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2005年10月29日 (土)

ギャスケル『女だけの町』

 エリザベス・ギャスケル (1810~1865 ) の『女だけの町』( 原題は CRANFORD ,1986 岩波文庫・小池滋訳 ) はクランフォードという田舎町を舞台にして中上流の老婦人たちが織りなす日常生活の何でもない物語です。ミス・マティーは牧師の娘で、おとなしく引っ込み思案で心優しい女性ですが、子どもの頃から、しっかりした父親と頭の良い姉の指図によって生きてきました。若いとき従兄のトマスに求婚されるのですが、家柄のほんの少しの違いを理由に家族に反対されました。その後、父と姉が続いて亡くなった後で、50歳を過ぎてトマスに偶然再会します。彼もマティーに断られてからは独身を通し、クランフォードの近くで小さい農場を経営していました。晴れたある日に、老いたトマスは自分の農場にマティーとその友人の婦人たちを招待します。小ぎれいで美しい庭、本の詰まった居心地よい書斎、そこでトマスはマティーに礼儀正しくパイプに煙草を詰めてくれないかと頼みます。そして飾り気のない客間での食事の後、女性たちはトマスの家を去ります。マティーはそれからぼんやりと窓辺に座って毎日を過ごしました。トマスが訪問のお礼に来るのを待っていたのです。ある日、トマスがやってきて、パリにいくから用事はないかと尋ねます。一同が驚いていると「死ぬ前に一度パリを見てみたいのです」とトマスは言いました。そして帰ってくると床についてやがて息を引き取ります。「パリになど行かなければよかったのに」とマティーはただその一言だけを語ります。物語は、マティーの親類の若い娘の目を通して語られているので、マティーやトマスが抱いた感情は書かれてはいません。淡々と人物の表層だけが語られていきますが、そこにこの物語の奥深さがあるのです。美しい庭と居心地よい書斎はもしかしたらマティーがそこの主になったかも知れないもの、つまり人生のわかれ道に選びとらなかったものの象徴です。パイプに煙草を詰めるのを頼むことは再度の求婚を表し、パリはまたトマスの選びとれなかったもの、そして最後に手に入れたものの象徴でしょう。
 ギャスケルはロンドン郊外のチェルシーで下級の公務員を父として生まれましたが、一歳すぎに母を亡くし、マンチェスター近くの小さな町ナッツフォードに住む伯母の手で育てられました。心温まる町の人々の思い出は、その町をモデルにしたこの小説によく表れています。21歳のとき牧師のウイリアム・ギャスケルと結婚、34歳のとき、猩紅熱による長男の病死の後、悲しみを忘れるために小説を書き始め、たちまちヨーロッパ中に名を知られたベストセラー作家となりました。みごとな語り口、物語の面白さ、あふれるばかりの愛情は、ディケンズやオースティンにも見られないものです。この小説を読む時は、私は誰もいない静かなところでそっとページを繰ります。マティーの弟ピーターが厳格な父親に殴られて(やさしい母に別れを告げて)家出するところでいつも涙が出てしまうからで、インドにたどり着いたピーターが母親に送った白い更紗のショールは母親の死んだ翌日に届きます。一度きりの人生で取り返しのつかぬことのなんと多いことでしょう、、、。

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