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2005年6月11日 (土)

『列子』を読みながら

  「人から気に入られる以外に私たちは何を求めているだろう?」と17歳のセシルは言っています。『悲しみよこんにちは』はサガン18歳の出世作ですが、その率直で辛辣で自己中心的な筆致は私たちに快い衝撃を与えます。確かに、私たちの振る舞いの動機は人からの評価に大きく依存しています。衣服や、車や、住まいや、果ては生き方の哲学さえも、自分を少しでも大きく見せようといういじらしい努力によって決定されていることが多いのは、私自身を考えてもよくわかります。ボードリヤールやブルデューを持ち出すまでもなく、消費的生活は差異の創造にすぎないのではないでしょうか。
 そんなことを考えているとき、『列子』(岩波文庫)の次のような箇所を読んで衝撃を受けました。楊朱が老子に会って教えを請おうとするが、老子に「お前は教え甲斐がないから駄目だ」と断られます。楊朱がその訳を聞くと、お前はいつも傲然と胸を反らしているから、と老子は答えます。確かに、二人がはじめ連れ立って宿屋に入ろうとすると、楊朱があまりに立派そうに見えたので宿屋の召使いが総出で出迎え、亭主は座布団を手にして、内儀は手拭や櫛を持って世話をやき、泊まり客は席を譲り、火のそばに居る者は身をひいて楊朱にあたらせるという風でした。ところが老子の教えを聞いた楊朱は深く反省し態度を改め、その宿屋を退出するときには、泊まり客が少しも遠慮などしなくなって、彼と座席の奪い合いをするようにまでなった、とのことです。
 ここには生に救いを付与する何かがあります。自分がとるに足らぬ存在として、軽く扱われ、ついでのように言葉をかけられ、あるいはあからさまに馬鹿にされたりすることは悲しいことです。しかし、人生はそこまで身を低め、薄羽蜉蝣のような存在になってはじめて見えてくるものもあるのではないでしょうか。「目の中の塵は最良の拡大鏡」(アドルノ)というわけです。
 

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