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2005年11月13日 (日)

ヨーゼフ・ロート『聖なる酔っぱらいの伝説』

 ヨーゼフ・ロートはホテルの部屋が好きで、生活の臭いのする一般家庭を嫌っていたということです。そうであるなら、彼はやはり放浪の生活が好きだったのです。安住せず、公園のベンチで、安ホテルの一室で、カフェのテーブルで、ラム酒入りの珈琲や強いペルノー酒を飲みながら、新聞を読み、街路に目を走らせ、時折は小説を書き流し、ほとんどは酔っぱらって、昔の友人の顔を思い出したりするのが、、。何と気楽で楽しい生活でしょう!『聖なる酔っぱらいの伝説』( 1989 白水社・池内紀訳)はパリ、セーヌ河の橋の下に暮らす浮浪者の物語で、これ以上ない幸福な死に方をした男の物語です。一文無しのアンドレアスは、朝、橋の下で目覚めたところを、改心した慈善家の男に呼び止められ、二百フランをもらいます。もし、返す気があるなら、サン・マリー教会の小さな聖テレーズの像にその金を供してくれと頼まれますが、何はともあれ、安酒場で一杯やっていると、今度は金持ちの男に二百フランで引っ越しの手伝いを頼まれます。それで得た金を酒手に変えて酔いつぶれていると、今度は中古の財布を店で買ったところ、千フランが中に入っていました。それでまた酒場でぐでんぐでんになっていると、昔の恋人に会い、散財してしまいます。かろうじて残った二百フランを持って日曜日にサン・マリー礼拝堂に行くと、景気付けに入った礼拝堂前のカフェで昔の友人に会い、再び泥酔してしまいます。小さな聖テレーズの像に是非とも二百フラン返そうと、酔っぱらった足でかろうじて立ち上がると、そこに澄んだ青い服を着た少女が店に入ってきます。アンドレアスはよろめきながら近寄って「こんなところで何をしているの?」と聞くと、両親がミサから帰るのを待っている、と少女は答えました。「なんて名前?」「テレーズ」「やはり、そうか!」とアンドレアスは叫びます。聖女さまがわざわざ彼のところに来てくれたと思ったアンドレアスは感激して、その瞬間心臓発作を起こして倒れてしまいます。少女はあわてて礼拝堂から司祭を呼んできますが、アンドレアスは財布を収めた左の内ポケットに手をのばして、「ほら、テレーズさま!」と言って、こと切れてしまうのです。
 巧妙な、考え抜かれた小説です。奇跡のような幸運な出来事が次々起こって、最後に現れたのが聖テレーズならぬテレーズという名の現実の少女でした。短編の名手クライストなら、これとは全く逆のことを、つまり過酷な現実の展開の最後に本物の聖テレーズを出現させたに違いありません。しかし、ロートはクライマックスを現実の世界に引き戻すことで、逆に作品全体を聖化したのです。最初に主人公に二百フラン与える慈善家の男(彼によって物語が回りはじめます)は神でなくて何でしょうか。
 ヨーゼフ・ロート(1894~1939) は、あの黄金の20年代を特派員としてヨーロッパ中を駆け回りました。その後ユダヤ人としてナチの魔手を逃れながら(妻は精神病者として隔離され、殺されました)ホテル暮らしの荒んだ生活の中で彼は酒に溺れて、45歳の若さで死にました。時代が彼に課したものは放浪しながら書き続ける作家としての運命であり、彼はその苦い杯を陶然と飲み干したのです。

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