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2005年5月31日 (火)

魯迅『朝花夕捨』

 張岱の『陶庵夢憶』は私の愛読書の一つですが、魯迅の『朝花夕捨』に似て、過ぎ去った月日の回想の形をとっています。張岱は明末の動乱の中で大富裕の身から一転その日の米にも困る境遇に落ち、魯迅は裕福な生家の没落で教師として糊口をしのいでいます。似たような境遇ながら、何と彼らは違っていることでしょう。張岱は人生を味わい尽くして、その思い出においても再び美酒の残りを嘗めるかのように陶然としています。魯迅は戦いの中で心休まる暇もなく、生とこの世の謎をきりきりと追い求めていました。
 『朝花夕捨』の一編「無常」は祭礼の日に登場する全身白装束の鬼について語っています。無常と呼ばれるその鬼は死に逝く人の魂を受け取りにくるのですが、人々の愛着と共感は彼にこそ捧げられます。なぜか?手に算盤を持つその鬼は人の生前の行為を公平に評価して閻魔のもとに送り届けるからです。「生きることの楽しさを思えば、人生はまことに離れ難い。だが生きることの苦しさを思えば、無常必ずしも悪いお客さんとは限らない」貴賎、貧富に関係なく、不当な屈辱を受けるものはその恨みを晴らし、罪あるものは罰を受けるのです。無常はその責務の重さを自覚し、また人情の機微にも通じるので、(驚くことに)魯迅は、彼こそ真の友人たりえるのではないかと書いています。
 「阿長と山海経」は魯迅の絵入り本収集の執着の端緒を語る名篇です。阿長は魯迅の幼いときの保母代わりの下婢で、魯迅の可愛がっていた鼠を踏みつぶしたり、太った体で寝ている魯迅を押しつぶしたり、母に告げ口したりと、彼にはあまり好きになれなかった女性でした。その頃、叔父の口から、この世には「山海経」という本があり、そこには人面の獣、九頭の蛇、三本足の鳥などが描かれていると聞いて、魯迅は欲しくてたまらなくなります。ところが田舎の土地で大きな本屋もなく、いつもいつもその本のことばかり考えていると、阿長までも「山海経」がどんな書物か尋ねてきます。ある時、阿長が4、5日里帰りをして帰ってくると、「坊ちゃんに買ってきましたよ」と書物の包みを差し出します。まさにそれこそ四巻の「山海経」で、人面の獣も九頭の蛇もみんな載っています。「この四巻の書物こそ、私が一番最初に手に入れ、一番心から愛した秘蔵の書物であった、、、母なる大地よ、願わくは汝の懐にとこしえに彼女の霊魂を安らかならしめ給え」と魯迅は書いています。
 魯迅の本の中では『中国小説史略』が最も好きで、かつ教えられるところ多いのですが、『朝花夕捨』も私には捨て難い。この本を神保町の4冊百円の棚から『野草』『故事新編』とともに拾い出したときは胸が少し高鳴りました、、。

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