« ドーデー『風車小屋だより』 | トップページ | ヴァッケンローダー『芸術を愛する一修道僧の真情の披瀝』 »

2005年10月20日 (木)

福田恆存『演劇入門』

 ジェイムズ・バリーの童話劇『ピーター・パン』の中の、妖精ティンクが死ぬ場面で、突然ピーター・パンは観客席の子どもたちに向かって叫びます、もしきみたちが妖精の存在を信じるならティンクは生き返る、妖精がいると思うなら手をたたいてくれ、と。子どもたちはティンクを生かしたい一心で夢中になって手をたたきます。もちろん、子どもたちは現実には妖精の存在を信じていないかもしれません。でも、おそらく、できれば存在してほしいと思っているでしょう。ティンクが死にそうになったのは舞台の上の子どもたちが夢や妖精を信じなくなったからです。それなら自分たちが、ピーター・パンを助けてティンクを生き返らせようと決意するのです。昂揚し、行動し、そしてそれが報われるとき、日常生活で得られないカタルシスが得られます。翌日はまた教科書のつまった鞄を背負って、いじめっ子のいる学校に行かねばならないとしても、いやそれでもいいのです。孤独であることを忘れた一瞬の体験の享受は、一週間、一ヶ月、いや一生こころの中に忘れ難い痕跡を残すかもしれません。一方、ピーター・パンを演じる俳優も、自分とは全く違う役柄を演じる興味、普段決して使わない台詞をいう快感、人を夢中にさせる喜びを味わいます。演劇とは役者が自分の欲望を満足させながら、同時に観客の欲望をも満足させるところに理想の姿があります。「演劇のリアリティは舞台にあるのではない。それは劇場のなかに、芝居小屋のなかに、平土間にあるのです。俳優たちを助けて観客が芸術の創造に参与するということ、いや、逆に俳優が観客の創造行為を助けるということ、それが大事なのです」と福田恆存は書いています。 ディズニーのアニメ『ピーター・パン2』ではウェンディは大人になったのでピーター・パンの姿は見えません。大人になって見えなくなるもの、失ってしまうものを私たちは芸術の中で蘇らせます。こころいっぱい叫ぶ力があればティンカー・ベルはまた生き返るのです。
 『演劇入門』( 1981 玉川大学出版部 ) には福田恆存のエッセンスが凝縮しています。シェークスピアについての深い学識は彼をして我が国の演劇の容赦ない批判に向かわせました。そこには演出中心主義の近代演劇に対する強い不満があります。(演出家や幹部俳優を「先生」と呼ばせる愚かさはいつから始まったのでしょうか)。その不満は、慌てて西欧文化を移入して、その魂までを理解しなかった近代日本への批判でもあります。
 

|

« ドーデー『風車小屋だより』 | トップページ | ヴァッケンローダー『芸術を愛する一修道僧の真情の披瀝』 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« ドーデー『風車小屋だより』 | トップページ | ヴァッケンローダー『芸術を愛する一修道僧の真情の披瀝』 »