« ギャスケル『女だけの町』 | トップページ | 丁玲『霞村にいた時』 »

2005年11月 1日 (火)

ラーベ『雀横丁年代記』

 これは不思議な小説です。『エリア随筆』の「夢のなかの子ども」のように、最後にすべてが夢だったとしても、この物語の魅力と深みは失われることはないでしょう。19世紀中頃のベルリン、にぎやかな中心街からやや離れた狭い街路、曲がった暗い横町、そこの古い建物の上階に住む老人ヴァッハホルデルは窓にもたれて11月の淡い初雪を見つめていました。彼はもう何年も何年もこの街路に住んでいるのです。老年は希望と思い出が入れかわるとき、目を瞑ると見覚えのある姿、聞き覚えのある声がこの街路の石畳の上に木霊します。しかし、目を覚ますと、思い出の世界は消えて、冷たくもの悲しい孤独な老人の現実が現れてきます。その時、ゾヒィーエン教会の四時の鐘が鳴りました。同時に全市の鐘が早くも暗くなりかかった空に低く繰り返し響き渡ります。雀横丁の暗い小店にも明かりが灯り始めました。その時、素晴らしい考えが老人の頭に浮かびました。彼は昂奮して部屋の中を歩き回ります。「雀横丁年代記だ」そして一帖の紙をとり、最初の一頁を書き始めます。思い出の頁は綴じ合わされるにつれ夢と史実、過去と現実が交錯して、複雑な陰影を伴い、その横丁に眠っていた過ぎ去りし日々の秘密、悲しみ、喜びが立ち現れてきます。
 ヴィルヘルム・ラーベ ( 1831~1910 ) の『雀横丁年代記』( 1937 岩波文庫・伊藤武雄訳)は彼の処女作にして代表作です。戦争で疲弊したドイツで、底辺に生きる人々は希望のない過酷な毎日を送っていました。ヴァッハホルデルの向いの三階に住む踊り子は、仕事が休めないために死に瀕した息子の看病もできません。一階の靴屋の家族は貧乏な生活の果てに新大陸アメリカに向けて移住していきます。ヴァッハホルデルの思い出の中でも、若くして死んだ天使のような金髪のマリーは、雀横丁の人々の涙の中を、粗末な黒い棺に入れられて花々でなく地味な枝に飾られて墓地に運ばれます。マリーはヴァッハホルデルの初恋の人であり、彼の親友フランツの妻となった人でした。妻を亡くしたフランツは失意の中、幼い一人娘を親友に託して後を追うように死んでいきます。その娘エリーゼは成長するにつれて横丁を明るくする小さな太陽となるのです。この貧しく暗い横丁には、いや貧しく暗い横丁だからこそ、人々のやさしさが際立って輝きを放ちます。貧乏な放浪漫画家のシュトローベルはクリスマスに樅の木の枝を拾ってクリスマスツリーを作り、踊り子の子どもを喜ばせようとします。横丁の人気者、哲学士のヴィンメルはいつも冗談で皆を笑わせています。彼は新聞に政府を誹謗した論文を書いて所払いとなり、黒いむく犬とともにミュンヘンに帰っていきます。シュトローベルも春になり旅に出、エリーゼも結婚してイタリアに移住します。再び孤独の中に戻ったヴァッハホルデルは、将に消えようとするランプの下で、疲れた手で窓を閉め『雀横丁年代記』の最後の一行を書き記します。「さらば、汝、夢見る偉大なる祖国よ、さらば、汝、小さき狭き暗き横丁よ」愛国者ラーベにとって、ドイツの最も愛すべきもの誇らしきものはこの横丁とその人々に象徴されていたのです。

|

« ギャスケル『女だけの町』 | トップページ | 丁玲『霞村にいた時』 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« ギャスケル『女だけの町』 | トップページ | 丁玲『霞村にいた時』 »