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2005年9月11日 (日)

夏目漱石『門』

 友人からその妻を奪った宗助は「心の実質を太くしようとして」つまり逃げ回りながら時間の経過をひたすら待つ現在の生活をもっと前向きなものに変えようとして、禅寺の門をたたきます。しかし、その修行から救いを得ようとすることがすでに受け身の態勢なので、案の定、空手で宗助は山を降りてきます。彼はひやかしで禅寺に籠ったのでしょうか。いや、彼は大いに真面目なのです。『彼岸過迄』の敬太郎が浅草の女占い師に六文銭で占ってもらう印象深い場面を思い出しましょう。帝大出の主人公は真面目に占い師の言葉を深く勘案し、それの真意を読み取ろうとします。禅寺の老師も占いの老女もうさんくさいということでは変わりありません。それゆえにこそ真面目に取り組まねばならないし、それはまた新聞の読者が好奇心ゆえに期待していることでもあります。
 宗助の参禅がかくも滑稽な味を出しているゆえんは『門』のそれまでの叙述が、穏やかな秋の日差しを思わせる(物語はそのような縁側の光景から始まり、そのような縁側の光景で終わります)しっとりとした幸福のタブローに他ならないからです。役所勤めをする宗助は恋女房のお米と山の手の片隅の借家でひっそりと暮らしています。愛情に満ちた二人の生活は、質素で単調ながら、誰でも羨まずにはおれないでしょう。お米が急病で倒れたときの宗助の必死の看病は主人公が妻を思う気持ちの強さをよく表していて、『道草』の健三のその妻に対する冷淡な言動とは対照的です。微笑ましいこの二人の愛情はどこから来るのでしょうか。それは二人がともに人の道を踏みはずしているという負い目から謙虚になり、決してヒステリーにならず、互いの気持ち、隣人の気持ちを慎重に掬いあげようとしているからです。宗助は出世の望みにも金銭欲にも物質欲にも恬淡になり、禅寺に行く必要の無い男になっています。
 『我輩は猫である』や『三四郎』のような幼稚な書生小説には感情移入できず、また晩年の『こころ』のような「倫理的」小説にはなおさら共感できない私ですが、『門』には感心しました。微禄な勤め人の生活の日常が細かく丁寧に描かれていて読者を全く飽きさせません。文章も素晴らしく、宗助とお米がはじめて二人きりになり二人の影が白い塀の上にかかるところは強く心に残ります。これは世間のしがらみを寸分も断ち切ることのできなかった漱石のそうあったかも知れない理想の小説なのです。

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コメント

いまさらのコメントで恐縮ですが、全く同感です。素晴らしい書評です。「読者を全く飽きさせない」、本当にそのとおりです。

投稿: MPST | 2006年1月21日 (土) 00時06分

MPST さん、コメントありがとうございます。
ずいぶんと励みになります。これからもよろしくお願い申し上げます。それでは
 saiki (argus 改め)

投稿: saiki | 2006年1月23日 (月) 14時20分

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