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2005年11月28日 (月)

A. ウェイリー『李白』

 李白(701~762)が仙道において失敗したことは明らかでしょう。「白髪三千丈 愁いによってかくのごとく長し」錬金術の秘薬にもかかわらず、彼は年よりも早く老け込んだのです。高額の謝礼金を積んで手にした道教の免許状も彼の任官の助けにはなりませんでした。持続的な清貧の生活が仙人の条件なのに彼は酒と女に溺れていました。性格にも大いに問題があります。高慢、冷淡、放恣、無責任、不正直、彼自身も自分には一つしかすぐれた資質がないがそれは義侠心であると言っています。「しかし、そう言っているのは彼だけであり、またその義侠心はほとんど援助を必要としない人々にたいして発揮されたように思われる」とアーサー・ウェイリー(1889~1966)は1950年に刊行した『李白』(1973 岩波新書・小川環樹、栗山稔訳)で皮肉っています。
 李白は大商人の家に生まれ、その出自から科挙の試験を受けられなかったともいわれていますが、彼はその生涯を通じて地位を得るために悪戦苦闘していました。有名な「南陵別児童入京」の中で自分を前漢の朱買臣になぞらえています。朱買臣がいつかきっと実現してみせると常に断言してはばからなかった高言は餓死寸前の妻に嘲笑されていました。朱買臣は最後には宰相となりました。「会稽の愚婦 買臣を軽んず、、、我輩、豈是れ蓬嵩の人ならんや」自分もまた野に埋もれる人間ではないというのです。李白は42歳頃、知人の紹介で宮廷に職を得ました。官職ではなく、詩人として公的に必要な時に文章を書くだけの仕事で、彼には泥酔していてもこなせる仕事だったはずです。しかし、宮仕えは苦労多く、李白は再び放浪の旅に出ました。彼は四度結婚しましたが、家を持ったことはありません。不思議に家柄の良い女ばかりを選び、ろくに仕事もしないのに十分な酒と食事にこと欠いたことはありませんでした。
 この男には際立った特徴があったのです。李白に会った人の多くは、会って即座に自分が異常な天才の前に立っているのだと実感しました。生き生きとしたひとみ、その不思議なひらめきは人々にかつてない強い印象を与えたのです。杜甫がはじめて李白に会ったのは彼が33歳、李白が44歳のときでした。二人はわずか二度しか会いませんでしたが、「杜甫は短い友情の記憶を別れてのち約15年間も大切に心にとどめ、そして李白を夢みて目覚めたとき、沈んでいく月の光の中に、彼がずっと以前に知っていた李白の真の姿をなおありありと見るのだった」とウェイリーは書いています。杜甫は「冬の日に李白を思って」「春の日に李白を思って」「世界の果てにいる李白を思って」「李白を夢見て」など十四篇の詩を李白に捧げています。李白の詩は現実の描写から一気に神秘の領域に分け入ります。
  将登太行雪暗天   将に太行に登らんとすれば 雪 天を暗くす
  閑来垂釣坐渓上   閑来 釣を垂れて 渓上に坐す
  忽復乗舟夢日邊   たちまち復た舟に乗って 日辺を夢む
 太行山に登ろうとすると雪が山を満たした。それで私は静かに釣り糸を垂れ灰色の流れのほとりに座った。突然、私はふたたび舟に乗り、夢に太陽のかかる地平線を見た、、。この舟は神秘主義の舟で、この詩はエミリー・ディキンソン(1830~1886)の詩と符合する、とウェイリーは書いています。
   Past the houses , past the headlands
   Into deep eternity.
   家々をすぎ、岬をすぎて、深い永遠の中へ。

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2005年11月25日 (金)

ピエール・ロチ『お菊さん』

 ピエール・ロチ(1850~1923)は、その時代に相応しく懐疑主義と自然主義の子でした。彼は人生を隈無く、飾らず、その細部にいたるまで観察し、描写しようとしたのです。真実は地味な( humble) ものだというモーパッサンの金言はまたロチの心にも銘記されていました。彼はさらに若年で信仰を捨て、あらゆる逡巡にもかかわらず二度とキリスト教に戻ってくることはありませんでした。死は彼にとって肉体が無になること、すべてが虚無(neant) になることに他なりません。人生の夏はその次の夏へ、そのまた次の夏へ、長く続くが無限ではない陰鬱な暗き世界への道程に過ぎないのです。
 1885 年7月、海軍大佐として巡洋艦ラ・トリオンファント号の修理のため長崎に停泊したときのロチはそのような人間でした。彼は9月に中国に出帆するまでの2か月間、周旋屋を通じてお菊という娘と愛人の契約を結びます。そして、長崎の街の高台の寺の一室を借りて、ロチの初めての日本での夏がはじまりました。彼はこの長崎という街を、人を、そして女たちを曇りない目で観察しようとします。「この日本にはある本質的なものが欠けている」と彼は書いています。それがロチと日本の間に「神秘的な恐ろしい深淵」を感じさせるが、しかし、「それは、、、終わるべきすべてのものに避けられぬ憂鬱である」と結論します。彼は正直に、ヨーロッパ人の優越を信じ、日本人の醜さを笑います。美的に書くことを用心深く避けてはいますが、ロチによって描かれた長崎の夏の日々は感動的なまでに美しい、どしゃ降りの雨、蝉の音、祭りの喧噪、色鮮やかな提灯、もの憂く悲しい三味線の音、そして寺までの長い坂を「いつも疲れた子どものように、いつも甘ったれて悲しそうな子どものように」のろのろと腕にもたれて登っていくお菊さんを読者はきっと愛さずにはおれないでしょう。
 私は佐藤剛『失われた楽園』(1988 葦書房)の中で、ロチの『死と憐れみの書』の中の「老夫婦の唄」という話を知りました。ロチは長崎でトトさんとカカさんという老夫婦に出会いました。トトさんは盲目ですがカカさんの乗る箱車を引いています。中風病みのカカさんは箱の中からトトさんに方向指示を与えています。二人は乞食をしているのですが、ロチは町の人々がある尊敬を持って彼らに施しを与えているのを見て驚きます。やがてカカさんが死ぬと町の人は彼女を埋葬し、死者の汚れた道具類を洗い、整頓してやったりします。トトさんは一人でなおも空っぽの箱車を引いて乞食に出かけます。「トトさんはどこへ行くのだろう」とロチは自問します。しかし、「カカさんはやがて日本の植物、杉の小枝や一重椿や竹になるだろう」と結んでいます。ピエール・ロチは1923年死亡して、遺体は祖先の墓のあるオレロン島に埋葬されました。遺言によって棺には鶴嘴(つるはし)の数撃が加えられました、できるだけ早く土の中に帰るように、そして死が無意味でないことの証としてその上を花々が覆うように、、、。

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2005年11月22日 (火)

イザベル・レイトン編『アスピリン・エイジ』

 「このわきかえる年月の間に、わたしたちは、すべてを癒してくれる万能薬を探し求めてきたのだが、結局あたえられたものはアスピリン程度のものにすぎなかった」イザベル・レイトン編『アスピリン・エイジ』(1979 ハヤカワ文庫・木下秀夫訳)では、1919年から1941年、つまりベルサイユから真珠湾にいたる期間のアメリカにおけるさまざまな出来事が、22人の有名無名の著者によって語られていきます。何という時代だったでしょうか。禁酒法、K.K.K、サッコとヴァンゼッテイ、リンドバーグ家の悲劇、大暴落、ニューディールとフランクリン・ルーズベルト、ルイジアナの独裁者ヒューイ・ロング、プリンス・エドワードとシンプソン夫人、オーソン・ウェルズの「火星人来襲」、ラジオの人気牧師、無能な大統領たち、リパブリック製鋼所でのデモ隊への発砲・惨殺などなど、それは失業者が街にあふれ、銀行が次々と閉鎖され、チャップリンの『街の灯』に行列ができ、五つ子の誕生に全米が沸いた時代でした。時代を彩ったエピソードの中で、最もささやかなものを紹介しましょう。それはジョーエル・セイヤーの「出っ張りの男」です。
 1938年7月26日火曜日の朝八時すぎ、ニューヨーク市警のグラスコ巡査は五番街と55番街の交差点付近の人だかりに気づきました。彼はアイルランド系の35歳のがっしりした巡査で、その日の朝、家を出るとき妻から、夕食は彼の大好物のレバーとベイコンだと告げられたばかりでした。上を見ると、何とホテル・ゴーサムの17階の出っ張りの上に男が立っています。急いで現場に上がってみると、高級スゥイートの部屋の窓から妹が懸命に外の兄を説得しています。出っ張りの上の男はジョン・ウイリアム・ウォードという26歳の裕福な青年でした。昂奮した妹はその場に倒れ、急遽グラスコが説得を引き継ぎました。彼はボーイの白い制服を着て、愛想よく男に話しかけます。「やあ、こんにちは、ジョン」「あなたは誰ですか」「おれはこんどこのゴーサムで働くことになった新しいボーイだよ。今まで失業救済で生きてきたんだが、やっと職にありついた。きみに万一のことがあると、おれはクビになるかもしれない。おれも女房も三人の子どももまた救済手当で生きていくんだ」「それはいけない。そうあってほしくありません」と徐々にジョンはグラスコに心を開き始めます。グラスコは話しながらも常にジョンを引っ張り込めるチャンスを狙っていました。しかし、ジョンは用心して、タバコも左手でわたしてくれるよう、また飲み水も必ずグラスコに毒味させてから飲みました。「ジョン、きみのひいきのカブスの試合が今日ニューヨークであるよ、これからいかないか?」「相手はどこです?」「ドジャースさ」「ぼくはドジャースの試合は見たくありません」といつもあと一歩のところで話は頓挫してしまいます。午後になり、真下の通りは見物人であふれ、ラジオは生放送で全米に二人の様子を伝えています。女占い師や狂信者や出しゃばりの人間がホテルに押し掛け、自分こそジョンを助けられると売り込んでいます。グラスコは医師を交えた作戦会議の時以外はずっとジョンのところにへばりついていますが、緊張の時間の連続で疲労が限界にきていました。しかし、ついにジョンに水やコーヒーを大量に飲ませる作戦が効を奏し、部屋を空っぽにして、ジョンが洗面所を使うことを承知してくれました。「ここに鍵があるから。終わったらまた戻るといい」むろん、カーテンには屈強の男たちが隠れています。そして、ジョンが出っ張りから窓のところまで近寄って、部屋の中をうかがったとき、何ということでしょう、どこからかホテルに忍び込んだ牧師が隣の部屋のドアから入ってきたのです。(神を恐れることを教えてやる、と彼は叫んでいました)再びジョンは出っ張りに戻り、さらに心は閉ざされました。夕闇がおとずれ、サーチライトの下、すぐ下の16階の窓からかけられる巨大な網の準備が始まりました。事件発生から11時間経過して、グラスコが作戦会議で窓を離れた時、「ワァ、飛んだ!」と下で叫び声が起こりました。グラスコは窓にかけより、その瞬間涙がわっと出てきました。翌日の新聞は大衆の熱狂を非難しながらも平然とジョンの無惨な死体の写真を掲げていたのです。

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2005年11月19日 (土)

アンドレーエフ『ラザロ』

 マルタとマリアの兄弟であるラザロが病気であるという知らせを受けてイエスはユダの地に向かいました。しかし、到着した時ラザロはすでに死んでおり、墓に葬られて四日が経っていました。「主よ、遅すぎました」とマリアが言うと、心に憤りを覚えたイエスは墓の石を取り除かせ、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫びます。すると体中白い布に巻かれたラザロが墓から現れてきます。アンドレーエフ(1871~1919)の傑作短編『ラザロ』(国書刊行会バベルの図書館『ロシア短編集』金澤美知子訳)はここから始まります。墓から蘇ったラザロは死臭を放ち、顔は青黒くむくんでいます。親類の者は集まって祝宴を催しますが、かつて明るい性格だったラザロは暗く寡黙になり、その眼差しは地獄の底をのぞき見るような不気味さを帯びていました。ラザロと目を合わせた者は、例外なく陰鬱になり、果ては精神に錯乱を起こす者まで現れます。彼の目を見た彫刻家はおぞましくも奇怪な作品を作り出しました。やがて、ラザロの噂は皇帝アウグストウスの耳に入り、興味を持った皇帝は彼をローマに呼び寄せます。宮殿の広間で、ラザロの目の奥を見たアウグストウスはそこに自らの死と帝国の没落を見て、怒り狂い、ラザロの眼を熱い鉄棒でえぐり出させました。盲目になったラザロは荒野をさまよい、その行方は杳として知れないのです。
 「レオニード・ニコラエヴィッチ・アンドレーエフは取り消し不能なものについての形而上学者である」と哲学者ウラジーミル・ジャンケレヴィッチは書いています(『最初と最後のページ』(1996 みすず書房・合田正人訳)「ラザロは復活した。けれども、ラザロが一度も死者たちの国の住人でなかったかのようにすることは誰にもできはしない。キリストでさえどうすることもできない。、、、かつて存在したものの痕跡を抹消し、その形骸を残らず消滅させ、その思い出をどんなに些細な思い出も含めて余すところなく扼殺することができるにしても、この点に変わりない。たとえ五分の間であっても、死んだ者は永久にその徴しを帯びたままであろう、、。永遠に、世紀の果ての果てまで、死んだという事実は抹消不能な心の聖痕のごときものでありつづける」ジャンケレヴィッチ(1903~1985)はロシア系ユダヤ人で医師である父の下にフランスで生まれ、ナチスに身内の多くを殺された後、ドイツ哲学とドイツ音楽から訣別しました。彼がアンドレーエフに抱く共感は、迫害と追放の果てに死んだこの作家(アンドレーエフ)がやはり消え去らぬものへの執着を持っていたからに他なりません。ジャンケレヴィッチの少年時代に、母親が子どもに隠れて涙しながら読んでいた本、1905 年以来のロシアでの破局的出来事、フランスでの悲劇をくぐって奇跡的に残された小さな本、そして晩年の彼の枕頭の書となったのはアンドレーエフの『七死刑囚物語』だということです。

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2005年11月16日 (水)

フォークナー『八月の光』

 引き込まれるようにその世界に体ごと浸かっていく、『八月の光』(1962新潮文庫・加島祥造訳)は、そんな魅力に満ちています。その理由は恐らく二つあって、一つは登場人物の面白さ、牧師のハイタワーや狂信家のマッケカンや偏屈で暴発性のハインズ老人などなどは尽きせぬ人間への興味(私は思想には興味はない、人間に興味がある、とフォークナーは書いています)を駆り立ててくれるのです。もう一つは重層的な語り口で、一つの出来事が複数の視点から書かれることは、情報が様々なレベルからもたらされる私たちの現実の受け取り方に一致しています。「(フォークナーは)自分の描く迷宮的世界は等しく迷宮的な技巧を要請していると信じていたように思われる」とボルヘスは書いていますが、この批判はよい意味で当たっています。その効果は読者を飽きさせないことで、それは映画をみるごとく場面がいきなり変わる新鮮さをもたらすのです。
 この小説のあらすじは簡単で、自分に黒人の血が混じっていると信じているクリスマスという男が、ジョアナ・バーデンという女性を殺害し、リンチをうけて死ぬという話です。主人公のジョー・クリスマスはこの小説で、唯一、性格がはっきりしない人間です。彼がなぜジョアナ・バーデンを殺さねばならないのかもわかりません。ただ、彼が孤独な人間であること、人から理解されることを極度に嫌っていることはわかります。ここに
忘れ難い場面、作家がその技巧を超えてラファエロ的な神妙の領域に分け入る場面があります。クリスマスがミス・バーデンを殺害するその朝に、彼は森の中で焚火をしながら大衆雑誌を読み始めます。最初からずっと、絶えず同じ調子でページを繰りながら、時には一つのページに、一行に、一語にとらわれながら、時折目をあげて谷にかかる樹の葉が光を浴びるのを見ながら、最後の一ページまでゆっくりと残りなく読んでいきます。彼はこの間にジョアナ・バーデン殺害を決意するのです。雑誌を読み終わって目を上げ、彼はまぶしい太陽の光を目に受けます。この光こそ、ミシシッピで八月に一、二度訪れるという秋のような強い日差し、ギリシア的な、人間の心の奥底から止めようのない激しさで差してくる「八月の光」なのです。
 ウィリアム・フォークナー(1897~1962 ) はミシシッピ州北部のオールバニーに生まれました。五歳のときから近在のオックスフォードに転居、ここが、数々の作品の舞台となる架空の町ジェファソンのモデルとなりました。郵便局、銀行など職を転々とし、名作『死の床に横たわりて』を書いたときは発電所で一日十時間の肉体労働をこなしていたということです。ずっと後になって、彼は自分が故郷を書き続けていることについて「それは切手のように小さな町だが、一生かけても書き尽くせないものがそこにはある、、、そこで私は神のように自由なのだ」と言っています。地に蠢く人間への限りない興味、その中に全宇宙が凝縮されているという確信、それが不撓の作家フォークナーの要石(keystone) なのです。

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2005年11月13日 (日)

ヨーゼフ・ロート『聖なる酔っぱらいの伝説』

 ヨーゼフ・ロートはホテルの部屋が好きで、生活の臭いのする一般家庭を嫌っていたということです。そうであるなら、彼はやはり放浪の生活が好きだったのです。安住せず、公園のベンチで、安ホテルの一室で、カフェのテーブルで、ラム酒入りの珈琲や強いペルノー酒を飲みながら、新聞を読み、街路に目を走らせ、時折は小説を書き流し、ほとんどは酔っぱらって、昔の友人の顔を思い出したりするのが、、。何と気楽で楽しい生活でしょう!『聖なる酔っぱらいの伝説』( 1989 白水社・池内紀訳)はパリ、セーヌ河の橋の下に暮らす浮浪者の物語で、これ以上ない幸福な死に方をした男の物語です。一文無しのアンドレアスは、朝、橋の下で目覚めたところを、改心した慈善家の男に呼び止められ、二百フランをもらいます。もし、返す気があるなら、サン・マリー教会の小さな聖テレーズの像にその金を供してくれと頼まれますが、何はともあれ、安酒場で一杯やっていると、今度は金持ちの男に二百フランで引っ越しの手伝いを頼まれます。それで得た金を酒手に変えて酔いつぶれていると、今度は中古の財布を店で買ったところ、千フランが中に入っていました。それでまた酒場でぐでんぐでんになっていると、昔の恋人に会い、散財してしまいます。かろうじて残った二百フランを持って日曜日にサン・マリー礼拝堂に行くと、景気付けに入った礼拝堂前のカフェで昔の友人に会い、再び泥酔してしまいます。小さな聖テレーズの像に是非とも二百フラン返そうと、酔っぱらった足でかろうじて立ち上がると、そこに澄んだ青い服を着た少女が店に入ってきます。アンドレアスはよろめきながら近寄って「こんなところで何をしているの?」と聞くと、両親がミサから帰るのを待っている、と少女は答えました。「なんて名前?」「テレーズ」「やはり、そうか!」とアンドレアスは叫びます。聖女さまがわざわざ彼のところに来てくれたと思ったアンドレアスは感激して、その瞬間心臓発作を起こして倒れてしまいます。少女はあわてて礼拝堂から司祭を呼んできますが、アンドレアスは財布を収めた左の内ポケットに手をのばして、「ほら、テレーズさま!」と言って、こと切れてしまうのです。
 巧妙な、考え抜かれた小説です。奇跡のような幸運な出来事が次々起こって、最後に現れたのが聖テレーズならぬテレーズという名の現実の少女でした。短編の名手クライストなら、これとは全く逆のことを、つまり過酷な現実の展開の最後に本物の聖テレーズを出現させたに違いありません。しかし、ロートはクライマックスを現実の世界に引き戻すことで、逆に作品全体を聖化したのです。最初に主人公に二百フラン与える慈善家の男(彼によって物語が回りはじめます)は神でなくて何でしょうか。
 ヨーゼフ・ロート(1894~1939) は、あの黄金の20年代を特派員としてヨーロッパ中を駆け回りました。その後ユダヤ人としてナチの魔手を逃れながら(妻は精神病者として隔離され、殺されました)ホテル暮らしの荒んだ生活の中で彼は酒に溺れて、45歳の若さで死にました。時代が彼に課したものは放浪しながら書き続ける作家としての運命であり、彼はその苦い杯を陶然と飲み干したのです。

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2005年11月10日 (木)

モルナール『リリオム』

 18歳の女中のユリは遊園地でリリオムという男に出会い、一緒に暮らし始めます。リリオムはならず者で、遊び好きで、手に職もなく、結婚しても働かず、すぐ妻を殴るどうしようもない男で、親類からも、近所の人間からも鼻つまみ者になっています。しかも、ユリの妊娠を知ったリリオムは、大金を手にしてユリとアメリカに渡ろうと、ヘマな犯罪に加担し、自殺に追い込まれてしまいます。瀕死のリリオムの体が警官の手でユリの部屋に運ばれてきます。ここで文学の世界が織りなす最も美しい場面のひとつが始まるのです。ユリは担架の端に腰掛けます。リリオムが手を伸ばすと、ユリがその手をそっと握ります。「さてと、俺あな、お前、こいつだけは今言っとかなきゃあならねえ」とリリオムは苦しい息の下で話します。「うん、俺あお前を打ったな、、、けど、ありゃあ腹が立ったからじゃあねえんだぜ、、、そうじゃあねえんだ。俺あ、人の泣くのが見てられねえからなんだ、、、俺あ、お前を殴った、、、だが、お前、わかってくれるな、俺が間違ってたわけじゃあねえってことを、、」「ええ」「さあ、それじゃあ、俺の手を握ってくれ」「さっきからずっと握ってるわ」「じゃあ、、、いよいよリリオムはお前に言うぜ、さよならって。お前も言ってくれろよ」「さよなら」とユリが言うと、リリオムは息を引き取ります。ほどなく、友人や近所の人が部屋に入ってきてユリを慰めますが、同時に、リリオムのような男は死んだ方がよかったのだ、これであなたも女を殴るような男と別れられてよかった、と皆が言い出します。「そうね」とユリも同意しますが、早速持ち出された再婚の話はきっぱり断ります。やがて、友人たちが帰って行き、一人になったユリはリリオムの遺体にそっと話しかけます。「さあ、もうお休みなさい、リリオム、ほかの人たちには何もわかっちゃいないのよ。あんたにさえ一度も言ったことなかったけど、、、今だから言うわ、、本当のことを言うわ、、仕様のない、悪い、いけない人、、、可愛い、大事な人、、さあ、もうお休みなさいね、リリオム」
 この物語で、ユリもリリオムも一度も相手に正面きって告白することができません。愛していると言うことは二人にとってとても恥ずかしいことなのです。高貴な心はそこでこそ輝くのです。そして、物語はここで終わらず、あの世に逝ったリリオムは、そこで天国の書記官に16年の浄めの刑の後、再び地上に戻って、妻と娘に償いをするよう命じられます。ところが、不器用なリリオムはここでも気持ちを伝えられず、娘のルイーズの手を打ってしまいます。そして、肩を落として天国に戻っていくリリオム。ルイーズは不思議な顔で打たれた手を見ます。「お母さんにも、こういうことあった?誰かに打たれて、それでも痛くなかったてことが」「ええ、あったわ」とユリは答えます。ハンガリーの生んだ天才、モルナール・フェレンツ(1878~1952 )の戯曲『リリオム』1909年(1951岩波文庫・徳永康元訳)はこうして終わります。

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2005年11月 7日 (月)

ディルタイ『体験と創作』

 ディルタイ(1833~1911)の『体験と創作』(1961岩波文庫・小牧健夫、柴田治三郎訳)は1865年から 77年にかけて書かれた、レッシング、ゲーテ、ノヴァーリス、ヘルダーリンについての文学評伝です。その中でノヴァーリスについて紹介しましょう。
 フリードリッヒ・フォン・ハルデンベルク(1772~1801)筆名ノヴァーリスは、貴族である鉱山監督官の父のもとにヴァイセンヘルツで成長しました。18歳でイエーナ大学入学、その頃の彼を知人は「(服装は)いかにも質素で、貴族の生まれを思わせるものはなく、丈が高くほっそりして、顔は浅黒い褐色、まじめで温和で親しみやすい。知らない人の前では何時間も静かに瞑想にふけりながら座っていることができた」そうです。22歳の時、行政官見習いとしてテンシュテットに赴任、その上官はノヴァーリスの優れた実務の才能、一つの仕事を何度もやり直す根気強さについて語っています。この時、隣の領地グリューニンゲンで当時12歳のゾフィー・フォン・キューンと運命的な出会いをします。「その最初の一瞥は彼の全生涯を決定した」のです。ノヴァーリスはゾフィーについて、「早熟、煙草を吸う、怒りっぽく感じやすい、驚くべき猫かぶりの天才」等々と愛らしいわがまま娘の肖像を書いています。朝もやの中、夕焼けの下、馬に乗ってグリューニンゲンにゾフィーに会いに通う日々、この頃が彼の最も幸せな時期でした。翌年、二人は婚約、ところがゾフィーが肝臓潰瘍のため二度の苦しい手術を受けた後に死亡してしまいます。その瞬間、彼の幸福な時間は停止し、彼は彼女の死んだ日から日付を数え始めます。「自分は一年以内に、自分自身の決意に従い、ゾフィーと一緒になろうとする憧憬の力だけで死ぬだろう」と彼は書きました。ここに彼の天才がある、とディルタイは書いています。彼はティークや、A.W.シュレーゲルなどと違い、人生を詩のための材料としてでなく、真実の感情のために、それに自然な仕方で身を委ねる自由人として生きたのです。
 ここに現実が、感情の隙間をぬって踏み込んできます。死のうとする意志が薄れ、生への、学問・芸術への欲求が湧いてきます。「あの人は目に見えて変わった。顔が長くなって、コリントの花嫁のように現世の臥床からひょろひょろと立ち上がってきたようだ」とシュレーゲルは書いています。1798年、彼は鉱山監督官の娘、ユリー・フォン・シャルパンティエと婚約、これによってゾフィーは彼の心の中で永遠の子どもらしさから脱し、完成した女へ、宗教的世界へ、天上の女性へ昇華していく筈でした。しかし、そうはならなかったのです。未完になった『青い花』の続編の構想の中で、主人公ハインリヒは少女に導かれて死者の住む修道院へ導かれます。ノヴァーリスは、かつてゾフィーが輪廻を信じていたこと、それについて彼も深く考えたことを思い出して、自分の運命の記念碑たるこの作品の思想的背景にしようとしたのです。若くして死んだ婚約者のマティルデはハインリヒをその情熱的憧憬のあらゆる力をもって死者の国に引きずりおろします、、、ノヴァーリスはユリーとの結婚の直前、1801年に大喀血し、静かに眠るように29歳の生涯を閉じました。彼は友人に次のように書いています。「あのひと(ゾフィー)は私をたえずとりまいています。あのひとは私の生活の始めでありましたー私の生活の終りにもなるでしょう」

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2005年11月 4日 (金)

丁玲『霞村にいた時』

 1930年代後半、中国共産党は農村に拠点を置いて日本軍と戦っていました。共産党員である作家の「私」は休養と執筆のため二週間の予定で霞村に滞在することになります。霞村は中国の普通の村で、山裾に並んだ洞穴の一つに「私」は荷物と毛布をひろげました。同じ頃、貞貞(チェンチェン)という十八歳のきれいな娘が一年以上離れていた霞村に帰って来ていました。「私」は村人から、貞貞が、日本軍侵攻の時に村から拉致され、さんざん汚された挙句病気をうつされ、ぼろぼろの体になり放免されて帰ってきたと聞かされます。村人は不潔なものを見るように貞貞を見、自分たちとは違う人種のように貞貞を扱います。男たちは陰で噂し、女たちは彼女を軽蔑していました。「私」はふとしたことから貞貞と言葉を交わすようになりますが、意外にも貞貞は明るく、自分の運命を甘受し、誰をも恨んでいないように見えました。その平然とした態度に「私」はかえって貞貞の悲しみの深さを推し量りますが、彼女が何か言い出せないものを内に隠していることも感じられてきます。
 ある日、「私」は貞貞の実家の辺りで騒ぎが起こっているのに気づきます。人だかりを押し分けて入ってみると、貞貞が髪を振り乱し、目をぎらつかせ、大声でわめきながら手当り次第に物を放り投げています。女どもが必死に彼女を抑え、土間の上では両親が泣き崩れ「この一年というもの、お前のおかげで、おらたちがどんな目にあったかわかんねえのかえ」と叫んでいます。貞貞は囚われた野獣のように残忍な顔をして、歯をくいしばって、あくまでみんなと対峙するという気勢を見せていました。「私」は貞貞の気を静めて、ひとまず自分の洞穴に連れていこうとしますが、貞貞はそれを振り切って後ろの山の中に駆け上がっていきました。その後、「私」が政治部へ引き返す準備をしていると、貞貞がそっと洞穴の中に入ってきました。貞貞は先日とはうってかわって平静な様子をしています。「私もあした出かけます」と彼女は言いました。「これからは知らない人の中で、夢中で暮らしたほうがいいんです、、。会が私を××へやって私を治療してくれるそうです。あそこは大きな町で、学校もたくさんあって誰でも入れるそうです。みんなでひとところでいがみあったっていいことなんか何もないんです。、、人間というものは、何も両親のものでも自分だけのものでもないんでしょう。みんなは私が若くて根性がねじ曲がっていると言うけれど、わかってもらえなくてもいいんです」
 丁玲(1907~1986) は1931年に共産党に入党しましたが、1957年毛沢東一派に『霞村にいた時』のような「小ブルジョア知識人」の作風を批判され、79年に復権するまで長く隠棲を強いられてきました。しかし、『霞村にいた時』(1956 岩波文庫・岡崎俊夫訳)は彼女の清心な心持ちが沁みでた佳作です。作者は貞貞という少女に出会い、驚きと同時に感動を受け、それを冷静に素朴に読者に伝えようとしています。結論を急がないのは、人生は謎に満ちているからで、文学がそこに立ち入るとき、いかなるイデオロギーもその援助にはなりえないからに他なりません。

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2005年11月 1日 (火)

ラーベ『雀横丁年代記』

 これは不思議な小説です。『エリア随筆』の「夢のなかの子ども」のように、最後にすべてが夢だったとしても、この物語の魅力と深みは失われることはないでしょう。19世紀中頃のベルリン、にぎやかな中心街からやや離れた狭い街路、曲がった暗い横町、そこの古い建物の上階に住む老人ヴァッハホルデルは窓にもたれて11月の淡い初雪を見つめていました。彼はもう何年も何年もこの街路に住んでいるのです。老年は希望と思い出が入れかわるとき、目を瞑ると見覚えのある姿、聞き覚えのある声がこの街路の石畳の上に木霊します。しかし、目を覚ますと、思い出の世界は消えて、冷たくもの悲しい孤独な老人の現実が現れてきます。その時、ゾヒィーエン教会の四時の鐘が鳴りました。同時に全市の鐘が早くも暗くなりかかった空に低く繰り返し響き渡ります。雀横丁の暗い小店にも明かりが灯り始めました。その時、素晴らしい考えが老人の頭に浮かびました。彼は昂奮して部屋の中を歩き回ります。「雀横丁年代記だ」そして一帖の紙をとり、最初の一頁を書き始めます。思い出の頁は綴じ合わされるにつれ夢と史実、過去と現実が交錯して、複雑な陰影を伴い、その横丁に眠っていた過ぎ去りし日々の秘密、悲しみ、喜びが立ち現れてきます。
 ヴィルヘルム・ラーベ ( 1831~1910 ) の『雀横丁年代記』( 1937 岩波文庫・伊藤武雄訳)は彼の処女作にして代表作です。戦争で疲弊したドイツで、底辺に生きる人々は希望のない過酷な毎日を送っていました。ヴァッハホルデルの向いの三階に住む踊り子は、仕事が休めないために死に瀕した息子の看病もできません。一階の靴屋の家族は貧乏な生活の果てに新大陸アメリカに向けて移住していきます。ヴァッハホルデルの思い出の中でも、若くして死んだ天使のような金髪のマリーは、雀横丁の人々の涙の中を、粗末な黒い棺に入れられて花々でなく地味な枝に飾られて墓地に運ばれます。マリーはヴァッハホルデルの初恋の人であり、彼の親友フランツの妻となった人でした。妻を亡くしたフランツは失意の中、幼い一人娘を親友に託して後を追うように死んでいきます。その娘エリーゼは成長するにつれて横丁を明るくする小さな太陽となるのです。この貧しく暗い横丁には、いや貧しく暗い横丁だからこそ、人々のやさしさが際立って輝きを放ちます。貧乏な放浪漫画家のシュトローベルはクリスマスに樅の木の枝を拾ってクリスマスツリーを作り、踊り子の子どもを喜ばせようとします。横丁の人気者、哲学士のヴィンメルはいつも冗談で皆を笑わせています。彼は新聞に政府を誹謗した論文を書いて所払いとなり、黒いむく犬とともにミュンヘンに帰っていきます。シュトローベルも春になり旅に出、エリーゼも結婚してイタリアに移住します。再び孤独の中に戻ったヴァッハホルデルは、将に消えようとするランプの下で、疲れた手で窓を閉め『雀横丁年代記』の最後の一行を書き記します。「さらば、汝、夢見る偉大なる祖国よ、さらば、汝、小さき狭き暗き横丁よ」愛国者ラーベにとって、ドイツの最も愛すべきもの誇らしきものはこの横丁とその人々に象徴されていたのです。

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