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2005年8月20日 (土)

谷崎潤一郎『或る少年の怯れ』

 芳雄は幼いときに両親に死なれて十九歳離れた長兄の家で育てられました。医者である長兄は、芳雄が八つのときに喜多子という女性と結婚しました。その義姉はとても優しい人で、虚弱で病気がちだった芳雄の面倒をあれこれと見てくれました。その頃、長兄の家は賑やかで、義姉の従妹にあたる瑞江という女学生もよく遊びに来ていました。ある日、芳雄は銀座のレコード店にお使いに行った帰りに兄の経営している医院に顔を出すと、そこで彼は瑞江と不倫している長兄と顔を合わせてしまいます。同じ頃、産後の肥立ちの悪い義姉はなかなか布団が上げられず、それどころか兄の調合する薬を飲んでいくうちにどんどん悪くなっていきます。そして、兄が注射をした直後、白い液を大量に吐いて死んでしまいます。義姉の死の瞬間、芳雄は兄の蒼白の顔と目があってしまいました。その後、長兄は瑞江と結婚しますが、芳雄はもう兄の顔をまともに見ることができません。義姉は兄に殺されたのではないかと疑い、そう疑う自分もまた恐ろしくなり、さらに兄が自分の疑いに気づいているのではないかと不安に苛まれます。ある時は夢の中に兄が現れて芳雄を恫喝したりします。芳雄は昼も夜も長兄と死んだ義姉の幻影に苦しめられて、ひ弱な体がもたず、ついに病床に就いてしまいます。さらに病状は改まって、芳雄は生死の瀬戸際まで衰弱し、ここで長兄が芳雄に注射しようと申し出ます。「兄さん後生だからよして下さい、僕は死にたくありません、、」と芳雄は懇願します。しかし、いよいよ芳雄が死ぬ間際までくると、芳雄の心に変化が起こります。芳雄の顔には神々しささえ宿り、彼は自分が兄を疑った狭い心を後悔します。「兄さん、今までは僕が悪うございました。僕は兄さんの幸せを祈っています、、」というと兄の「ああ、有り難うよ」という答えが死んで行く芳雄の耳にかすかに聞こえます。
 谷崎潤一郎の文学をマゾヒズムに関連づけることは余りに多いのですが、真実はもっと不可解な暗い闇の中にあるかも知れません。『或る少年の怯れ』(大正6年)の主人公は自分を毒殺する兄を神のごとく受け入れます。『春琴抄』の佐助は盲目の恋人が顔に傷を負うと自分の目を突いて失明します。『武州公秘話』の主人公の望みは、美しい女が生首を洗う、その生首になってみたい、というものです。この強い異常性は俗物性と王朝趣味というこれまた理解し難い組み合わせによって薄められ、また覆われているのです。

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