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2005年10月29日 (土)

ギャスケル『女だけの町』

 エリザベス・ギャスケル (1810~1865 ) の『女だけの町』( 原題は CRANFORD ,1986 岩波文庫・小池滋訳 ) はクランフォードという田舎町を舞台にして中上流の老婦人たちが織りなす日常生活の何でもない物語です。ミス・マティーは牧師の娘で、おとなしく引っ込み思案で心優しい女性ですが、子どもの頃から、しっかりした父親と頭の良い姉の指図によって生きてきました。若いとき従兄のトマスに求婚されるのですが、家柄のほんの少しの違いを理由に家族に反対されました。その後、父と姉が続いて亡くなった後で、50歳を過ぎてトマスに偶然再会します。彼もマティーに断られてからは独身を通し、クランフォードの近くで小さい農場を経営していました。晴れたある日に、老いたトマスは自分の農場にマティーとその友人の婦人たちを招待します。小ぎれいで美しい庭、本の詰まった居心地よい書斎、そこでトマスはマティーに礼儀正しくパイプに煙草を詰めてくれないかと頼みます。そして飾り気のない客間での食事の後、女性たちはトマスの家を去ります。マティーはそれからぼんやりと窓辺に座って毎日を過ごしました。トマスが訪問のお礼に来るのを待っていたのです。ある日、トマスがやってきて、パリにいくから用事はないかと尋ねます。一同が驚いていると「死ぬ前に一度パリを見てみたいのです」とトマスは言いました。そして帰ってくると床についてやがて息を引き取ります。「パリになど行かなければよかったのに」とマティーはただその一言だけを語ります。物語は、マティーの親類の若い娘の目を通して語られているので、マティーやトマスが抱いた感情は書かれてはいません。淡々と人物の表層だけが語られていきますが、そこにこの物語の奥深さがあるのです。美しい庭と居心地よい書斎はもしかしたらマティーがそこの主になったかも知れないもの、つまり人生のわかれ道に選びとらなかったものの象徴です。パイプに煙草を詰めるのを頼むことは再度の求婚を表し、パリはまたトマスの選びとれなかったもの、そして最後に手に入れたものの象徴でしょう。
 ギャスケルはロンドン郊外のチェルシーで下級の公務員を父として生まれましたが、一歳すぎに母を亡くし、マンチェスター近くの小さな町ナッツフォードに住む伯母の手で育てられました。心温まる町の人々の思い出は、その町をモデルにしたこの小説によく表れています。21歳のとき牧師のウイリアム・ギャスケルと結婚、34歳のとき、猩紅熱による長男の病死の後、悲しみを忘れるために小説を書き始め、たちまちヨーロッパ中に名を知られたベストセラー作家となりました。みごとな語り口、物語の面白さ、あふれるばかりの愛情は、ディケンズやオースティンにも見られないものです。この小説を読む時は、私は誰もいない静かなところでそっとページを繰ります。マティーの弟ピーターが厳格な父親に殴られて(やさしい母に別れを告げて)家出するところでいつも涙が出てしまうからで、インドにたどり着いたピーターが母親に送った白い更紗のショールは母親の死んだ翌日に届きます。一度きりの人生で取り返しのつかぬことのなんと多いことでしょう、、、。

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2005年10月26日 (水)

『20世紀イギリス短編選』

 『20世紀イギリス短編選』( 1987 岩波文庫・小野寺健編訳 ) の(上)にはキプリングからH.E. ベイツまで12人の短編が収められています。その中でモームの「ルイーズ」とフォースターの「岩」を紹介しましょう。サマセット・モーム (1874~1965 ) は冷笑的で辛辣な目で人生を見ました。医学を修めた彼は人間を解剖することが得意で、その臓器と同様に「正常さは人生においては極めてまれなことだ」という結論に達しました。科学者にしばしば見られる人間性に対する傲慢さは彼の中にも顔を出しています。わけ知り顔で皮肉屋、人生の機微に通じているが、人々の共感から遠く離れて、陰でこっそり笑っている男、それがモームです。名作『剃刀の刃』のような長編では表立たないが、短編ではその意地の悪さが直截に出てしまいます。この「ルイーズ」も自分をか弱い女性にしつらえて、次々と周囲の人間を自分の犠牲に仕立て上げていく「狡猾な」女性を主人公にしています。誰でも経験する人生のほろ苦さと後悔、それをゆっくり味わえるほどになった時、モームの作品はギネスのビールのように苦く快く胸にしみわたってくるでしょう。
 E.M. フォースター (1879~1970 ) の「岩」は何かを考えさせる作品です。ある男が避暑地の海岸で舟遊びをしている時、船が海上に突き出ている岩にぶつかって転覆し、男はその岩にしがみついたまま助けを待ちます。危ういところで土地の漁師に助けられた男は、その漁師たちにどんなお礼をしようか迷うことになります。金銭で償うのは簡単で、男も漁師たちも経済的に困窮しているわけではありません。しかし、男は一命を救われたということ、ふたたびこの世の光を、風を、鳥を、花を感じられるということの代償をどんなもので支払えるのか深く考えてしまいます。避暑地の村では漁師や村人が、彼がどんな形でお礼ををしてくれるか心待ちにしています。そして、男は答えを出します。「無料(ただ)だよ、助けてくれた報酬は無料だ」「何もお礼をしないということ以外、この世でわたしにできることはない」男は妻にそう言って、必要な金だけ妻に残して全財産を貧しい人々に寄付し、一文なしの身で村に行き、命を救ってくれた人々に施しを求めました。村人は失望し、さんざん彼を非難し、果ては彼をバカだと思うようになります。
 「墓に入る前にも人生の真理を見ぬける人がいる」とフォースターは書いています。「そういう人を羨ましいとは思わない、、、肉体を持っているあいだは、卑俗なまま、そんな真理とは無縁でいたいものだ」と。

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2005年10月23日 (日)

ヴァッケンローダー『芸術を愛する一修道僧の真情の披瀝』

 絵画におけるロンバルジア派の祖、フランチェスコ・フランチャは貧しい手職人の子に生まれ、並外れた忍苦と熾烈な野望によって当代最高の画家の一人と呼ばれるまでになりました。故郷のボローニアはもちろん全イタリアにその令名を馳せ、多くの諸候は彼の作品を競って手に入れたのです。当時、若きラファエロはローマにいて、やはり人々の賞賛の中にいたのですが、彼もフランチェスコの作品をその時代最高の作品と評していたのです。一方、フランチェスコは年老いた今までボローニアから一度も遠くに出たことはなく、ラファエロの描いた絵を見る幸福に恵まれませんでしたが、色々な記述から推量して、自分の絵はラファエロに匹敵し、あるいはそれを凌駕し得ると思っていました。
 ある日、フランチェスコは突然のラファエロからの私信に驚きました。その書中、ラファエロは、ボローニアの聖ヨハネ寺院に供せられる聖チェチーリアの祭壇の絵を仕上げたので貴兄のもとに送る、ついては移送で絵が損じた時か、あるいは絵自体に見落としか欠点があった時は、どうかいつでも自由に直し改めていただきたいと、彼らしい謙虚さで記していました。フランチェスコは驚くとともにラファエロのような人が彼に加筆を認めたことに嬉しくもありました。
 ある時、彼が外出先から帰ると、弟子たちが彼を急ぎ迎えて、今ラファエロの絵が着いたので先生のアトリエの最も美しく見える場所に置いておいたことを大喜びで話しました。フランチェスコは我を忘れて走り込んで、、、そしてラファエロの絵の前で雷に打たれたように茫然と立ち尽くしました。彼は自惚れの頂点から真っ逆さまに落ちたのです。フランチェスコは、神々しいラファエロの作品の前で、自分を彼より高く置いた罪をどんなに苦しく償わねばならなかったことでしょう!彼は手で白髪の頭を打ち、痛切な呵責の涙を流しました。自分の全生涯は徒労だった、愚かさの上塗りの連続だった、今、年老いてそれを悔いねばならないとは、、。彼は床に崩れ落ち、弟子たちに抱えられて自室に運ばれました。そして、ほどなく寝台の上で冷たくなっている彼を弟子たちが発見したのです。ヴァザーリの伝えるこの話にヴァッケンローダーは「こうして、この人は崇高なラファエロに対して自分を全くとるに足らぬ人間と自覚したことによって本当に偉大になった」と書いています。フランシスコ・フランチャこそ芸術の苦しみの真の体現者として聖列に加えられるべき人物なのです。
 ヴァッケンローダー (1773~1798 ) の『芸術を愛する一修道僧の真情の披瀝』( 1939 岩波文庫・江川英一訳 ) は熱く、清々しい告白の書です。枢密顧問官の家に生まれ、法律で身を立てることを強いられながら、芸術の中にしか自分を見いだせず、苦しい葛藤の中で、神経熱で二十六歳で逝った彼の生涯そのものこそドイツ・ロマン派の魂の一部を成しているのです。

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2005年10月20日 (木)

福田恆存『演劇入門』

 ジェイムズ・バリーの童話劇『ピーター・パン』の中の、妖精ティンクが死ぬ場面で、突然ピーター・パンは観客席の子どもたちに向かって叫びます、もしきみたちが妖精の存在を信じるならティンクは生き返る、妖精がいると思うなら手をたたいてくれ、と。子どもたちはティンクを生かしたい一心で夢中になって手をたたきます。もちろん、子どもたちは現実には妖精の存在を信じていないかもしれません。でも、おそらく、できれば存在してほしいと思っているでしょう。ティンクが死にそうになったのは舞台の上の子どもたちが夢や妖精を信じなくなったからです。それなら自分たちが、ピーター・パンを助けてティンクを生き返らせようと決意するのです。昂揚し、行動し、そしてそれが報われるとき、日常生活で得られないカタルシスが得られます。翌日はまた教科書のつまった鞄を背負って、いじめっ子のいる学校に行かねばならないとしても、いやそれでもいいのです。孤独であることを忘れた一瞬の体験の享受は、一週間、一ヶ月、いや一生こころの中に忘れ難い痕跡を残すかもしれません。一方、ピーター・パンを演じる俳優も、自分とは全く違う役柄を演じる興味、普段決して使わない台詞をいう快感、人を夢中にさせる喜びを味わいます。演劇とは役者が自分の欲望を満足させながら、同時に観客の欲望をも満足させるところに理想の姿があります。「演劇のリアリティは舞台にあるのではない。それは劇場のなかに、芝居小屋のなかに、平土間にあるのです。俳優たちを助けて観客が芸術の創造に参与するということ、いや、逆に俳優が観客の創造行為を助けるということ、それが大事なのです」と福田恆存は書いています。 ディズニーのアニメ『ピーター・パン2』ではウェンディは大人になったのでピーター・パンの姿は見えません。大人になって見えなくなるもの、失ってしまうものを私たちは芸術の中で蘇らせます。こころいっぱい叫ぶ力があればティンカー・ベルはまた生き返るのです。
 『演劇入門』( 1981 玉川大学出版部 ) には福田恆存のエッセンスが凝縮しています。シェークスピアについての深い学識は彼をして我が国の演劇の容赦ない批判に向かわせました。そこには演出中心主義の近代演劇に対する強い不満があります。(演出家や幹部俳優を「先生」と呼ばせる愚かさはいつから始まったのでしょうか)。その不満は、慌てて西欧文化を移入して、その魂までを理解しなかった近代日本への批判でもあります。
 

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2005年10月17日 (月)

ドーデー『風車小屋だより』

 アルフォンス・ドーデ ー(1840~97) は毎年冬になると故郷のプロヴァンスの、松林の続く小さな山の麓に滞在していました。そのすぐ近くに廃墟となって使われていない風車が立っていて、そのみすぼらしい姿、雑草の下に見失われた道、地中海の北風に揺られた古い風車は詩人の心を強くとらえました。彼はそこからパリに住む友人たちへの手紙の形をとってたくさんの短い物語を書いていきました。『風車小屋だより』( 1932 岩波文庫 桜田佐訳 ) はパリで 1869 年に出版され 二千部しか売れなかったのですが、この書は青春の最も楽しい時を、そして今は再会することのない友人を思い出すよすがになるという意味でドーデーにとって「会心の書」となったのです。
 有名な「アルルの女」「星」「スガンさんの山羊」を含む粒ぞろいの作品の中で、私の最も好きな「金の脳みそを持った男の話」を紹介しましょう。昔々、金の脳みそを持った男がいました。大きくて重い頭で生まれ、歩く時はその重さでふらふらしていたのです。ある時、階段から落ちて頭を打ち、そのとき金の屑が少しはがれました。それを見て男の両親は彼の頭に金がつまっていることに気づき、もう外で遊ばないようにと命令します。そして、男が十八歳になったとき、両親はそれまで育てて上げたお礼に頭の金を分けてくれないかと頼みます。男はくるみほどの大きさの金をちぎって両親に与え、そのまま家を出てしまいました。遠く離れた町に行き、彼は遊蕩に明け暮れて、脳みその金の多くを使ってしまい、いつしか体はやつれ、顔色が悪くなったある日、友人が男の寝ている間に頭を鈍器で殴り、ひとつかみの金をちぎりとっていきました。失意の中で男は一人の人形のように可愛い少女と出会い、深く愛するようになります。少女もまた彼を愛しましたが、彼よりも洋服や靴やリボンや飾りを愛しました。男は少女の欲しいものを言われるままに買ってやりました。この少女をほんとうに愛していたのです。ところが、ある日、少女は小鳥のように突然死んでしまいました。金は底が見えていましたが、男はその残りで荘重な四輪馬車、弔いの鐘、羽飾りの馬を準備して少女を盛大に弔ってやりました。もう金は頭蓋骨の内側に数片残っているにすぎません。その夕方、男は酔漢のようによろめきながら町をさまよい、洋品店のウインドウの前で、白い繻子の靴を目にとめました。すでに狂っていた男は、少女が死んでいたことも忘れ、この靴を買ってやれば少女が喜ぶだろうと思いました。店の奥にいた女主人は高い叫び声に驚き、出て行くと、血まみれになった手の先に金の屑をつけて呆然と男が立っていたのです、、、。
 私にはこの物語はミストラル(プロヴァンス地方の強い北風)のように、私の体の中を痛ましく吹き抜けていく風のように思われました、、、。

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2005年10月14日 (金)

中村光夫『二葉亭四迷伝』

 二葉亭は陸軍士官学校を三度受験して三度不合格となりました。新聞を顔にくっつけて読まねばならぬほどの強度の近視が原因であることがわかっていながら、なぜ三度も受験したのか理解に苦しみます。また外国語学校の露語科をあと二、三ヶ月で卒業という時に、校長の態度が気にくわないからと退学願を出して去っています。常に主席を続けるほどの秀才だったのに、です。彼は、さらに『浮雲』でデビューした後に吉岡書店の「新著百種」という新人にとっては願ってもない檜舞台を与えられたが、断っています。また、金銭的に不如意であるにもかかわらず、堅実で実入りの多い職場を二度も退職しています(官報局と外語学校教授)。彼はまた、好きでもない手近の女性と二度結婚しています(苦界の女と自家の女中)。環境と教養の差がありすぎて破局することは目に見えていました。弟の死と愛犬マルの失踪が重なったとき、犬の失踪の方をより悲しみました。死の直前の遺書には残した子供たちに「即時学校をやめ奉公に出づべし」と書いています。こんな親がいるでしょうか。彼は人生の節目節目に愚かとしかいえないような選択、ないし行動をとっています。同世代の鴎外や漱石を思い出してみましょう。彼らは、迷いはするが、自分を律するだけの剛毅さと破局に至らない処世術を身につけていました。大人であり、何が実現できて何ができないかを知っていたのです。ところが、彼らにはまた二葉亭の人徳ともいうべきもの、破天荒な振る舞いの隙間からのぞく人間的な情の深さには欠けていました。二葉亭は外語学校の級友だった奥野広記が卒業後結核を患った時、自らも乏しい持ち合わせの中から毎月金を工面して、さらに奥野の死後には残されたその家族にも送金しています。底辺に生きる人々への変わりない共感は、独特な民族主義と民衆主義を生み出しましたが、それもこの社会をより良いものにしようという決意から出たものに他なりません。
 中村光夫『二葉亭四迷伝』( 1993 講談社文芸文庫)はこの「失敗」に終わった人生を周到に跡づけて、読み終わった後では長大な映画を一気に見たような疲労にも襲われます。いったい彼の人生はなぜかくも痛ましく思えるのでしょうか。中村光夫は驚いてはいません。フランス文学者の彼は本当の文学者がどういうものであるかを知っているからで、それは自分と自分の生涯を犠牲にして人生の真実を探り当てる人ならぬ怪物に他ならないからです。

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2005年10月11日 (火)

ジイド『ソヴェト旅行記』

 ジイドは 1936 年に病重いゴーリキーの見舞いのためソヴィエトを訪れました。早くからソヴィエトに賛意を表明し、ソヴィエトを「ユートピアが現実になりつつある国」と語っていたこの「ヨーロッパの良心」と呼ぶべき作家をソヴィエトは最大限の歓待で遇しました。必要品は煙草一本まで贅沢に支給し、彼の宿泊するホテルのプールには美しい若者を侍らせてさえいたのです。ジイドは一ヶ月の間ソヴィエトを旅行し、帰国後『ソヴィエト旅行記』 (1937 岩波文庫・小松清訳 ) を出版しました。彼はその本の中で、自分のそれまでの見解を180度転換し、ソヴィエトを「人間の精神が圧迫され恐怖に脅えて従属させられている国」と評しました。恐るべき順応主義 (コンフォルミスム) と官僚主義、それをジイドは芸術家の目で感知したのです。モスクワの店先に並べられた悪趣味な織物、それはかつての草摺りの美しいロシア布と比べものになりません。また官僚とその側にいる有力者たちが召使いや労働者に示す冷たい侮蔑と無関心は、そこが階級を撤廃した国であるだけになおさらジイドの胸を打ちました。「こうした精神の貧困を前にして何人が文化を語る《信念》を持ちうるだろうか」と彼は書いています。
 『ソヴィエト旅行記』は刊行されると非常な反響を引き起こしました。当時スペインのファシスト政権への反対国であったソヴィエトに同調する知識人は多く、ジイドには国内外から冷ややかで露骨な批判が浴びせられました。古くからの友人も道でジイドに会うと目をそらしました。ソヴィエトはジイドを罵り、ソヴィエト滞在中にジイドが行った不品行を暴露しました。しかし、『コンゴ紀行』で植民地支配への激しい非難を書いた時と同様『ソヴィエト旅行記』はジイドの知的誠実さの証なのです。「私にとっては、私自身よりもソヴィエトよりも、もっと重大なものがある。それは人類 (ヒュマニティ) であり、その運命であり、その文化である」「私はいつも後に来る人々のために書く」と彼は書きました。これは気障な言葉ではありません。 1936 年という時期に自らの政治的感覚のみを頼りにスターリン批判を行うことがどれほど希有な困難なことであるかを考えてみましょう。その時代の焦眉の問題に誠実に賢明に対処すること、それこそ今も変わらぬ知識人の責務なのです。カミユにとって『アマンタス』は聖書でした。クラウス・マンは『放蕩息子の帰還』を読んで感激してジイドに会いにいきました。ジイドの『日記』はささやかな私自身の励ましの書でもあります、、。

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2005年10月 8日 (土)

ヤコブセン『ここに薔薇ありせば』

 『ここに薔薇ありせば』 ( 1953 岩波文庫・矢崎源九郎訳)には「モーゲンス」他五篇の短編が収録されています。その中で「ベルガモのペスト」「フェンス夫人」「霧の中の銃声」が再読、三読に耐える傑作です。「ベルガモのペスト」はペストに襲われたベルガモを舞台にしています。ペストが発生した当初は人々は一致団結して死体は丁寧に埋葬し、貧しい者を助け、毎日教会に出かけ、朝夕には祈りの鐘が町中に響き渡りました。ところがペストの猛威が町を覆い、手の施しようがなくなると人々は神の助けをもはや信ぜず、果ては自暴自棄になり、冷酷に、貪欲に、罪悪の限りを尽くすようになりました。援助とか同情は人々の心から消え失せ、病人は石を投げられ、死体は晒されて悪臭が町を覆い、太陽は焼け付くように地面を照らしていました。そこに不思議な一団が町を通りかかります。黒い十字架を掲げ、手に手に鞭を持って自分たちを鞭打っている数百人の集団です。彼らはぼろぼろの衣服、血だらけの肉体で、口々に「神の掟に反して罪を犯したこの肉体は罰せられ、責めさいなまれなければならぬ」と叫んでいます。町の人々が揶揄すると、集団の中から一人の若い僧が出てきて、町中に向かって話し始めます。彼はまず掟に反した者たちの落ちる恐ろしい地獄について語りました。そして、キリストが我々の犠牲になって十字架で死んでくれたからもう掟は存在しないのだ、という人々に向かってこう話します。
 ーきみたちはゴルゴダの十字架を頼みにしている。では来たまえ!私はきみたちをその足下まで連れていってあげよう。それは、ある金曜日のことだ。人々は彼を門の一つから突き出して、十字架のいちばん重い端を彼の肩にのせ、それを町の外にある不毛の丘まで運ばせた。人々はその後から群れをなしてついて来て、埃を赤い煙のように巻き上げた。彼らは彼を裸にし、十字架の上に投げ倒して寝かせると、その上に彼の身体を伸ばし、逆らう手に一本ずつ鉄の釘を打ち、さらに組み合わされた足にも一本打ち込んだ。しかも釘の頭がめりこむほど打ち込んだのだ。それから地面の穴に十字架を立てた。だが、それがしっかり真っ直ぐ立たなかったので、あちこち揺すぶって、そのまわりに楔や木釘を打ち込んだ。それをやっている者どもは帽子を目深にかぶって、キリストの手から滴る血が自分らの目に入らないようにした。こうしてキリストは高い所から、わめき騒ぐ群集、彼らが救済されるように自分が今その身代わりとなっている群集を、見下ろしたのだ。群集は十字架の上の彼とその上の「ユダヤ王」と書かれた板を見上げた。そして彼らは彼を嘲って、「さあ、自分で自分を助けてみろ!神の子なら十字架から降りて来い」と叫び立てた。気高い神の子は怒り心頭に発し、群集が救済に値しないと知ると、釘の頭から足をもぎとり、手を丸めて釘を引っこ抜いた。そのため十字架は弓のように歪んだ。それから彼は地上に降りると、着物をひっさらい、王者の威厳を持って着物を身にまとい、天へと登っていった。贖罪の仕事は終わっていないし、われわれのために十字架にかけられて死んだイエスなどいないのだ、、。
 デンマークのテイステッドで生まれた作家イエンス・ペーター・ヤコブセン (1847~1885) はキルケゴールやフォイエルバッハなどの影響を受け、苦しい思索の果てに無神論の立場を標榜するに至りました。このために彼は「テイステッドの王女」として知られた美しい少女との婚約を破棄することになり、未婚のまま三十八歳の生涯を閉じました。

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2005年10月 5日 (水)

シュテファン・ツヴァイク『昨日の世界』

 シュテファン・ツヴァイク (1882~1942) の幾分大袈裟な筆致には辟易するものの気がつくと面白くて次から次へと読んでいってしまいます。『昨日の世界』(1973 みすず書房ツヴァイク全集19 原田義人訳) で描かれているパリでのライナー・マリア・リルケとの出会いはこの詩人の 肖像の中でおそらく最も生き生きしたものでしょう。
 「リルケに到達することは難しかった」とツヴァイクは書いています。住所もなく、家郷もなく、定住の住処もなく、人は偶然に彼に出会うしか方法がありません。親友というものをごく少数しか持たず、君という呼び方は学校時代以来ほとんど誰にも与えることはありませんでした。リルケは人々のいる部屋に物音ひとつせずに入ってきます。それから黙って耳を傾けながら座っていて、自らは自然に、飾らずに、愛情深く語ります。そして自分が座談の中心になると見るや再びひっそりと沈黙の中に入ってしまいます。秩序、清潔さ、静粛さというものを彼は愛し、生活全体を厳粛に律していました。書机の上には鉛筆とペンがきちんと揃えられ、まだ字の書いていない紙束は整然と縁を揃えて重ねてあります。彼は書物を借りると、必ず皺のない薄紙に包んでリボンをかけて持ち主に返しました。どうでもいいような手紙にも美しく良質の紙を選び、物差しで測ったように等間隔で浮かんでいるような美しい書体で書きました。「彼の根源的な美の感覚は最も瑣末な微点にまでつきまとっていた」「彼の本質のこの抑えた調子と、それと同時に精神の集中とは、彼に近づくすべての人を圧する働きを持っていた」「彼とかなり長く対話した後では、幾日も卑俗なことをする能力を失った」とツヴァイクは書いています。
 リルケは、しかし、様々のものを愛しました。彼の衣服はつねに入念さと清潔さと趣味との総計で、考え抜かれ、つくり抜かれた地味というものの傑作でした。彼がひそかにたのしんでいた付属品は手の首のまわりの薄い銀の腕輪で、彼はあらゆる持ち物を念入りに深い愛情を持って扱いました。彼の質素な部屋にはいつも女性たちから贈られた花が花瓶や鉢に輝いていたということです。1914 年のある日、ツヴァイクは自室の扉を開けてびっくりしました。そこにはリルケが軍服を着て立っていたのです。「私は」といつもの低い声で彼は言いました。「この軍服というものを幼年学校以来きらっていました。もう永久に逃れたと思っていたのですが、四十歳でもう一度着なくてはならないのです」幸い彼は身体検査で免除になりました。
 リルケこそ「外面的な生活の何ものも望まず、広範な大衆の共感も勲章も高位も利得も望まず、静かな、しかし情熱的な努力を傾けながら、音楽にひたされ、色彩に輝き、イメージに燃える詩の一行一行を、一節から一節へと完璧に結び合わせること以外に、追求することのなかった」人間でした。森火事が獣たちをその最もひそかな隠れ場から駆り出すように、ヨーロッパが詩人たちを追いつめたとき、そのときツヴァイクの絶望は死にまで至ったのでした。

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2005年10月 2日 (日)

清水好子『紫式部』

 十二歳頃まで一緒に遊んだ女友達が四年間の父について行った受領生活を終えて帰ってきました。偶然出会って懐かしさでいっぱいで近づいてみると、もう十六歳の彼女には昔の面影がありません。驚いて、どう言っていいかわからず、とまどっているうちに別れの時が来てしまいました。
  めぐりあひて見しやそれともわかぬ間に雲隠れにし夜半の月かげ
 私家集『紫式部集』の冒頭に置かれたこの歌は紫式部が自分の人生をどう歌い残していきたかったかをよく示しています。伊勢集や和泉式部集や中務集を思い出してみましょう。「彼女たちはみな男に呼びかけているが、紫式部集には女友だちが顔を並べ、そのために式部は女学生のように爽やかで、時には少年ぽく見える」「私たちは紫式部集がこの歌から始まることによって、少女期から娘時代の変わり目にいた式部の日々を過 (よぎ) っていたものが、どんなにこの賢い女の子を揺り動かしていたかを想像するのである」
 早くに母を亡くし、姉と二人で京の住居で暮らしていた青春の日々、姉の死と友人たちとの別れ、国司として赴任する父についていった越前への旅と深い雪の中での生活、遠く離れた恋人宣孝との手紙のやりとり、しかし彼との幸福な結婚生活は二年余りしか続かず疫病が夫を奪い彼女は乳飲み子を抱えた寡婦となりました。その後、宮廷に出仕し中宮彰子に仕え、恐らく四十歳を過ぎたあたりで亡くなりました。(彼女には生没年月日も実名すらもわかってはいません)式部は晩年に歌集を編纂することによって自分の人生を点検することを試みました。そこに表れるのは、感情の表白ではなく、彼女の人生に出会った人々をその感動のまま残していこうとする衝動です。最愛の夫の死についても自らは歌わず、継娘の父を失った嘆きの歌を残して、その悲しみの世界を丸ごと記憶にとどめおこうとしています。彼女自身は晩年つぎのように歌いました。
  数ならぬ心に身をばまかせねど身にしたがふは心なりけり
 自分のようなつまらぬ人間でも人生は思い通りにはならなかった。あれこれ悩むことはあってもこころさえも日常の境遇に支配されて何とか送っていけてしまう、、、。これは『源氏物語』の登場人物の多くが抱く感慨でもあると著者は書いています。清水好子『紫式部』(1973 岩波新書 1995 岩波新書評伝選 ) は、まだ傷ついていない心、いつも誰かへの慕情に染められようとしている少女時代の式部の姿を私たちの前に示してくれています。夫に死なれ、憂き世を生き続けることを強いられ、「身にしたがふは心なりけり」と思うほどになったときにはじめて紫式部にとって娘時代がある意味をもって蘇ってきたのです。
 

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