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2005年7月20日 (水)

イーヴリン・ウォー『ブライヅヘッドふたたび』

 オックスフォードに入学したばかりのセバスチャン・フライトは際立った美青年で、その天真の純粋さは誰をも惹きつけずにはおきません。アロイシアスと名のついた大きな仔熊のぬいぐるみを親友のようにいつも持ち歩いています。侯爵の次男である彼の生活はいつも至上命令「今夜は赤いパジャマを着なければ」「明日は絶対昼まで寝ていなければ」「君に謝らないとアロイシアスが許してくれないから、、、」というものに支配されているのです。「シャトー・ペラゲーの白葡萄酒と苺を食べると天国の味がするよ」と彼は友人にいいます。そして美しい楡の樹の下に寝転びながら、「ここは金の甕を埋めるのにちょうどいいところだ」と言います。「ぼくは自分が幸福な思いをした場所ごとに何か貴重なものを埋めて、そして自分が年をとって醜くなってからそこへ戻ってそれを掘り出しては昔を回顧したいんだ、、」
 そんなセバスチャンがオックスフォードの二年目から酒に溺れるようになり、大学を退学し、家族との連絡を断ち、モロッコからアルジェ、アルジェからギリシアに流れて貧民同然の生活をし、ついにはカルタゴの修道院の下働きになっていくのです。『ブライヅヘッドふたたび』の主眼は読者がこのセバスチャンの人生を肯定できるかどうかに焦点を合わされています。彼の母親のマーチメーン侯爵夫人と兄のブライヅヘッド伯は凝り固まったカトリック教徒で、敬虔な生活を愛し、セバスチャンの奔放な生活と飲酒癖をいつも非難しています。ところがカトリック教徒としては完全である彼らに欠けているものは実は皮肉にも信仰そのものなのです。セバスチャンは反対に自分自身を罪深い人間と感じ、自分自身を憎み、自分自身に際限のない罰を与えようとします。彼は自分を普通の人間にもなれず、かといって修道士にもなれない、つまり何の価値も無い人間と見なします。そして。ここにこそ作者の思いがこめられているのです。現世は無であり、来世がすべてなのです。生はかりそめの姿、死は喜ぶべき訪れです。信仰に身を捧げて生きるとは、信仰から遠ざかることに他なりません。ぼろぼろの衣服を着、やつれた姿をしてセバスチャンが修道院を訪れたとき、院長から、修道士になるには修行が必要だと言われます。「ぼくは修行したくないんです。修行しなくてならないのなら、しなくていいんです」と彼は答えます。キリストがもしイギリス有数の大貴族の次男に生まれてきたら、多分彼の生涯はセバスチャンと似通ったものになるに違いありません。彼もまた思い出の場所に大切なものを埋め、仔熊のぬいぐるみを連れて歩くでしょう、、。

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