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2005年8月17日 (水)

フロマンタン『オランダ・ベルギー絵画紀行』

 それは一人の幸福な人間の記述から始まります。彼は自然な仕方で真実の中にある最も美しいものに到達します。「リュベンスに創造の秘密などありはしない」とフロマンタンは書いています。「彼には故意に隠された秘伝めいたものは皆無である」リュベンスの最も力のこもった作品群は最も薄塗りに仕上げられています。「彼はやさしく触れ、そっとかすめる」半日の規則正しい仕事の後は、パレットを置き、馬に鞍を置いてもう絵のことは考えません。人生と芸術を楽々と律した男、彼は飾り気なく率直で、親身になって友人のために尽し、名誉や富にも害されず、公人としての務めも果たし、才能ある人々に援助の手を惜しみませんでした。「彼の生涯は光に満ちている」のです。最高傑作の一つ、「キリスト降架」を思い出しましょう。イエスの顔は青白く、痙攣も歪みもなく苦悩を脱したかのようです。その遺骸はぐったりとして重く、弟子たちの手で大切に支えられて降ろされています。今釘で穿たれたキリストの足は地上で待つマグダラのマリアの美しい裸の肩に触れようとしています。どれほどの愛、どれほどの悲しみで彼女はイエスの体を抱きとめようとしたでしょうか。リュベンスが描いたものはすべて自分と自分の愛するものに他ならなかったといわれています。「彼の絵の中の人物はすべて同一の魂を持っている」とフロマンタンは書いています。「なぜなら、それはリュベンス自身の魂だからだ」と。
 リュベンスは地上の王者ですが、心の奥底に降りて行くことはありませんでした。「そんな世界があることさえ気づかなかった」それができたのはレンブラントです。復活したキリストが弟子の前に現れる「エマオの晩餐」、これは「サスキアの肖像」とともに私の心を強く捉えるレンブラント作品なのですが、顔を少し傾げ、うつろに悲しげな表情で、いかにも死から蘇ったような雰囲気を漂わせ、力なくパンをちぎっているキリストの眼は何か遠い世界を見つめているようです。「奇蹟のような作品」とフロマンタンは書いています。「レンブラント以前も以後もこのようにキリストを描いた画家はいなかった」彼は他のオランダの画家と違って、現実を描くことに興味はなく、いや現実に関心があるかさえ疑問でした。レンブラントの生涯ー貧しい出自、収集癖、愛想の無さ等々ーはその絵と同じように暗闇とわずかな光で彩られているのです。
 ウジェーヌ・フロマンタンの『オランダ・ベルギー絵画紀行ー昔日の巨匠たち』(1992岩波文庫・高橋裕子訳)はオランダ絵画をその故郷で眺める目的で書かれました。リュベンスやレンブラントばかりでなく、ライスダールやフランス・ハルスについての記述にも心を惹かれます。

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コメント

argusさん、こんばんは。
「彼の絵の中の人物はすべて同一の魂を持っている」。本質的に作家ではなく詩人だったとボルヘスに評された忘れられた作家、ジョバンニ・パピーニを思い出しました。パピーニの小説の主人公はほとんどすべて同一の詩人、自己自身だったと言われています。「バケツを底まで下ろす」というのは自己を嫌悪すらし、それ以上の深みに到達したいと願い、重度の近眼になるほど紙面をめくって知識をあさり、晩年には神秘思想を研究した詩人にも難しいことだったようです。
「奇蹟のような作品」、できれば直に見てみたいものです。他の画家についても、啓発されることが書かれていそうで、読みたくなりました。
ではまた。

投稿: 茶色のこぐま | 2005年8月22日 (月) 22時49分

茶色のこぐまさん、こんにちは。「パピーニの小説の主人公はほとんどすべて同一の詩人、自己自身だったと言われています」そうですか、昔短編を読みましたが、もう全く記憶に残っていません!いろいろご教授ください。私は軽く10年以上前、東京駅のステーション美術館のオランダ絵画展でライスダールをじかに見ました。でも、思ったより暗い絵だったのでがっかりしました。
 それでは、コメントありがとうございます。

投稿: argus | 2005年8月24日 (水) 22時01分

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