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2005年9月29日 (木)

S.H.ナスル『イスラームの哲学者たち』

 キリスト教が愛の宗教なら、イスラム教は知の宗教である、とナスルは書いています。イスラム国家が地上最強の国家であった時、彼らはインド、ギリシア、エジプト、コンスタンチノープルなどあらゆる地域の学芸について研究し、組織的に文献を翻訳していきました。軍事的、政治的な理由などではなく、ひとつにはキリスト教徒との論争のための用意の意味もありましたが、何よりも知的なものへの彼らの希求を表しているのです。ひとつの思想が発見された時、それがアリストテレスであれプロクロスであれ、徹底的に吟味され、正しいものは吸収し、間違いがあれば反駁しなければならないと彼らは考えました。
 そのようなイスラムの賢者たちの中で、「最大の師」といわれるのがスペインのムルシア生まれのイブン・アラビーで、ナスル (1933~ ) の『イスラームの哲学者たち』( 1975 岩波書店・黒田壽郎、柏木英彦訳)では最も熱情と共感をこめて紹介されています。イブン・アラビー (1165~1240) の成長した時代はムハンマドの頃から遠く、啓示の生き生きした根源が見失われ、かっては暗示で了解したものが今では詳細な説明を必要とするまでになっていました。一方では現世享楽の風潮が、その一方では個の内面に沈潜するスーフィズム(イスラム神秘主義)が起こる時代の中で、イブン・アラビーの使命はそれまでの教説を吟味し、ばらばらの個人的体験のままであるスーフィズムの教説の理論的意味付けを行うことでした。彼がとった手法はタアウィール (ta'wil) と呼ぶもので、文字通りにはあるものをその始源へ戻すことを意味しています。宇宙の万物はその外面的意味の他に内なる精神的意味を持っており、かっては万人が理解しえたその意味も今は象徴という形でかろうじて残っているにすぎません。彼は自然の諸顕示、宇宙と人間のすべての領域に象徴的注解を施してその内的意味を洞察します。それは存在するものすべてが聖性と切り離し得ないこと、超越的な唯一者のなかにあり、またそれを自らに持つことを示すためなのです。
 イブン・アラビーは二十歳になると聖者に会うために遍歴をはじめ、二度と故郷に戻ることはありませんでした。ペルシャ人スーフィーの家庭でニザムという名の敬虔できわめて美しい少女に出会い、彼女は以後彼にとって永遠のソフィアの化身となりました。彼はメッカ、カイロ、アナトリアを旅し、その晩年はダマスカスに隠棲し、そこで主著『メッカ啓示』を完成させた後にその波乱に富んだ偉大な生涯を閉じました。
 

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2005年9月26日 (月)

W.B. ギブソン『奇跡と大魔法』

 1555年にフランス王アンリ二世の妃カトリーヌは学者・医師・予言者として名高いノストラダムスを宮廷に呼んで、三人の息子フランシス、アンリ、シャルルの行く末を詳しく知りたいと望みました。ノストラダムスは特別な一室を用意し、床に神秘的な円を描き、香をたいて、王妃に椅子の上に斜めに置かれた鏡をのぞいてみるように、と言いました。王妃がのぞくと、鏡には三人の王子が順々に王位に就く様子が写ったのです。未来の王子たちは当然年をとっていましたが、明らかに王子とわかる姿で玉座に座っていたのです。この予言は的中して、長生きした王妃はフランシス二世、シャルル四世、そしてアンリ三世の治世を目の当たりにして世を去りました。この鏡の秘密は百年後にフランスの科学者に解き明かされました。斜めに置かれた鏡は天井に隠されたもう一つの鏡を反射し、また天井の鏡は壁の裏側に置かれた玉座に座った替え玉の姿を映し出したのです。
 W.B. ギブソン『奇跡と大魔法』(1974 金沢文庫・高木重朗訳)は歴史上に現れた魔術・奇術についての興味深い解説です。映画『十戒』の中でファラオの宮廷でモーゼが白い杖を床に投げると蛇になって、魔術師の杖の黒い蛇を追い払う場面がありますが、ギブソンは次のように説明しています。この杖ははじめから蛇なので、エジプトに棲息するナジェハジャというコブラの一種は頭の下を圧迫されると麻痺状態で硬直して杖のようになる、おそらく魔術師たちはこの蛇に類似した杖を常に持ち歩き、魔法を見せる時に、麻痺した蛇に変えたのであろう、と。
 英国がインドを支配しつつあった頃から、インドは神秘なものの発祥地として広く西洋の人間の興味をかきたてていました。事実、インド人は奇術の天才で、次々とヨーロッパ人を魅了する不思議な技を繰り出してきたのです。その中でまぎれもなく最高の見せ物はバラモンの綱技です。バラモンの行者が長い綱の端を空中に投げると、綱はするすると天に登っていきます。見物人が空を仰いで見守る中を一人の少年がよじ登って行き、やがてその姿はかき消え、静寂の中、行者の一声で綱だけが落ちてきて、少年の姿は跡形もありません。この仕掛けは次のように説明されます。この見せ物の理想的な場所と時は高さ20〜30フィートに濃いもやが出る夕暮れの熱帯の谷間で、すぐ近くに太い樹か高い建物がなければなりません。行者は夕陽を背にして立ち、先に鈎のついた綱を投げ上げ、上空に張られた鉄線に引っ掛けます。少年がそれをよじ登り、霧にまぎれて鉄線を伝って姿を隠し、その後行者は綱をはじくように振って地面に落とすというわけです。

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2005年9月23日 (金)

イポリイト・テーヌ『プロスペル・メリメ』

 メリメ (1803~1870) は中編小説『カルメン』『コロンバ』『シャルル九世年代記』や短編『マテオ・ファルコーネ』『タマンゴ』などで今も全く古さを感じさせない作家ですが、その成功は作品の短さによるところが多い、とテーヌは書いています。メリメは後世の人間、時代も国も違う読者を想定して、彼らはメリメの時代よりさらに退屈さには容赦しないだろうと思っていました。おそらくディケンズやバルザックすら読まれなくなる時代がくると。そこで、メリメの小説は明晰で構成が完璧、分散せず焦点を一つに絞り、読者が興味を起こすことを(コルシカの復讐劇やジプシー女の誘惑や奴隷船の反乱など)簡明に直截に語ります。彼は読者に戸口で挨拶し、後は身を引いて、読者に勝手に吟味し批評するに任せます。間違っても自分の財宝を自慢することなどなく、知識をひけらかすどころか逆に隠そうとします。
 これは彼の性格に深く関わっている、とテーヌは証言します。過度の洗練さ、過度の慎み深さは己が傷つけられることを恐れる魂の有り様なので、恐らく幼年時代のある時期に自己を晒す過ちをして感受性を傷つけられ、以後は硬い殻で自らを覆い、感情の溢出や熱狂に常に警戒し、嘲弄を恐れるあまり無感覚を装っていたのではないかと。メリメはペダンティックや気障に見られることを嫌って、わざとぶっきらぼうに振る舞い、繊細な心を隠すため常に冷徹な微笑を浮かべていました。感動しやすく、信じやすい心を抑えるため Memneso apistein (常に疑い深くあることを忘れるな) と刻んだ指輪を死ぬまではずすことはありませんでした。実際は義侠心に富み、友人思いで親切で温かな人間だった、とテーヌは伝えています。彼に助力を頼みに行った人たちは、その冷淡な顔つきに当惑して帰ってくるが、しばらくすると彼は頼まれた助力を懐にして彼らのもとにやってくるのでした。メリメは上院議員、史蹟監督官、また皇后の友人として砕身して公務に務め、私事では勉強を好み、ロシア語、スペイン語、ジプシーのカロオ語にも通じ、歴史研究や言語学・民俗学に深い造詣をしめしました。生涯家庭を持たず、晩年は田舎に隠棲し、半里離れたところにいる野良猫に毎日食事を運んでいました。彼はあれほど用心しながら何度も女性に裏切られたとのことです。「欺かれはしまいかと惧れるために、彼は生活を疑い、愛を疑い、科学を疑い、芸術を疑った。彼は自己の猜疑心に欺かれていたのである。ひとは何かに常に欺かれるものであるから、おそらくは、初めから観念していた方が賢明なのではなかろうか」とテーヌは結んでいます。
 テーヌの『プロスペル・メリメ』は『文学史の方法』( 1953 岩波文庫・瀬沼茂樹訳)に収められています。

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2005年9月20日 (火)

ケネス・グレアム『たのしい川べ』

 ケネス・グレアム (1859~1932) は四歳になった一人息子のアラステアのために毎晩お話を聞かせていました。アラステアが海辺に旅行したときは、せがまれて話の続きを手紙に書いて送っていました。偶然その手紙を見た知人の女性はグレアムにその物語を本にして出版するようにすすめました。こうして二十世紀前半のイギリス児童文学を代表する不朽の名作『たのしい川べ』(1963 岩波書店 原題は The Wind in the Willows ) は世に出たのです。この物語はテムズ川の岸辺に住むネズミやモグラやヒキガエルたちの物語です。アシの茎の間をふくそよ風、ごちそうの入ったバスケットを用意した楽しい舟遊び、黄色く色づいた麦畑の中の散歩、そして彼らのつつましくも豊かな生活はどうでしょうか。森の中で夜を迎えたネズミとモグラはアナグマの家の扉をたたきます。アナグマは彼らを招き入れて暖炉の火で暖め、ラベンダーの香りのついたきれいな麻のシーツのベッドに寝かせます。翌朝はコーヒーと焼いたハムとバタのたっぷり塗ったトーストが食べ放題でした。学校へ行く途中で迷子になったハリネズミの兄弟もお相伴しています。何でもないこと、日常生活のささやかな喜び、友人との炉辺の語らい、心のこもった朝食、それが川辺で何時間も小さな動物を見てすごした幼き日のケネス・グレアムの夢だったのです。
 グレアムは五歳のときに母を亡くし、ほどなく父親は四人の子を捨てて家をでました。孤児になったグレアムは祖母の家で育てられ、それでも学業・運動ともに最優秀の成績をあげオックスフォード大への進学を希望していました。しかし、親類の反対に会って泣く泣く進学を断念、「葡萄は酸っぱいものであり、希望は無情なものだ」と後日彼は語っています。叔父の縁故で十七歳でイングランド銀行に就職、その人柄の良さと実務能力の高さで順調に出世して史上最年少三十九歳でイングランド銀行の総務部長に就任、四十歳で結婚し、翌年アラステアが生まれました。結婚生活は夫人の性格ゆえにかなり不幸だったと言われています。身体に障害を持ってうまれたアラステアは二十歳のときに鉄道自殺を遂げました。銀行を退職した晩年のグレアムはもう二度とペンをとることはなく、寡黙のまま七十三歳の生涯を閉じました。
 『たのしい川べ』の美しくも不思議な第七章を思い出しましょう。迷子になったカワウソの子供を探しに出たネズミとモグラは、川辺でカワウソの子供を寝かしているパンの神に出会います。パンの神の笛はこの世ならぬ響きの中で彼らに最後の贈り物「忘却」を残して行きました。恐ろしい思い出がこの世の楽しさと喜びを損なわないように、、、。

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2005年9月17日 (土)

ジャック・ロンドン『荒野の呼び声』

 ジャック・ロンドンの『荒野の呼び声』(1997岩波文庫) は凄まじい小説です。マイナス六十度の酷寒のアラスカの犬ぞりを引く犬の生活を想像してみて下さい。一日四十マイルも重い積み荷を引っ張り、食事は鮭の肉一切れ、凶暴な仲間の犬たちとの飽きることのない血みどろの喧嘩、そりを引く人間の容赦ない鞭と棍棒の嵐等々、主人公バックは何度も死にそうになって体中傷だらけ、そしてついに精魂つきて息が切れる寸前にジョン・ソーントンに助け出されます。ソーントンに庇護されている間にバックは彼に激しい愛情と尊敬を抱くようになりますが、この愛情もまた想像を絶する激烈さです。バックは彼を助けるために激流に飛び込み、彼のために半トンの積み荷を一匹で引っ張る無謀な賭けに勝利します。そしてソーントンが死んで、愛情の対象が消失した後では、バックを捉えるものは闘争と放浪の本能しかありません。こうして最後にバックは飢えながら動物や人間を襲うオオカミの群れに加わっていくのです。
 こんな小説のどこが読者を魅了するのでしょうか。それは私たちの人生がまさにこのバックの生活に酷似しているからに他なりません。私たちは犬ぞりを引くようにチームを組んで仕事をします。スピッツのように気難しいリーダーやパイクのような怠け者の同僚など、仕事そのものより彼らとの暗闘の方で神経を使います。また仕事を終えた後ではおさえようのない闘争心が頭をもたげ、激しいスポーツで敵と激突し、あるいはテレビで格闘技に夢中になるでしょう。また時として私たちは人を激しく愛するのです。恋人を、妻を、子供を、ただただどうしようもなく激しく愛するのです。そして、いつかすべてを忘れ、どこか遠いところへ出奔したいと思い、あるいは故郷への道の半ばで倒れるかも知れません。それらすべては洗練されてもいず、辻褄もあわない、ひたすら激烈であるしかないものです。私小説など嘘の塊であるとその時私たちは気づくのです。
 ジャック・ロンドンはさまざまな小説を書いていますが、オオカミが主人公の物語『白い牙』も大変素晴らしい。私は読み返すたびに最後の一頁まで一気に読んでしまいます。

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2005年9月14日 (水)

ジョージ・オーウェル『オーウェル評論集』

 ディケンズは十歳のとき靴墨工場で一日十時間も働かされていました。二十年以上たったあとでも、この記憶は耐え難く、靴墨工場のあったストランドの一角はわざと回り道をして避けずにはいられませんでした。そこを通ると「長男が喋れるほどの年齢になってからでさえ、わたしは泣きたくなった」と自伝に書いています。その苦しい思い出の理由は貧乏ではなく、低級な仲間とつきあわなければならなかったからです。
 チャールズ・ディケンズは制度を変えれば世界はよくなるとは少しも考えていませんでした。「彼の作品にはどのページを見ても、社会はどこか根っこのところでまちがっているという意識がながれている」のです。だから彼は政治を軽蔑していて、議会が役に立つなどとは思えなかったのです。「彼の心の底には政治機構はいっさい不必要だという、信念に似たものが潜んでいる」とオーウェルは書いています。ディケンズが標的にするのは社会ではなく人間性です。彼は社会構造の変革よりも人間精神の変革を願っているのです。腐敗した社会では個人の善意など無力なのでしょうが、それでも立派な行いをする人間がいれば世界は少しはましになるだろうというのが彼の考えでした。「人間の行いがよくなれば世界もよくなるだろう、という思想は、案外陳腐ではない」とオーウェルは言います。「たいていの革命家は潜在的保守主義者である。なぜならば、社会の形態さえ変えれば万事が解決されると空想しているからだ。そして往々にしてこの変革が達成されると、それで事足れリとしてしまう。ディケンズはこういう粗雑な精神の持主ではない。不満の正体があいまいであることこそ、その不満が永遠のものである証拠なのだ」と。これは「広い心を持ちながら怒っている作家」ディケンズへの素晴らしい賛辞です。
 岩波文庫『オーウェル評論集』(1982 小野寺健編訳)にはこの「チャールズ・ディケンズ」の他にヘンリー・ミラーを論じた有名な「鯨の腹の中で」も収められています。そのエッセイの中で、オーウェルは、いかなる社会変革の思想も、個人の「主観的真実」を掘り下げた作家の誠実さには勝らないことを示しました。それは無力でありながら決して目を閉じないで見つめているそのような作家の誠実さです。
 

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2005年9月11日 (日)

夏目漱石『門』

 友人からその妻を奪った宗助は「心の実質を太くしようとして」つまり逃げ回りながら時間の経過をひたすら待つ現在の生活をもっと前向きなものに変えようとして、禅寺の門をたたきます。しかし、その修行から救いを得ようとすることがすでに受け身の態勢なので、案の定、空手で宗助は山を降りてきます。彼はひやかしで禅寺に籠ったのでしょうか。いや、彼は大いに真面目なのです。『彼岸過迄』の敬太郎が浅草の女占い師に六文銭で占ってもらう印象深い場面を思い出しましょう。帝大出の主人公は真面目に占い師の言葉を深く勘案し、それの真意を読み取ろうとします。禅寺の老師も占いの老女もうさんくさいということでは変わりありません。それゆえにこそ真面目に取り組まねばならないし、それはまた新聞の読者が好奇心ゆえに期待していることでもあります。
 宗助の参禅がかくも滑稽な味を出しているゆえんは『門』のそれまでの叙述が、穏やかな秋の日差しを思わせる(物語はそのような縁側の光景から始まり、そのような縁側の光景で終わります)しっとりとした幸福のタブローに他ならないからです。役所勤めをする宗助は恋女房のお米と山の手の片隅の借家でひっそりと暮らしています。愛情に満ちた二人の生活は、質素で単調ながら、誰でも羨まずにはおれないでしょう。お米が急病で倒れたときの宗助の必死の看病は主人公が妻を思う気持ちの強さをよく表していて、『道草』の健三のその妻に対する冷淡な言動とは対照的です。微笑ましいこの二人の愛情はどこから来るのでしょうか。それは二人がともに人の道を踏みはずしているという負い目から謙虚になり、決してヒステリーにならず、互いの気持ち、隣人の気持ちを慎重に掬いあげようとしているからです。宗助は出世の望みにも金銭欲にも物質欲にも恬淡になり、禅寺に行く必要の無い男になっています。
 『我輩は猫である』や『三四郎』のような幼稚な書生小説には感情移入できず、また晩年の『こころ』のような「倫理的」小説にはなおさら共感できない私ですが、『門』には感心しました。微禄な勤め人の生活の日常が細かく丁寧に描かれていて読者を全く飽きさせません。文章も素晴らしく、宗助とお米がはじめて二人きりになり二人の影が白い塀の上にかかるところは強く心に残ります。これは世間のしがらみを寸分も断ち切ることのできなかった漱石のそうあったかも知れない理想の小説なのです。

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2005年9月 8日 (木)

W.ハース『ベル・エポック』

 ベル・エポックとは根底として社交的なものである、あるいは社交と精神の組合わさったものである、とハースは書いています。ベルグソンの講義を最新流行の服装で聴講する社交界の貴婦人たち、という図はまさにベル・エポックそのものです。フランスの精神生活に広く影響を及ぼしたこの哲学者は貧乏なユダヤ人移民の子であり、フランスアカデミーの会員になるまで出世して、ユダヤの教義に忠誠を尽くしながら死にました。プルーストは死ぬまで描き続けた社交界から彼の鋭く深い人間観察のすべてを引き出してきました。イプセンは自分の机の上に猛毒のサソリを入れたコップを置いていて、そののたうちまわる姿から愛憎に苦しむ人間のドラマへの創作意欲を引き出していました。そのイプセンは一方で、自分の写真をすべて買い占めて、サイン入り写真をねだる上流人士に法外な値段で売りつけていたのです。当時の男性モードの審判者、ダンディを極めた男、後のエドワード七世であるプリンス・オブ・ウェールズはパリ・ピカデリーの娼婦に通じていて、モンマルトルのレビュー小屋の常連でした。彼が愛した踊り子ミスタンゲットは名も無いキャフェを振り出しに徐々に大きなキャフェへと這い上がってついにムーラン・ルージュのスターになり、その時代のシンボルとなったのです。
 「エレガンスはこの時代の女神であり、モードはこの時代の世界史的原理である」たとえばミシア・ナタンソンという女性を見てみましょう。老ルノワールやロートレックに何度も描かれたエレガンスの権化ともいうべきこの女性は億万長者と結婚して、その無尽蔵な資金の一部を当時頭角を表していたロシアの近代バレーの創始者ディアギレフにつぎ込みました。マラルメの崇拝者であったミシアは、バレー「ボリス・ゴドノフ」を見て感激し、ガラガラだった客席をすべて買い占めて友人知人に配りました。彼女はディアギレフの寂しい最期にも付き添っていました。ディアギレフのバレー団の中でひときわ輝いていたのはニジンスキーです。ニジンスキーはロモラという女性と結婚することで、ディアギレフと仲違いしましたが(二人は愛情関係にあった、といわれています)ほどなく重度の精神病にかかり、三十一年の苦しい闘病生活の果てに死にました。
 ベル・エポックは美術史的にはユーゲントシュティールやアールヌーボーと重なります。最も偉大な画家はロートレックとビアズリーでしょう。ウ゛ィリ・ハース『ベル・エポック』(1985岩波書店)は全ヨーロッパに及び、たちまちのうちに潰えていったこの様式(芸術の様式であると同時に生の様式であった)についての他の追随を許さぬ研究であり、回顧録です。カール・クラウスやルードビッヒ・クラーゲスの反ユダヤ主義への痛烈な批判、グンドルフやカントロウ゛ィッチのようなユダヤ人を率いていたゲオルゲへの共感はことのほか印象に残ります。

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2005年9月 4日 (日)

ズーデルマン『憂愁夫人』

 これは水晶のように透明で硬い純愛の物語です。パウルは14歳の堅信礼のときに美しいエルステッドともぐらの穴のある丘の上で広葉樹の葉影に身をもたせて語り合います。「あたしたちはあの『ねむり姫』の茨の籬だって通っていけるわ」とエルステッドがいうと、パウルは「君ならー僕にはできない」といいます。「どんな刺(とげ)でも僕には刺さるんだー僕はお伽噺の王子じゃあない」実はパウルには憂愁夫人(フラウ ゾルゲ)の呪いがかけられていて絶対に幸福にはなれないのです。もちろんそれは母親のお話を信じたパウルの思い込みなのですが、その人生はまさに悲運の連続でした。
 ヘルマン・ズーデルマン(1857~1928) は東プロイセンのリトアニア国境に生まれましたが、その少年時代はそっくりこの物語に描かれています。パウルの父は投機で失敗して邸宅を手放し、一家は粗末な沼地の家に住んでいます。パウルの二人の兄は共に秀才で学校で主席を通して都会の大学に進みますが、自分のことだけしか考えず、実家に金を送るどころか出世のためのお金をパウルに無心する有様です。酒飲みの父親は投機で一山あてる夢ばかり見て働こうとしません。しかも、優秀な兄たちばかりを可愛がり、実直で不器用なパウルを馬鹿者とののしって殴ることしばしばでした。パウルは進学を諦め、堅信礼の翌日から畑で働き始めます。耕し、種をまき、草を刈り入れ、早朝から晩まで懸命に働き、病弱な母親と幼い双子の妹たちの面倒も見ます。稼いだお金のすべては家の借金、父の酒代、母の薬代、兄への送金、妹の養育費と洋服代に費やされて、パウルには貧しい野良着以外に着るものもありません。村の園遊会でも洒落た若者たちの仲間に加われず、劣等感からエルステッドにも気持ちを伝えることは出来ません。一方、大地主の娘エルステッドは成長して外国に遊学し、様々な経験を積みますが、パウル以上に立派な男性にめぐり合うことはできませんでした。物語は次々と転変して、堅信礼の日から何と17年後、パウルとエルステッドは思い出の丘の上で劇的に結ばれます。「憂愁夫人なんかには指一本も私たちに触れさせやしないわ」とエルステッドは幸福に満ちてパウルを抱きしめます。
 ズーデルマンの『憂愁夫人』(1938岩波文庫・相良守峯訳)には自然主義文学としての物足りなさはあるものの、プロテスタントのドイツ農民生活の細やかな描写が素晴らしい。ヘッセの『青春彷徨』、ケラーの『緑のハインリッヒ』とともに私には忘れられないドイツ青春小説の一冊です。

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2005年9月 2日 (金)

アイザィア・バーリン『ジョセフ・ド・メストルとファッシズムの起源』

 人間はもともと理性的で社会的な存在であり、馬鹿者に惑わされなければ自分自身と他人の最善の利益の何たるかを理解し、それを実現するための最良の法を見つけ出せる、あるいは見つけ出せなくとも次善の法によって、社会に安定した調和をもたらすことが可能である、このような考えは18世紀以来西ヨーロッパのほとんどすべての知識人(ヒュームやカントやペインやモンテスキュー等々)が共通して抱いていたものでした。彼らは自然科学の知識がめざましくも人間の知の領野を拡大し精密にしていったように、人間倫理や政治上の諸問題もいつかは解決可能であると信じていました。
 ジョセフ・ド・メストル(1753~1821) はそのような考えの根底にはある傲慢さが潜んでいると指摘します。彼は社会を弱く罪深い人間、矛盾する要求に引き裂かれ、何らかの合理的な公式によって正当化するには余りに破壊的な諸力にあちこち引き回されるそういう人間たちが織り成す解きほぐせない網の目と見ました。鶏を殺さねばならないとすれば涙を流す連中が戦争では平然と殺人を犯します。愛するために生まれ、他人のために涙を流し、人に喜びをもたらし、詩や物語を作りそれに涙する、そういう人間が戦争と殺戮に陥り、嫌悪感をもよおす所業とともに奈落に落ちていく。なぜ兵隊は従順な動物のように殺し殺されるために喜んで送り出されるのか。もし人々が自分の利益を追求するのならば、なぜ話し合って普遍的な平和を実現しようとはしないのだろうか。適切な解答はただ一つ、殺し合って自ら生け贄になろうとする欲求が自己保存や幸福への要求と同じように根源的なものだということです。戦争は人間の運命であり、この非合理的な解決が有史以来人間が選択してきたことなのです。
 非合理的なものはその非合理であるがゆえに存続するのです。結婚制度は自由で成長する人間にとっては非合理なものです。なぜこのような強情なみせかけの制度が存続しているのでしょうか。その理由は結婚がその非合理性に基礎を置いているからです。自由な恋愛関係は全歴史全地域を通じて常に破綻せざるを得ませんでした。およそ合理的なものはなんであれ、人間の作為になるがゆえに崩れ去るのです。このような社会は合理的な制度や理性的な人間によって維持されるのでなく、自己犠牲を厭わない人間、社会や他人のために自己の快楽や利益を無視して受難し死んでいこうとする人間によって支えられているのです。受難だけが人間を救う、「人間だけが自分をいやしいと感ずることができる」また人間だけが自分を天使だと思うこともできるのです。
 アイザィア・バーリン(1909~1997) のこの本(岩波書店「バーリン選集」第一巻「理想の追求」所収)は同じ著者の『ハリネズミと狐』(岩波文庫)とともにわが国では数少ないメストルの紹介書です。

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