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2005年8月 3日 (水)

ふたたび『ギリシア宗教発展の五段階』

 ポリスの危機はまた信仰の危機でもありました。人々はポリスに変わるものを求め、クセノフォンにとってはそれはペリクレスやアゲシオラスのような超絶した個人であり、ディオゲネスにとってはすべての因習の否定、エピクロスにとっては困難をあらかじめ回避する隠遁の思想でした。
 しかし、ここでギルバァト・マレーが最も強い共感を持って描くのは逍遥学派の祖アリストテレスです。彼は現存する世界を否定したり、変形したりする激越な思想を発明するかわりに、それをあるがままに受け入れ理解しようとしたのです。それは人類の牢獄(ひとや)を開く呪文、開け胡麻を持っていませんでした。魂の救いを熱情的に求める人々に、アリストテレスは自分の生活に立ち返り、然るべきことを然るべき仕方でなすように教えます。最善を手に入れることは不可能であり、限りなく近づくことは出来ても、それが相対的であることを忘れてはいけません。「最善は善の敵である」というウォルター・バジョットの言葉を思い出しましょう。そして徳は一気に手に入れられるものではなく経験を積んだ「魂の倫理的熟練」(シュウ゛ェグラー)によるのです。「幸福な人間とは」とアリストテレスは書いています。「ほどほどのものを所有し、自分が善いと思うところを行い、節度ある仕方でその生涯を送った人である」と。しかも幸福であるとは、その人間の生まれながらの容姿、能力など、つまり運に大きく依存します。そして何よりその人間のエートス(倫理的性状)が決定的な意味を持ってくるのです。「人間はすべて性格である」とバンジャマン・コンスタンも言っています。
 しかし、このような哲学は人生に不満をもち、世界を呪詛し、あるいは変革し、一気に自分と自分の人生を救おうとする人々の賛成するところではありません。この世界をあるがままに受け入れるためには相応の財産と相応の身分と相応の幸運が必要です。アリストテレスは、理想のポリスは中庸の財産ある市民によって作られるし、人は政治に参加することによってはじめて真に人間的な生活ができると言いました。哲学は、人々に魂の隠れ家を提供するのでなく、「人生を着実に眺め、またこれを全体として眺めることに全力を尽くした人々の歩みを導きその心に糧を与える」ためにあるのです。

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