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2005年6月16日 (木)

アーレント『過去と未来の間』

 丸山真男の『戦中と戦後の間』(みすず書房1976)は1936-1957までの期間の論文・エッセイ・書評などを集めたものですが、教えられること多く、本はたちまち私の傍線で埋まりました。ここには学問に身を捧げた人間の持つ心の寛さと謙虚さがあります。しかし、その教養に驚きつつも、E・M・フォースターの言葉を借りれば「バケツが底まで降りていない」もどかしさも感じます。器用さはあるが、人間の深奥にまで踏み込む鋭さはありません。引っぱり上げたバケツには常に丸山真男の顔だけが浮かんでいます。
 ところで、その本の書名は丸山自身によればハンナ・アーレントの『過去と未来の間』にあやかったとのことですが、丸山の書名はただ執筆の時期によったものか、あるいはせいぜいルサンチマンの香りがする程度ですが、アーレントの「過去と未来の間」とは人が状況の中で思考し始めるとき出現する「裂け目」のことで、彼女の政治的思考の原点となっているるものです。
 収録されている八編の中から核というべき「歴史の概念ー古代と近代」を紹介します。ギリシア人たちにとって人間は「死すべきもの」the mortals でした。対して、神々と自然(動物を含む)は常に存続するが故に「不死のもの」the immortals とみなされます。動物は種として無限に続いて行くが、人間は唯一個体としての生を引き受けるからです。可死の存在である人間は、その触れるものすべてを感染させます。人間にまつわるすべては生成し、行動し、死滅して忘れ去られます。その忘却に抗して、人間存在を永遠にまで高めるものは彼らの偉大な行為に他なりません。偉大な行為と言葉は世紀を越えて人々の記憶に残り、それは歴史記述として不滅の世界に入り込みます。「無名のまま死ぬことは恐ろしい」とプラトンは書きました。ただ生きることは何の意味もありません。なぜなら「人間が最高の存在であるはずがない」(アリストテレス)し、「ゆえに、あまり真面目に考えてはならない」(プラトン)からです。
 ところが、ユダヤーキリスト教のヘブライ的思考は、この考えを転倒させました。彼らにとっては人間の生命こそ永遠なのです。自然の事物はとるに足らぬ滅びゆくもので考える価値もありません。過ぎ去っていくものは世界であり、人間は永遠に生きるのです。不死性は個人のみにあり、故に生命は世界のいかなるものにもまして神聖で、人間は地上で最高の存在とみなされました。私自身は無論、ギリシア的考えに同意しますが、、。
 ディズニーのアニメ「ヘラクレス」は神々の子孫であるヘラクレスが人間の女性を愛したために、神のまま不死でいるか、愛する女性と生きるために人間になって可死の存在になるか、の二者択一をせまられます。そして、ヘラクレスは愛のために不死の身分を投げうつことを決意し、まさにその行為によって神になるのです。ここには異教的な、それゆえ共感できる何かがあります。
 ハンナ・アーレントからは多くのことを学びました。この著作と、もうひとつ『暗い時代の人々』が私には最も忘れられない書物です。

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