« 2005年5月 | トップページ | 2005年7月 »

2005年6月28日 (火)

アーセン・ベンゲル『勝者のエスプリ』

 サッカーの監督として最も大切なことのひとつは、選手の可能性を引き出すということです。選手には自分の限界が見えません。実は限界がもっと先にあるということも多いので、ここで指導者のアドバイスが必要になります。監督は、限界に挑むことを拒否する選手に。衝突を生むぎりぎりのところで道を指し示さねばなりません。ここでの鍵は選手のモチベーションにあるのですが、豊かな社会では限界をこえようとするほどのモチベーションを持つことはすでにひとつの才能といえます。そして、彼らはその理想の高さゆえに、自らの中にコントロールできないほどの不安や疑いを抱えてしまいます。キャリアの初期の段階で成功が訪れると、内実は逆に脆くなり、人生を安易なものと考えて才能は十全に開くことなく終わってしまいます。「この世界では才能さえ落とし穴になりうる」「厳しさは自然に身に付くものではない。人はガーンと頭を殴られるような経験を経て人生を学んでいくものなのだ」
 ベンゲルはストラスブール大学で政治経済学を学びましたが、卒業しても家族の望むような経済の専門家にはならずサッカーの監督の道を選びました。人生は「受け入れなければならないゲーム」です。30歳でフランスの国家資格を取り、国内チームのナンシーやモナコで際立った成績を残して、1995年から2年間名古屋で指揮をとり、不振のグランパスエイトを天皇杯優勝まで導きました。そして、プレミアリーグのアーセナルへの電撃移籍からの活躍は周知のことでしょう。無敗での優勝を含む3度のリーグ制覇でその名声は不動のものとなっています。
 彼は来日前、日本を、すべてロボット化された寂しく楽しみの少ない国と見ていたようです。しかし、2年間の日本での生活の後では、ここにはヨーロッパでは失われた美徳が残っていると感じるようになります。「それは日本の習慣に慣れていない人でも、その『価値観』を信じれば幸せになれる、という種類のものだ。それは礼儀正しさ、他人に対する敬意、他人の自由を尊重する意思等々である、、」「ちょっとしたことでも他人によろこんでもらえれば、それは自分の深いよろこびにつながる、そんなヨーロッパでは以前当たり前にあったことを、ここ日本ではたびたび経験することができた」と彼は書いています。
 彼の日本への不満を一つだけあげましょう。なぜスタジアムを作るとき、必ずと言っていいほどトラックを作ってしまうのか。陸上競技はマイナーなスポーツでしかないのに、、。これは私もその通りだと思います。トラックがあるとピッチに立つ選手たちが遠く感じられるのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年6月23日 (木)

ヒメネス『プラテーロとわたし』

 ヒメネスの散文詩『プラテーロとわたし』は「桑の実やカーネーションを、いつもわたしにくれた、ソル通りの、あのかわいそうな狂女、アゲディリア」に捧げられています。作家のジャン・ジオノはこの舞台となったスペインの町モゲールを訪れ、ソル(太陽)通りにその狂った少女を探しにいきます。すると、粗末な家の軒下に、唇を真っ赤に塗ったジプシーの女の子が自分をじっと見つめているのに気づくのです。そうです、このすばらしい作品に登場する病気の犬や、幼くして死ぬ少女や、司祭や、山羊や、悪魔や亡霊まで、みな実在して、モゲールの町の、プラテーロが埋まっている松の木の下のまわりを漂っているのです。
 プラテーロは銀色の綿毛と黒い瞳を持ったロバで、スペインの多くのロバがそうであるように、粗食で辛い労働に堪える辛抱強さをもっています。それに加えてプラテーロは甘ったれで、イチゴやブドウを好み、自分を愛してくれる人に懸命に尽くします。その頃ヒメネスは、精神の病に苦しみ、生家の没落、父母の死別、婚約者の病死などで何度も死を考える青年でした。悲しみに満ちたその瞳は、こうして善良さと素朴さの象徴である一匹のロバに出会ったのです。ヒメネスは帽子をかぶり、黒い服を着て、ロバにのって山野を歩きました、町の子供たちにきちがいと呼ばれながら、、、。モゲールの自然は彼に徐々に精神の均衡を取り戻させていきました。彼はプラテーロに、オレンジの木やザクロの実や沈んでいく夕陽や小川の上にかかる虹について語りかけます。プラテーロは彼にとって、か弱きもの、幼きもの、無垢であるがゆえに傷ついていくもののすべてを表していたのです。
 『プラテーロとわたし』はさまざまな版が出ていますが、私はかわいいイラストの入ったフォア文庫の子供向けの二冊本が気にいっています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年6月22日 (水)

クルーチ『みごとな生命の連鎖』

 私はファーブルの『昆虫記』をほんの少し読んだだけですが、たぶんそれ以上読み続ける時間も気力もないでしょう。昆虫の生活は驚くべきものであり、アリは特別のきのこを栽培し、スズメバチは獲物を麻痺させて生きたまま巣に運びます。ファーブルはそこに神の栄光を見るのですが、彼らの巧妙な生活術はすべて本能にインプットされたものであり、経験に学ぶことなく、ゆえに失敗もしないのです。クルーチはそこには「何か忌まわしくゾッとするもの」があると言っています。「われわれの理解を越え、いや、ほとんどわれわれの共感さえも届かない遥か彼方の宇宙の一部に彼らは属している」そして、「どんなことがあっても、昆虫にはなりたくない。とわれわれは考える」とまで書いています。
 反面、飼いネコは分娩の場所を探して迷ったあげく最悪の場所を選んでしまいます。北米のオオツノヒツジは年に一度の他のオスとの闘いに勝ったあとは気ままに無気力に暮らします。ベニスズメはひたすら鳴き続けます、まるで自分の幸せを宇宙全部に誇示するように、、。彼らは昆虫に比べれば不完全な生物です。彼らは意識し、求愛し、挫折し、歓喜します。そして、無論これこそ彼らがアリに比べ「高等」な生物である所以なのです。
 クルーチ『みごとな生命の連鎖』は1971年みすず科学ライブラリーの一冊として上下二巻の形で世に出、その後1987年に一巻本として再刊されました。著者は英文学者で劇評家、よって、すぐれたアマチュアの精神があります。この本の価値は、自然観察に価値判断をたっぷり織り交ぜたところであり、人間とその生命の意味まで考えてしまっています。同じ著者の『砂漠の歳月』(みすず書房)は最近ほとんどみかけません。
 アリとミツバチの世界には全体主義国家に見られる無慈悲と残忍さが、オオシカとオオツノヒツジの世界にはホメロスの勇士たちの高貴な野蛮さがあります。モンテーニュからディドロそしてルソーにいたるまで称揚され,そして今もなお私たちの憧れはこの bon sauvage にこそあるのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年6月16日 (木)

アーレント『過去と未来の間』

 丸山真男の『戦中と戦後の間』(みすず書房1976)は1936-1957までの期間の論文・エッセイ・書評などを集めたものですが、教えられること多く、本はたちまち私の傍線で埋まりました。ここには学問に身を捧げた人間の持つ心の寛さと謙虚さがあります。しかし、その教養に驚きつつも、E・M・フォースターの言葉を借りれば「バケツが底まで降りていない」もどかしさも感じます。器用さはあるが、人間の深奥にまで踏み込む鋭さはありません。引っぱり上げたバケツには常に丸山真男の顔だけが浮かんでいます。
 ところで、その本の書名は丸山自身によればハンナ・アーレントの『過去と未来の間』にあやかったとのことですが、丸山の書名はただ執筆の時期によったものか、あるいはせいぜいルサンチマンの香りがする程度ですが、アーレントの「過去と未来の間」とは人が状況の中で思考し始めるとき出現する「裂け目」のことで、彼女の政治的思考の原点となっているるものです。
 収録されている八編の中から核というべき「歴史の概念ー古代と近代」を紹介します。ギリシア人たちにとって人間は「死すべきもの」the mortals でした。対して、神々と自然(動物を含む)は常に存続するが故に「不死のもの」the immortals とみなされます。動物は種として無限に続いて行くが、人間は唯一個体としての生を引き受けるからです。可死の存在である人間は、その触れるものすべてを感染させます。人間にまつわるすべては生成し、行動し、死滅して忘れ去られます。その忘却に抗して、人間存在を永遠にまで高めるものは彼らの偉大な行為に他なりません。偉大な行為と言葉は世紀を越えて人々の記憶に残り、それは歴史記述として不滅の世界に入り込みます。「無名のまま死ぬことは恐ろしい」とプラトンは書きました。ただ生きることは何の意味もありません。なぜなら「人間が最高の存在であるはずがない」(アリストテレス)し、「ゆえに、あまり真面目に考えてはならない」(プラトン)からです。
 ところが、ユダヤーキリスト教のヘブライ的思考は、この考えを転倒させました。彼らにとっては人間の生命こそ永遠なのです。自然の事物はとるに足らぬ滅びゆくもので考える価値もありません。過ぎ去っていくものは世界であり、人間は永遠に生きるのです。不死性は個人のみにあり、故に生命は世界のいかなるものにもまして神聖で、人間は地上で最高の存在とみなされました。私自身は無論、ギリシア的考えに同意しますが、、。
 ディズニーのアニメ「ヘラクレス」は神々の子孫であるヘラクレスが人間の女性を愛したために、神のまま不死でいるか、愛する女性と生きるために人間になって可死の存在になるか、の二者択一をせまられます。そして、ヘラクレスは愛のために不死の身分を投げうつことを決意し、まさにその行為によって神になるのです。ここには異教的な、それゆえ共感できる何かがあります。
 ハンナ・アーレントからは多くのことを学びました。この著作と、もうひとつ『暗い時代の人々』が私には最も忘れられない書物です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年6月11日 (土)

『列子』を読みながら

  「人から気に入られる以外に私たちは何を求めているだろう?」と17歳のセシルは言っています。『悲しみよこんにちは』はサガン18歳の出世作ですが、その率直で辛辣で自己中心的な筆致は私たちに快い衝撃を与えます。確かに、私たちの振る舞いの動機は人からの評価に大きく依存しています。衣服や、車や、住まいや、果ては生き方の哲学さえも、自分を少しでも大きく見せようといういじらしい努力によって決定されていることが多いのは、私自身を考えてもよくわかります。ボードリヤールやブルデューを持ち出すまでもなく、消費的生活は差異の創造にすぎないのではないでしょうか。
 そんなことを考えているとき、『列子』(岩波文庫)の次のような箇所を読んで衝撃を受けました。楊朱が老子に会って教えを請おうとするが、老子に「お前は教え甲斐がないから駄目だ」と断られます。楊朱がその訳を聞くと、お前はいつも傲然と胸を反らしているから、と老子は答えます。確かに、二人がはじめ連れ立って宿屋に入ろうとすると、楊朱があまりに立派そうに見えたので宿屋の召使いが総出で出迎え、亭主は座布団を手にして、内儀は手拭や櫛を持って世話をやき、泊まり客は席を譲り、火のそばに居る者は身をひいて楊朱にあたらせるという風でした。ところが老子の教えを聞いた楊朱は深く反省し態度を改め、その宿屋を退出するときには、泊まり客が少しも遠慮などしなくなって、彼と座席の奪い合いをするようにまでなった、とのことです。
 ここには生に救いを付与する何かがあります。自分がとるに足らぬ存在として、軽く扱われ、ついでのように言葉をかけられ、あるいはあからさまに馬鹿にされたりすることは悲しいことです。しかし、人生はそこまで身を低め、薄羽蜉蝣のような存在になってはじめて見えてくるものもあるのではないでしょうか。「目の中の塵は最良の拡大鏡」(アドルノ)というわけです。
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005年6月 5日 (日)

スピルバーグの『A.I』

スピルバーグの『A.I』
 私の家のすぐ近くの図書館に毎週 Paris Match が入ってきます。私はこれを奇貨として、毎週の映画評をコピーして辞書を片手に読んでいるのですが、先日オマール・ネイム監督の Final Cut が載っていました。近未来の話で、人間は生まれるとすぐに頭の中にチップを埋め込まれます。そのチップにはその人間の見たこと聞いたこと、つまり体験したことのすべてが一秒漏らさず全生涯にわたって記録されているのです。ロビン・ウイリアムズ演じる主人公は、葬式の後で、故人の膨大な記録映像から遺族が喜びそうなカットのみを編集する仕事をしているのですが、残念ながらその後の展開はわかりません。
 これを読みながら私は2001年制作のスピルバーグの脚本・監督作『A.I』を思い出しました。この映画は公開当時も今も高い評価を得ていません。しかし、思慮深く、心優しく、傷つきやすい人間を多く描いてきたスピルバーグ作品の中でもとりわけすばらしい映画であると思います。主人公は人工知能を持ったデイビッドという子供のロボットです。デイビッドは購入者である若い母親を愛するようにプログラムされています。ところが、その母親は病院から戻ってきた実の子に情が移って、ついにデイビッドを捨ててしまいます。その瞬間から、人間の子供になってその母親からまた愛されるようになることがデイビットの唯一の望みとなります。だがその望みも空しく、事故で深い海底に閉じ込められたまま何と2000年が経過します。人類は絶滅し、地表は氷河期の厚い氷に覆われています。ここで、高度に進化した異星人が人類の痕跡を求めて地球にやってきます。彼らはDNAから、その人間のすべての記憶を引き出すことができるのですが、デイビッドのために、彼が偶然携えていた母親の毛髪から、一日だけ母親を蘇らせてあげるのです。まさに二人だけの夢のような楽しい一日の最後に、デイビッドは自分が母親から愛されていることを知って深い感動に浸ります。
 映画はここで終わりますが、救いは記憶の実在にあるのです。人間のあらゆる体験のすべてが宇宙のどこかに、あるいは細胞のDNAに細大もらさず記録されていたとするなら、何でもない一日のささやかな行為が、道ばたの蟻に気づいて足をとめた夏の一瞬が蘇るとするなら、それはただ死に向かって進む生にどれだけの救いを与えるでしょうか。ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の有名な一節、世界は成立した事実の集合であるという一節は、とるに足らぬ事実の一つ一つも世界を作り出すということでは等価であり、すべての事実は意味をもつことを私たちに教えています。私はこのことを学生時代、沢田充茂の本で教えられました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2005年5月 | トップページ | 2005年7月 »