きしめ、今ほど命と健康が欲しいと思った時はない、と言いました。しかし病勢はまた進行し、ついに水も喉を通らなくなります。堪え難い喉の渇きとの闘い、その時に父親と飲んだビールを思い出したのです。今や喉をかろうじて通るのはアルコール飲料のみ、「もちろん、飲む量も、またその飲み方もお父さんには気に入ってもらえないでしよう。ぼくも気に入りません。でも、仕方がないのです。、、、いつかお父さんとグイグイ飲むやり方で飲んでみたくてたまりません。というのも、ぼくの酒量はそんなに多くないとしても、喉の渇きという点では誰にも引けはとらないからです、、」もはや、ドーラの書いた手紙の後に添え書きするしかできなくなり、突然、その筆跡は終わります。「彼の手から手紙を取り上げます。そうでなくとも、立派な出来映えでした。彼の願いであと2、3行だけ。とても重要なことらしいので、、」しかし、その2、3行を書くことはできませんでした。1924年6月3日41歳でフランツ・カフカは亡くなりました。『カフカ最後の手紙』(1993 白水社・三原弟平訳)は和解と慈愛と希望に満ちています。絶望はほんのひとかけらもそこには見られません。

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2005年12月 4日 (日)

廣津柳浪『八幡の狂女』

 赤坂溜池に一人で住む女主人のところに下婢として働いているお兼は突然の自分宛の電報に驚きます。開いてみると、何と父親急死の知らせ。お兼の利発さとその精勤ぶりに日頃感心していた女主人は当座のお金を気前よく渡して、お兼にすぐに故郷に帰るように言います。お兼は霊巌島から夜の乗合船に乗って朝方千葉の八幡村に上がりますが、実家では一人残された母親のお北が悲嘆にくれています。聞くと、父親の甚兵衛は林の中で何者かに殺されたとのこと。第一発見者で、かつ以前甚兵衛と喧嘩したことのある與九郎が疑われましたが証拠もなく放免されていました。しかし、お兼は、発見した経緯を語る與九郎の口ぶりに強い疑わしさを感じます。事実、與九郎はお北に横恋慕したこともあり、村では札付きの悪として知られていました。確たる証拠も発見されないまま未練を残して、初七日すぎにお兼は東京に戻ります。その夜、お兼はあれこれ考えて眠れません。突然の嬌声に女主人の槌野がお兼の部屋に行くと、お兼は槌野を識別できず、無意味なことを口走っているだけでした。翌日、お兼は庭の井戸のところで地引き網の唄を歌いながら釣瓶を引いています。お兼が完全に狂ったと思った槌野は医者を呼びますが、医者は田舎で静養させるように言います。早速、八幡村に電報が打たれ、叔父の太吉が迎えに来ますが、太吉も様変わりしたお兼を見て涙を流します。実家に戻ったお兼は娘の狂変に嘆く母親とともに精神病者を見る世間の目にさらされて生きていきます。一方、與九郎は毎日のように母親のお北のところへ来て脅しながら関係をせまろうとします。浜の鯨祭りの日、お兼が心配で東京から様子を見に来た槌野を交えて、皆は浜で鯨の解体を見物しますが、お兼は人込みに昂奮して踊り狂い、居合わせた與九郎に狂ったまま因縁をつけます。怒った與九郎はお兼とお北に殴り掛かりますが、いつのまにか鯨用の大包丁を持ったお兼が狂人の力で與九郎の胸を刺し貫きます。家に走り帰るお兼、それを追う槌野。部屋で遺書を書き、自首しようとするお兼を槌野はじっと抑えて、「このまま狂人の真似を通すんだよ」としっかり諭します。その後、お兼はすぐに釈放され、母お北とともに東京の槌野の家に転居して行きました。
 廣津柳浪(1861~1928)は明治29年に発表した『今戸心中』『河内屋』で一躍、紅葉露伴に次ぐ評価を得たのですが、数年経たずして創作力が衰え、昭和三年の葬儀では参加者も数少なかったということです。代表作の『今戸心中』は吉原の細密な描写と花魁吉里の純心さを描いて今も近代文学の傑作たり得ています。しかし。彼の作品の多くは「悲惨小説」と呼ばれたもので、極貧の人々や身体障害者、知的障害者の悲しい運命を描いたもので、その読後感の重たさは時代が進むにつれて読者を離れさせる要因になったようです。『八幡の狂女』(1901)は数少ないハッピーエンドの作品で、筑摩書房の明治文学全集「廣津柳浪集」に入っています。十六、七の娘にすぎないお兼が余りに利巧すぎるという批判もありますが、明治文学でこれほど溌剌とした少女もまた稀でしょう。

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2005年12月 1日 (木)

ゴーチェ『青春の回想』

 ハインリッヒ・ハイネはゲーテにはじめて会う前に、立派な挨拶の文句を長い間頭の中に準備していたそうですが、いざゲーテの前に出ると、何を言ってよいか判らず、ただ「イエーナからワイマールへくる街道の梅の樹には素敵に美味しい果実がなっておりまして、渇をいやすにはうってつけです」としか言えませんでした。巧妙な賛辞よりも、このような間抜けな言葉にむしろ気をよくした大ゲーテはやさしく微笑するに至ったということです。以上の話を枕に、テオフィル・ゴーチェ(1811~1872)はヴィクトル・ユゴーに最初に会ったときの感動を書き記しています。1830年2月の『エルナニ』上演の際、赤チョッキに長髪を垂らし、ロマン主義の勝利に貢献した戦功を手土産に、ゴーチェはネルヴァルに連れられて初めてユゴーの家を訪れました。ところが、ユゴーの住居の階段を上る時、靴に鉛でも入っているように足取りは重くなり、心臓が高鳴り、こめかみから汗が噴き出してきます。呼び鈴を引こうとすると恐怖にとらえられ、階段を四段とびで駆け下りました。三度目、友人に支えられて上ろうとすると、今度は足がぶるぶるふるえ、階段の中途で腰を下ろしていると、突然ドアが開いて、散歩に出ようとしたユゴーがアポロンの神のように光の中に姿を現しました。「アシュエリュス Assuerus の前に出たエステール Esther のように、私は危うく気を失うところだった」多くの美しい女からユダヤ女エステールを選んだ王のごとく、ユゴーの持つステッキはゴーチェには黄金の杖に見えたのです。ユゴーは別に驚いた様子もなく、ゴーチェを優しく、丁寧に助け起こして、散歩の計画をとりやめて彼らを書斎に招じ入れてくれました。彼の姿を見て悶絶する小詩人たちを見るのはユゴーには日常茶飯事のことだったのです。
 ゴーチェは貧しい家に生まれ、両親や二人の姉や妻や子を養うため苦労を重ねましたが、暗いところは少しもなく、温かく思いやりに溢れた性格は「やさしいテオ」と呼ばれるほどでした。彼の神は芸術であり、「何の役にもたたないものしか美しいものはない」という潔癖な芸術観を終世持ち続けました。『青春の回想』(1977冨山房百科文庫・渡辺一夫訳)は死の二年前から「ロマンチスムの歴史」と題されて雑誌に連載されたものの未完に終わった回顧録です。すでに小ロマン派の仲間の多くは悲劇的な末路を遂げていました。ゴーチェも心臓病の苦しさの中で家計のために書き続けねばならなかったのですが、書くにつれて、彼の最も華やかだった日々、ユゴーの『エルナニ』上演の際の思い出に筆は集中していきます。開演八時間前から館内に陣取り、幕開けの台詞、 ...c'est bien a l'escalier derobe. からすでに古典派とロマン派の怒号が始まったあの昂奮した時を、、。
 この本の忘れ難い箇所は『エルナニ』上演からずっと経って、ゴーチェがスペインのアスチガラガ地方の近くをロバに乗って旅しているところでしよう。宗教戦争で荒廃した町を通るとき、ゴーチェが馬子にその町の名を聞くと馬子は「エルナニ」Ernani と答えました。その瞬間、旅に疲れた彼の頭の中に、青春の一ページが、仲間たちの顔が、舞台の上のドン・カルロスが、桟敷席の美しいジラルダン夫人が、そして書斎の白い大理石のような広い額を持ったユゴーのことが思い出されました。スペインで育ったユゴーはきっと響きの良いこのエルナニという名を覚えていて、後年、種が実るようにあの作品に結実したのだろうと、、。

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