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2005年8月31日 (水)

ロバートD.カプラン『バルカンの亡霊たち』

 「人が残虐行為に手を染める土地、それはいったいどんなところだろう?」とロバートD.カプランは自問します。ドイツでは何も感じない。しかし、ウイーンに入るとそれをかすかに感じることができる、それは虐殺の匂いです。そこには反ユダヤ主義の父カール・リューガーの大きな記念像が建っています(ドイツなら考えられないことです)。そしてバルカンに入ると、そこは果てしのない憎しみと虐殺と裏切りの繰り返しの始まりなのです。1941年ルーマニアの「大天使ミハイル軍団」は200人のユダヤ人を市営の屠殺場で自動化された流れ作業の機械にかけて頭、腕、脚を切断していきました。(ルーマニアからパリに亡命してきたイヨネスコ、エリアーデ、シオランらが若い頃この反ユダヤ主義的、愛国的組織に関わっていたのではないかともいわれています)。ルーマニアはナチ以外で絶滅収容所を作った唯一の国です。1876年トルコ軍はブルガリアの村バタクの5000人の正教徒を教会の中で切り刻んで殺しました。またトルコ軍は1903年にもマケドニア全土で残虐の限りを尽くしました。第二次大戦後セルビア人パルチザンはコソボのアルバニア人を大量に虐殺していきました。大戦中ギリシアのテッサロケの56000人のユダヤ人のうち54060人がアウシュヴィッツに送られて殺されました。バルカンでは虐殺は相応の歴史を持っています。ユーゴスラビアの源は600年前のコソボ平原の虐殺に発しています。遥か昔の出来事だとして誰がそれを忘れることができるでしょうか。それは親から子へ、子から孫へ民族の血となって受け継がれていくのです。
 カプランの『バルカンの亡霊たち』(1996NTT出版、宮島直機・門田美鈴共訳)はバルカン問題に関する恐らく最良の書物です。彼は鞄にレベッカ・ウエストの『黒い子羊と灰色の鷹』とジョン・リードの『東欧の戦争』を入れてバルカン中を旅しました。クロアチアのザグレブで始まり、ギリシアのアドリアノーブルで終わるその旅で、彼は悲惨な歴史を抱える人々と対話し、彼らの歴史を深く深く掘り下げていきます。トルコとロシアとドイツという大国に押しつぶされ、邪悪な指導者に踏みしだかれ、それぞれ屈辱と復讐の歴史を持つ国々にも希望はありました。ルーマニアの森の中の「絵の修道院」はこの世ならぬ美しさに満ちています。そしてカルパチアの奥に住む人々は天国の優しさと素朴さを抱いています。「多くの悪のなされるところでのみ神は蘇りたまう」のです。

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2005年8月27日 (土)

スエトニウス『ローマ皇帝伝』

 競馬好きのカリグラは贔屓の馬インキタトゥスのために象牙の飼葉桶、宝石の首輪、紫紅染の毛布、さらに家と奴隷と家具まで与えました。この馬を執政官にするつもりでいたとも言われています。「カリグラの気違いじみた行いは少しも私を驚かさない」とウ゛ォーウ゛ナルグは『反省と格言』の中で書いています。「私の知人の中にも、もしローマ皇帝であったなら自分の馬を執政官にしたであろう人間がたくさんいる」と。実にそのとおりです。私が頭に浮かべているのは、そうまさにあなたのことなのです!あなたは遠い親類ということだけでローマ皇帝という史上最高の権力を手にしました。まず、あなたは自分の地位を脅かしかねない人間、普段から気にくわないと思っている人間、自分に嫉妬ばかりおこさせる立派な人間を次々処刑するか自殺に追い込みます。さらに、自分の欲望を存分に満たすために他人の妻、神殿の聖女、自分の身内まで犠牲にします。お金を湯水のように使い、金庫が枯渇すると、あらゆる奸策を弄して市民から税金を吸い上げ、遺産を没収します。これこそカリグラやネロが行ったことで、たぶんあなたが彼らだったら行ったかも知れないことなのです。
 スエトニウス(70頃~130頃)の『ローマ皇帝伝』(岩波文庫1986)はカエサルからドミティアヌスまで12人の皇帝の伝記ですが、特にアウグストゥス、カリグラ、ネロの記述は際立っています。スエトニウスは様々なエピソードを平面的に等価に並べることで逆に彼らの人間性を立体的に浮かび上がらせることに成功しました。カリグラは闘技場で剣闘士が拍手喝采されると、嫉妬に狂って見物席を猛烈な速さで走り、自分の市民服の裾を踏みつけ、階段を真っ逆さまに転がりおちますが、「人類の主人たるローマ人があんな剣闘士風情に大きい名誉を与えてやるとは」と叫ぶのを忘れません。カリグラは自分は精神の病を持っていると自覚し、ある時は田舎で脳を浄化したいと思う時もありました。彼は朝、アシアから来た子供の芸人達が夜の出し物のために遊歩場で稽古をしているのを見て激励してやろうと近づいたとき暗殺者に襟首を刺されて29歳で死にました。ネロの最後は何人も共感できるのではないでしょうか。追いつめられて、何度も自殺しようとするが思い切れず、追っ手の騎馬兵が近づいたのを見て、「今や足早に駈けてくる馬の蹄の音が、わが耳をうつ」とイリアスを引用しつつ、ついに自分の喉を刺し貫きます。アウグストゥスは真に偉大な生涯の最後に、傍らの妻に「リウィアよ、われわれの結婚生活を忘れずに生きてくれ、さようなら」と言いました。
 スエトニウスは『皇帝伝』の他に『名士伝』もありますが、なぜか私はほぼ一世紀前の前漢末に『列仙伝』『列女伝』を著した劉向を思い出します。彼らは二人とも皇帝の文書係でした。

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2005年8月24日 (水)

渡辺照宏『日本の仏教』

 渡辺照宏『日本の仏教』(1958 岩波新書)は半世紀前の古い本ですが、特定宗派に組しない公平さと、文章の平明さで、現在でも十分再読に耐えます。まず著者は非常に簡明な前提から出発します。インドに発した仏教の根本は戒律・禅定・智慧にある、つまり戒という道徳的規準を土台とし、禅という宗教的体験によって、慧という絶対的真理に到達するのが、すべての仏教に共通する基本原則であるというのです。ここから上求菩提下化衆生(上に向かっては理想を実現し、下に向かっては衆生を幸福に導く)という生き方が生まれてくるというのです。こういう生き方を実践した僧として著者は、たとえば七世紀の道昭、八世紀の行基、鎌倉時代の叡尊、忍性らを挙げています。彼らは戒律を重んじ、禅定にいそしんだ僧侶たちですが、また人々のために橋をかけ、土手を築き、井戸を掘り、難民を救済しました。叡尊は非人とよばれる人たちに金銭や米を施し、宿を建て、また癩病人の小屋を作りました。忍性は飢饉や疫病流行のときに弟子たちを動員して活躍し、貧しい人たちの療病所や捨子の施設などを建てました。人々から「医王如来」として慕われたこの忍性を「律国賊」として非難したのは最もファナティックな宗教者日蓮でした。また、自力の拒否、戒律の放棄を唱える浄土真宗はその性格ゆえに社会事業に目を向けません。仏教の真の姿を正しく自覚してこれを実践しようとする意志は同時に民衆への無限の慈愛として表れる、と著者は書いています。
 著者は日本仏教の特筆すべき二人について書いています。一人は良寛で、もう一人は道元です。越後の名主の長男として生まれた良寛は、弟に家を譲り、備中の円通寺で禅僧としての厳しい訓練を受け、各地を行脚し、乞食生活を送り、晩年はみすぼらしい小屋で七十五歳の生涯を閉じました。庵にただ一つのすり鉢をそなえ、これで味噌をすり米を研ぎ手足まで洗いました。盗人に物を与え、乞食を愛し、子供と無邪気に遊ぶ彼の奇行じみた生活はその高潔な人格の表れに他なりません。人や動物植物などあらゆる自然に寄せられた愛情は厳しい禅の修行を前提にしたもので、竹の子を伸ばしてやるために床を切り、屋根を破ったというのも良寛なればこそきわめて自然なのです。道元については多くが語られてきました。彼は第一級の貴族の出自ですが、世間的な富や名声と縁を断って、ひたすら宗教者として仏教本来の姿に肉迫しました。人も自然もすべてこれ仏心あり、などという安易な仏教理解がはやる昨今、厳しく実践を問い続けた道元こそ慕わしいのです。

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2005年8月20日 (土)

谷崎潤一郎『或る少年の怯れ』

 芳雄は幼いときに両親に死なれて十九歳離れた長兄の家で育てられました。医者である長兄は、芳雄が八つのときに喜多子という女性と結婚しました。その義姉はとても優しい人で、虚弱で病気がちだった芳雄の面倒をあれこれと見てくれました。その頃、長兄の家は賑やかで、義姉の従妹にあたる瑞江という女学生もよく遊びに来ていました。ある日、芳雄は銀座のレコード店にお使いに行った帰りに兄の経営している医院に顔を出すと、そこで彼は瑞江と不倫している長兄と顔を合わせてしまいます。同じ頃、産後の肥立ちの悪い義姉はなかなか布団が上げられず、それどころか兄の調合する薬を飲んでいくうちにどんどん悪くなっていきます。そして、兄が注射をした直後、白い液を大量に吐いて死んでしまいます。義姉の死の瞬間、芳雄は兄の蒼白の顔と目があってしまいました。その後、長兄は瑞江と結婚しますが、芳雄はもう兄の顔をまともに見ることができません。義姉は兄に殺されたのではないかと疑い、そう疑う自分もまた恐ろしくなり、さらに兄が自分の疑いに気づいているのではないかと不安に苛まれます。ある時は夢の中に兄が現れて芳雄を恫喝したりします。芳雄は昼も夜も長兄と死んだ義姉の幻影に苦しめられて、ひ弱な体がもたず、ついに病床に就いてしまいます。さらに病状は改まって、芳雄は生死の瀬戸際まで衰弱し、ここで長兄が芳雄に注射しようと申し出ます。「兄さん後生だからよして下さい、僕は死にたくありません、、」と芳雄は懇願します。しかし、いよいよ芳雄が死ぬ間際までくると、芳雄の心に変化が起こります。芳雄の顔には神々しささえ宿り、彼は自分が兄を疑った狭い心を後悔します。「兄さん、今までは僕が悪うございました。僕は兄さんの幸せを祈っています、、」というと兄の「ああ、有り難うよ」という答えが死んで行く芳雄の耳にかすかに聞こえます。
 谷崎潤一郎の文学をマゾヒズムに関連づけることは余りに多いのですが、真実はもっと不可解な暗い闇の中にあるかも知れません。『或る少年の怯れ』(大正6年)の主人公は自分を毒殺する兄を神のごとく受け入れます。『春琴抄』の佐助は盲目の恋人が顔に傷を負うと自分の目を突いて失明します。『武州公秘話』の主人公の望みは、美しい女が生首を洗う、その生首になってみたい、というものです。この強い異常性は俗物性と王朝趣味というこれまた理解し難い組み合わせによって薄められ、また覆われているのです。

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2005年8月17日 (水)

フロマンタン『オランダ・ベルギー絵画紀行』

 それは一人の幸福な人間の記述から始まります。彼は自然な仕方で真実の中にある最も美しいものに到達します。「リュベンスに創造の秘密などありはしない」とフロマンタンは書いています。「彼には故意に隠された秘伝めいたものは皆無である」リュベンスの最も力のこもった作品群は最も薄塗りに仕上げられています。「彼はやさしく触れ、そっとかすめる」半日の規則正しい仕事の後は、パレットを置き、馬に鞍を置いてもう絵のことは考えません。人生と芸術を楽々と律した男、彼は飾り気なく率直で、親身になって友人のために尽し、名誉や富にも害されず、公人としての務めも果たし、才能ある人々に援助の手を惜しみませんでした。「彼の生涯は光に満ちている」のです。最高傑作の一つ、「キリスト降架」を思い出しましょう。イエスの顔は青白く、痙攣も歪みもなく苦悩を脱したかのようです。その遺骸はぐったりとして重く、弟子たちの手で大切に支えられて降ろされています。今釘で穿たれたキリストの足は地上で待つマグダラのマリアの美しい裸の肩に触れようとしています。どれほどの愛、どれほどの悲しみで彼女はイエスの体を抱きとめようとしたでしょうか。リュベンスが描いたものはすべて自分と自分の愛するものに他ならなかったといわれています。「彼の絵の中の人物はすべて同一の魂を持っている」とフロマンタンは書いています。「なぜなら、それはリュベンス自身の魂だからだ」と。
 リュベンスは地上の王者ですが、心の奥底に降りて行くことはありませんでした。「そんな世界があることさえ気づかなかった」それができたのはレンブラントです。復活したキリストが弟子の前に現れる「エマオの晩餐」、これは「サスキアの肖像」とともに私の心を強く捉えるレンブラント作品なのですが、顔を少し傾げ、うつろに悲しげな表情で、いかにも死から蘇ったような雰囲気を漂わせ、力なくパンをちぎっているキリストの眼は何か遠い世界を見つめているようです。「奇蹟のような作品」とフロマンタンは書いています。「レンブラント以前も以後もこのようにキリストを描いた画家はいなかった」彼は他のオランダの画家と違って、現実を描くことに興味はなく、いや現実に関心があるかさえ疑問でした。レンブラントの生涯ー貧しい出自、収集癖、愛想の無さ等々ーはその絵と同じように暗闇とわずかな光で彩られているのです。
 ウジェーヌ・フロマンタンの『オランダ・ベルギー絵画紀行ー昔日の巨匠たち』(1992岩波文庫・高橋裕子訳)はオランダ絵画をその故郷で眺める目的で書かれました。リュベンスやレンブラントばかりでなく、ライスダールやフランス・ハルスについての記述にも心を惹かれます。

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2005年8月15日 (月)

柳宗悦『柳宗悦茶道論集』

 喜左衛門井戸は天下第一の器物で、名だたる茶人たちの手を経て雲州不昧公に金子五百五十両で買い取られ、以後松平家の許可無くしては何人も拝観できない大名物中の大名物と言われています。柳宗悦はある人の好誼で大徳寺所蔵のこの茶碗を見ることができました。今、彼の目の前には五重の箱に入れられ、紫の衣にくるまれてその茶碗が置かれています。禅師は静かに箱からそれを取り出し宗悦の前に差し出します。彼はそれを見、それを手に取りました。「いい茶碗だーだが何と平凡きわまるものだ」と彼は心の中で叫びます。凡々たる品物、何の企みも飾りもない、これ以上平易な器物はありません。それは朝鮮の飯茶碗で、貧乏人が普段に使う一番値の安い茶碗です。誰にもできるし、誰にも買えたもの、無造作に、しかも何千個も作らねばもとのとれない雑器にすぎません。土は裏手の山から掘り出し,うわぐすりは炉からとってきた灰で、ろくろは芯が緩んでいて、削りは荒っぽく、焼き方は乱暴、使うのは農民で、盛られるのは白米でなく、使ったあとでろくに洗われもしないのです。朝鮮の田舎を旅すれば誰でも出会うありふれた光景、それがこの茶碗のありのままの正体です。
 しかし、日本で作られるどんな茶碗もこの茶碗を越える美しさを持つことはできなかったのです。その美は賜物であって、作られたものでなく生まれたものです。企みのないもの、邪気のないもの、無心なもの、奢らないもの、それが室町期の茶人の心を打ったのです。彼ら美の探求者たちは、箱書きに頼らず、銘などものともせず、誰の作なのかも尋ねず、人々の評など気にせず、曇りのない眼でものをじかに見たのです。「かくも深く見得た人々を私は海外に知らない」と宗悦は書いています。「茶人の眼は甚だ正しい。平凡な飯茶碗はそのままにしてついに非凡な茶器に変わったのである」
 柳宗悦(1889~1961) の『柳宗悦茶道論集』(1987岩波文庫)は平易・無事の姿を最上とする民藝論を語った彼の最も先鋭な評論です。「私は『井戸』の幾多の兄弟や姉妹が今もこの世にあることを示してゆこう。そうしてこの地上を少しでも美しくしてゆこう」と彼は書いています。その美意識に賛成はできないとしても、その激しい熱情には打たれます。「熱くも冷たくもなく、ぬるきがゆえに私は吐き出す」とヨハネ黙示録3-16は記しています。

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2005年8月14日 (日)

ファン・フーリク『中国のテナガザル』

 唐代の文人柳宗元は若くして集賢殿書院正字に任官しましたが、後ろ盾であった王淑文の失脚により、遠隔地である柳州の長官に左遷されました。彼はそこで没するのですが、詩の中で、自分たちを失脚させた宮廷の人々をマカク、つまりありふれた猿に、王淑文や自分をテナガザルに擬しています。マカクは凶暴で粗野、テナガザルは高潔で礼儀正しいので、「善と悪は郷を同じうせず」すなわちテナガザルはマカクたちの間で暮らすことはできないのです。マカクとは孫悟空の猿であり、芸をする猿です。テナガザルに芸を仕込むなどは不可能です。彼らは猫のように高貴で自由を愛します。人里を嫌い深山幽谷に住み、他の猿たちを自分たちより一ランク低いものと見なしています。この超然たる態度は中国人の心を打ち、彼らこそ類人猿の中の君子であると思わせたのでした。
 天才詩人李白は子供のときにテナガザルの生息地の四川で育ったのでテナガザルを他の猿と見違えることは決してありませんでした。彼はその放浪の生涯の間、テナガザルについて多く書いており、それは八世紀のテナガザル生息地についての貴重な資料となっています。
  秋浦多白猿  秋浦に白猿多し
  超騰若飛雪  超騰(とんだりはねたりする)飛雪の如し
  牽引條上兒  條(えだ)の上の兒を牽引し
  飲弄水中月  飲んで水中の月を弄ぶ
 ファン・フーリク(1910〜1967)の『中国のテナガザル』(1992博品社中野美代子高橋宣勝訳)は、この動物の中の貴族ともいうべきテナガザルについての貴重な報告・研究です。彼は自身もテナガザルを飼い、その生態を詳細に観察していました。テナガザルは完全な一夫一婦制を守り、少数の子供を大事に育てます。(「断腸の思い」という言葉は子供を失ったテナガザルの母親の腹を割いてみたら腸がずたずたに切れていたところから来ています)主食は果物で、生活のすべては樹上で過ごされるため、枝から枝へわたるブラキエーションを何年もの練習で会得しなければなりません。テナガザルを飼うことは、その悲しい別れに耐えることです。成人した彼らは森に帰らねばなりません。九世紀の詩人・音楽家・軍人であった王仁裕が職を辞し故郷への帰途漢江で休んでいると、たくさんのテナガザルが清流を飲みに降りてきました。すると一匹のテナガザルが群れの中から離れて道ばたの古木にぶら下がってこちらを見ています。それこそ彼がかって飼っていた野賓と名付けたテナガザルで、人間と動物は互いの姿が見えなくなるまで泣きながら声を掛け合っていたとのことです。
 オランダの人ファン・フーリクは駐日大使も務めた碩学の外交官・学者・作家で、七世紀の実在の判事狄仁傑を主人公にした推理小説のシリーズは有名です。また名著『古代中国の性生活』(1988せりか書房)の作者としても知られています。

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2005年8月12日 (金)

エミール・マール『ヨーロッパのキリスト教美術』

 エミール・マールの『ヨーロッパのキリスト教美術』(1995岩波文庫)は美しい偏見に支配されています。それは13世紀という時代とフランスという国への賛歌です。ゴシックの晴朗さは大聖堂を生み出しました。「フランスはこれ以上偉大なものを何も作らなかった」し、「フランスだけが大聖堂を世界の像に、歴史の集約に、精神生活の鏡にすることができた」のです。大聖堂の中に入ってみましょう。「自分の心が清められたと感じることなしにアミアンの巨大な身廊へ入ることはできない。この教会は、その美しさだけで秘蹟のように働きかけるのである」現代の私たちでさえ感じることを中世の人たちはどれだけ生き生きと感じたことでしょう。彼らにとって大聖堂は完璧な啓示、芸術以上のもの、世界そのものであり、その中で神と人とが溶け合うのです。全ヨーロッパを通じてシャルトルに比肩しうるものは存在しません。それはカトリック的、つまり普遍的なものへのフランス人の熱情を語っています。その偉大な世紀にフランスのすべての生命力が、シャルトルに、アミアンに、ランに、リヨンに、サンスに、ブルジェに、ルーアンに、ランスに、そしてパリに結集したのです。
 14世紀、そして15世紀になるともはや芸術は天上の反映であることをやめてしまいます。キリスト教の基調は愛から苦しみへ、そして死へと移ってきます。何よりヨーロッパを席巻したペストが人々を恐怖に陥れ、その救済を諸聖人への信仰へと向かわせたのでした。ここではその一人聖ロックについてだけ紹介しましょう。彼は疫病が流行し始めた時期にモンペリエで生まれ、成年に達するとローマへの巡礼行脚を企てました。ところが旅の途中でペストから逃れる人々の列に遭遇したロックは、一目散に逃げ出すかわりに疫病の街に赴き、献身的に病人の看護にあたったのでした。彼は普通の人々と反対に、ペストの跡を辿り廻って、チェザーネへ行き、リーミニへ行き、ついにローマに達しました。彼は疫病のため人口が半減し巨大な墓場と化したローマに三年留まり、そしてフランスへの帰途、ついにピアチェンチェでペストに感染しました。彼は森の中に身を潜め、静かに死を待ちます。ここに感動的な伝説が始まります。犬が聖ロックに日々のパンを運んでくるのです。彼は体力を回復し、故郷モンペリエに帰りますが、しかし、ぼろぼろの衣服でやせ細った彼を身内の人間も否認し、スパイの嫌疑で牢屋に入れられ、そこで32歳の生涯を閉じます。彼が生涯でなしたことといえば一身を捧げる事だけでした。人々はペストからの癒しをこの聖人に求めました。その像の下には常に一匹の犬がパンをくわえて付き添っているのです。

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2005年8月 9日 (火)

樋口一葉『わかれ道』

 明治29年に発表された『わかれ道』は短編ばかりの一葉作品の中でもさらに短いもので、わずかでも余分なところはすべて切り捨てたシンプルな構成は天才の技でしょう。登場人物は捨て子だった若い傘職人の吉三と年上の裁縫師お京の二人のみ、冒頭は吉三が夜にお京の家を訪れ、焼き餅をたべながら話をする場面です。吉三は十六歳で町内の暴れん坊、しかし、お京はそんな吉三を弟のように思い、吉三もお京の前では心をすっかり開いて親方夫婦への愚痴や自分の不遇について話します。お京は注文のたまった裁縫の手を休めず、優しく吉三の話を聞いてあげるのです。しかし、ここで突然二人に別れがやってきます。手間賃仕事の煩わしさと貧乏な境遇に嫌気がさして、お京が妾に行くことを承諾してしまうのです。吉三はそんなお京を「何んな出世になるのか知らぬが其処へ行くのは廃したが宜らう、何もお前女口一つ針仕事で通せない事もなからう、あれほど利く手を持って居ながら何故つまらない其様なことを始めたのか余り情けないでは無いか」となじります。するとお京は「それでも吉ちゃん、私は洗い張りに倦きが来て、もうお妾でも何でも宜い、何うで此様な詰まらないづくめだから、いっその腐れ縮緬着物で世を過ぐさうと思うのさ」と弁解します。吉三は「もうお京さん、お前には会はないよ、どうしても会はないよ」と言って背を向けます。必死に留めるお京、しかし吉三は目に涙を浮かべてお京の手を振り払おうとします。わずか13ページの物語はここで終わります。
 小説の目的は人間の真情を描くことである、人間の真情は金持ちや高位高官の人間の中には現れない、そして人間の真情は切羽詰まった状況のときに劇的に現れる、以上が一葉作品の基調をなす考えです。その根底には一葉の高い志、弱きを助ける正義感、深い文学的教養があります。時代の転変とともに埋もれて行く明治東京の庶民の心持ちは彼女の手によって鮮やかに残されたのです。

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2005年8月 7日 (日)

ジル・ドゥルーズ『スピノザ』

 スピノザは死んだ時に7冊の蔵書とひとつの寝台しか遺しませんでした。それが彼の所有するもののすべてでした。彼は下宿暮らしを続け、父の遺産相続を放棄してからは財産も土地も何一つ執着するものをもたなかったのです。彼は、しかし、貧乏のまま死んだのではありません。彼の心酔者たちからの寄進にも最小限のものしか受け取らず、疲れた頭を休めるときは下宿の主婦や他の同居人たちと雑談をし、彼らが病気のときは懸命に看病したのでした。「哲学者が禁欲的な徳ー謙虚・清貧・貞潔ーをわがものとするのは、およそ特殊な途方もない、じつのところ禁欲とはほど遠い目的にそれを役立てるためなのだ」とジル・ドゥルーズは『スピノザ 実践の哲学』(2002平凡社ライブラリー鈴木雅大訳)で書いています。「謙虚も清貧も貞潔も、いまやことのほか豊かな、過剰なまでの生、思惟そのものをとりこにし他のいっさいの本能を従わせてしまうほど強力な生の結果となるのである」「謙虚も清貧も貞潔も、まさに自らが〈大いなる生者〉として生き、われとわが身を、あまりにも誇らかな、あまりにも豊穣な、あまりにも官能的な原因のための一神殿と化す彼一流のやり方だったのだ」
 ドゥルーズがスピノザに示す満幅の共感には何か私たちの心を揺り動かすものがあります。ジッドがモンテーニュについて書き、アルトーがヴァン・ゴッホについて書き、バレスがエル・グレコについて書いたのをそれは思い出させます。いや、それ以上の共感の激発といったものがそこにはあるのです。「このつましい、無一物で、病にも蝕まれていた生が、この華奢でひ弱な体が、この輝く黒い眼をした卵形の浅黒い顔が、どうしてこれほど大いなる生の活気に満ち、生そのものの力を体現している印象を与えるのだろう」とドゥルーズは自問しています。おそらくそれはスピノザの哲学ー希望の哲学そのものに内在しているのでしょう。なぜならスピノザにとって現実のあらゆる否定的なものの徴候にもかかわらず人間の生は十分すぎるほど信頼できるものであったからです。破門され、友人を虐殺され、住む街を追われ、暗殺されかかった時の穴のあいたマントを自戒のため常に手放さなかったこの哲学者は、死ぬその瞬間まで生への信頼を捨てなかったのです。

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2005年8月 3日 (水)

ふたたび『ギリシア宗教発展の五段階』

 ポリスの危機はまた信仰の危機でもありました。人々はポリスに変わるものを求め、クセノフォンにとってはそれはペリクレスやアゲシオラスのような超絶した個人であり、ディオゲネスにとってはすべての因習の否定、エピクロスにとっては困難をあらかじめ回避する隠遁の思想でした。
 しかし、ここでギルバァト・マレーが最も強い共感を持って描くのは逍遥学派の祖アリストテレスです。彼は現存する世界を否定したり、変形したりする激越な思想を発明するかわりに、それをあるがままに受け入れ理解しようとしたのです。それは人類の牢獄(ひとや)を開く呪文、開け胡麻を持っていませんでした。魂の救いを熱情的に求める人々に、アリストテレスは自分の生活に立ち返り、然るべきことを然るべき仕方でなすように教えます。最善を手に入れることは不可能であり、限りなく近づくことは出来ても、それが相対的であることを忘れてはいけません。「最善は善の敵である」というウォルター・バジョットの言葉を思い出しましょう。そして徳は一気に手に入れられるものではなく経験を積んだ「魂の倫理的熟練」(シュウ゛ェグラー)によるのです。「幸福な人間とは」とアリストテレスは書いています。「ほどほどのものを所有し、自分が善いと思うところを行い、節度ある仕方でその生涯を送った人である」と。しかも幸福であるとは、その人間の生まれながらの容姿、能力など、つまり運に大きく依存します。そして何よりその人間のエートス(倫理的性状)が決定的な意味を持ってくるのです。「人間はすべて性格である」とバンジャマン・コンスタンも言っています。
 しかし、このような哲学は人生に不満をもち、世界を呪詛し、あるいは変革し、一気に自分と自分の人生を救おうとする人々の賛成するところではありません。この世界をあるがままに受け入れるためには相応の財産と相応の身分と相応の幸運が必要です。アリストテレスは、理想のポリスは中庸の財産ある市民によって作られるし、人は政治に参加することによってはじめて真に人間的な生活ができると言いました。哲学は、人々に魂の隠れ家を提供するのでなく、「人生を着実に眺め、またこれを全体として眺めることに全力を尽くした人々の歩みを導きその心に糧を与える」ためにあるのです。

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