2018年11月 8日 (木)

深井智朗『パウル・ティリヒ、「多く赦された者」の神学』


パウル・ティリヒ(1886〜1965)は、カール・バルト(1886〜1968)と並んで、20世紀を代表するプロテスタント神学者ですが、同時に、ドイツからアメリカに渡って、そこでもっとも成功した神学者でもあります。雑誌『タイム』の表紙となり、ファッション雑誌『ヴォーグ』に掲載された彼のエッセイには、サックス・フィフス・アヴェニューで誂えた高級スーツを着て、遠い眼差しで世界を見つめる高名な大学教授の写真が添えられています。

また、ティリヒには、「友情の天才」という形容もついてまわります。彼と出会った多くの人が彼と過ごした時間を生涯忘れずにいて、彼と再会したいと願いました。相手から一方的な関係の破棄を通告された場合でさえも、「あとになってわかること」を信じて、彼の方からはその関係を断絶したりはしませんでした。ドイツ時代には、ホルクハイマー、アドルノ、マルクーゼ、ハンナ・アレントなどのユダヤ人学者を親身で助け、また無名のユダヤ人学生が学位を取れるよう尽力しました。これらを彼自身が苦悩のさなかにいる時に、心からの気持ちで彼らのために奔走したのです。

アメリカでは、亡命ドイツ人やドイツ移民の苦境を助ける組織の長として活躍しました。彼らは、職業を得るどころか、日々の生活さえままならず、病気になっても治療を受けることができなかったのです。ティリヒの援助は愛に満ちていました。彼に話を聞いてもらった多くの人々が、彼が静かに聴きながら涙を流すのを知っていました。ドイツでの迫害を逃れてアメリカに来たハンナ・アレントは、ティリヒの世話で、まず英語を習得するためマサチューセッツ州のアメリカ人家庭に居場所を見つけました。エルンスト・カッシラーもリヒャルト・クローナーもアメリカ上陸後ティリヒの助けを借りています。ティリヒのアパートは亡命者たちの救いと安らぎの場所となりました。イギリスから船で午後5時にニューヨークに着いたアドルノは、その日の午後7時にはもうティリヒのアパートにいました。「援助が愛を欠いたまま与えられる時に、その助けからは新しい苦しみが生じるだけだ」とテイリヒは述べています。

ところで、パウル・ティリヒには、もうひとつの顔があり、それは日常的に愛人とS・M趣味に耽る男、ポルノ小説と猥褻な写真の大変な収集家、官能的なダンスを伴った仮面舞踏会の主催者、夜毎に女性を漁るセックス中毒者という顔だったのです。
また、彼の金銭感覚も異常でした。貯金ということができず、ハーヴァードやシカゴ大学で高給を受け、印税の収入や週末の講演会で多額の謝礼をもらっているにもかかわらず、常に財政的に逼迫していました。ほとんどのお金を高級なワインの収集や性的趣味の店の支払いに使っていたからです。彼の秘書兼愛人であったヒルデ・フレンケルは、癌で亡くなる直前に、親友のハンナ・アレントに、彼女の遺産の中から1000ドルをテイリヒに与えてほしい、それも毎月50ドルずつ分けて与えてくれと頼んでいます。

一人の人間におけるこの二面性、昼は謹厳な大学教授で神学者、夜は快楽を徹底追及する堕落した男、このジキル博士とハイド氏にも比すべきこの両面性をどう説明すればよいのでしょうか。友人のハンナ・アレントは、ティリヒが心筋梗塞で亡くなった直後、かつての恩師カール・ヤスパースへの手紙に、次のように書いています。「彼は基本的には判断能力のない愚者でしたが、まさにこのことが奇妙なふうに、ある純粋無垢な「キリスト教的精神」とつながっていました」と。
ここにパウル・ティリヒの秘密があるのです。『パウル・ティリヒ、「多く赦された者」の神学』(2016岩波書店)で、著者の深井智朗は、「彼が救いたかったのは実は他の迷える子羊たちではなく、自分自身だったのではないだろうか」と書いています。「彼自身が誰よりもよく、逸脱した自分自身の姿を知っていた。…救いからはもっとも遠いところにいて、キリスト教が語る悪徳表の全てを体現しているような生活をしている自分がどうしたら救われるかということを必死に考えていたのである。…彼は自分が救われるために必死になった。だからこそ彼の言葉と思想にはリアリティがあり、苦しみや、痛みや、不条理や克服できない課題を抱え生きる人間の琴線に触れたのではないか。」

ティリヒは、「多くゆるされた者」という説教を何度もしていますが、ルカ福音書に書かれているその話は次のようなものです。
あるパリサイ人がイエスを自分の家の食事に招待した。罪ある女がそれを聞いて、イエスに会うためにその家に入ってきた。女は、香油を入れてある壺を持ってきてイエスの足もとに寄り、まず涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、そして、その足に接吻して、香油を塗った。イエスを招いたパリサイ人がそれを見て、心の中で言った。「もしこの人が預言者であるなら、自分にさわっている女がだれだか、どういう女かわかるはずだ。それは罪の女なのだから」。そこでイエスは彼にむかっていわれた、「シモン、あなたに言うことがある。」彼は「先生、おっしゃってください」と言った。イエスが言われた、「ある金貸しに金を借りた人がふたりいたが、ひとりは五百デナリ、もうひとりは五十デナリを借りていた。ところが返すことができなかったので、彼はふたり共許してやった。このふたりのうちで、どちらが彼を多く愛するだろうか」。シモンが答えて言った、「多くゆるしてもらったほうだと思います」。イエスが言われた、「あなたの判断は正しい」。

それからイエスは女の方に振り向いて、シモンに言われた、「この女を見ないか。私があなたの家に入ってきた時に、あなたは足を洗う水をくれなかった。ところが、この女は涙で私の足をぬらし、髪の毛でふいてくれた。あなたは私に接吻をしてくれなかったが、彼女は私の足に接吻してくれた。あなたは私の頭に香油を塗ってくれなかったが、彼女は私の足に香油を塗ってくれた。それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。

この話はティリヒ自身の人生を語ったものである、と深井は書いています。
1886年、ベルリン近郊の村に生まれたティリヒは、厳格なルター派の雰囲気の中で育ちました。牧師の父親は教区長で視学官、つまり地域の生活、宗教、教育のほとんどを指導する立場にいました。幼きティリヒにとって、父親は神同然で、恐ろしい存在であると同時に尊敬の対象でもありました。2009年のカンヌ映画祭でパルムドールを取ったミヒャエル・ハネケ監督の『白いリボン』には、北ドイツのルター派のある村の重苦しい雰囲気が描かれていますが、白いリボンとは、父親に反抗した子供が腕に巻かねばならない印でした。このリボンは父親に許された時はじめて解かれるのです。村では不可解な殺人事件や事故が続きますが、それは圧政的な秩序に対する村人や子どもたちの抵抗の表れでした。

その映画以上にティリヒの父親からの呪縛は強かったようです。むろん、彼は優秀な生徒でしたが、キャリアの先々で、父親の庇護のもとにある自分を感じていました。次第に彼は父の存在を重荷に感じ、そこから抜け出そうとします。ベルリンの大学にいた時から、彼の放蕩は激しくなり、「ティリヒする」とは性的悪行の学生間の隠語ともなったのですが、それは父の耳にもむろん入っていました。だが、ティリヒの素行は、父と父の体現するルター派の権威に対する当てつけだったのです。彼は父の弟子の娘であるマリアという女性を愛するようになりますが、それが父の望むことであるがゆえにマリアとの結婚を諦め、グレディという性的に奔放な娘と結婚し、当然ながら浮気されて離婚に至ります。

しかし、ティリヒを本当に父から離反させたのは第一次大戦でした。国家と王政という俗権と神の王国という神権の二重並立説をとるルター派は、この戦争を全力で応援し、敗戦の後にワイマール共和制が成立してからは急速にその力を失って行きました。ハルナック、トレルチ、バウムガルデンなどの時代が終わり 、バルト、ゴーガルテン、ティリヒの時代が来たのです。彼らは、前世代と違って、戦争を体験し、死というものに間近で遭遇しました。「死は教義学の教科書にはなく、塹壕の中にあり、私は神の恩寵ではなく、その死体の陰に隠れ命を救われた」とゴーガルテンは書いています。

ティリヒは1924年にマールブルク大学に赴任しますが、わずか1年半のこの田舎町の大学で実りある交友関係を築きあげました。ハイデガーとハンナ・アレントを知り、宗教学のルドルフ・オットーの後を襲って神学の教授になります。この時、聖書学で一時代を築いたルドルフ・ブルトマンが、同性愛者のルドルフ・オットーに続いてセックス中毒のティリヒが正教授になることに対して学部長に強硬な反対の手紙を送りました。ティリヒは、結局、正教授になりましたが、大学町のようなマールブルグに退屈を感じるようになり、高額の報酬にひかれてドレスデン工科大学に移ります。

大都市のドレスデンは歴史的な美しい町ですが、ティリヒはここでも退屈を感じました。ちょうどその頃、フランクフルト大学の哲学教授に予定されていたマックス・シェーラーが心臓発作で54歳で急逝し、その後釜にティリヒが座ります。すでにヒトラーの勢力は強くなっていましたが、ティリヒは、当局からの圧力も無視して、ユダヤ人のホルクハイマーを開設したばかりの社会研究所の所長に推薦します。さらに、アドルノの教授資格論文を審査通過させ、彼を助手に採用します。辛辣な悪口を言うことの得意なアドルノが、ドイツ、アメリカ時代を通じてティリヒについては賞賛の言葉しか語らないのも驚くべきことでしょう。

フランクフルトの空気は彼に自由をもたらしたようです。教会の支配から自由になり、好きな学問に打ち込み、多くの称賛者に囲まれ(フランツ・ローゼンツヴァイクやエーリヒ・フロムやカール・マンハイムなど)、趣味のポルノ関係の収集もはかどり、夜毎の「性的実験」も実り多いものだったようです。
しかし、ティリヒはこの時期に社会民主党に近づいたことでナチからマークされます。また、すでに学内ではユダヤ人学生に対する暴力やヘイト・スピーチが起きていたのですが、彼は学部長として断固抗議してユダヤ人学生を保護しようとしました。ここには、ナチはすぐに衰退するだろうというティリヒの楽観主義があります。ところが、1933年5月10日の夜の出来事が彼に亡命を決意させるのです。その夜、テイリヒは、妻ハンナと一緒に、フランクフルトのレーマー広場に面した窓から、ナチによる二万五千冊以上の大規模な焚書を目撃しました。その夜、ドイツ全土で非ドイツ的な書物が大量に燃やされました。

2013年のアメリカ映画『やさしい本泥棒』には、この夜の出来事が印象的に描かれています。中世的な儀式の後で、ヒトラー少年団の制服を着た主人公の少女が、次々に火中に本を投げ込む仲間に促されて、仕方なく手渡された本を投げ込みます。帰り道、突き動かされるように焚書の場所に戻った少女は、燃え残った一冊の本を拾い、服の下に隠して持ち帰ります…。
ティリヒは、その夜の出来事を記した文章の最後に、時間が200年戻ったようだった、と記しています。同じ頃、アドルノは、自分も危険な状況であるにもかかわらず、テイリヒの家を訪れ、ただちにアメリカに亡命するよう説得しました。

テイリヒは、非ユダヤ人で初のアメリカへの亡命知識人となりました。ニューヨークのユニオン神学校がテイリヒの受け入れ先となってくれたのですが、アパートは提供してくれたものの年1200ドルという薄給でした。
アメリカは移民の国であり、誰もが「過去と惜別するために」やって来ます。故国での栄光もこの国ではほとんど役に立たず、皆、ゼロから新たにキャリアを積み上げねばなりません。深井智朗は、それはテイリヒにとって、「自分自身からの脱出」であったと書いています。アメリカでは、哲学と神学の博士号も何の威光にもなりません。しかし同時に、テイリヒの夜の背徳生活も知っている人はほとんどいませんでした。と言うより、アメリカの人たちは、その人間が誰で過去に何をしてきたかには興味無く、必要なことは、特別な人間であることではなく、具体的に何をやれるかだったのです。

アメリカでテイリヒが、生き残るために必死になったことは当然です。ドイツの学者が、英語を話せないので、ホテルの客室係をしていたなどという話もあります。ドイツ時代から英語が堪能で、早々とニューヨークで精神分析医を開業したエーリッヒ・フロムを例外として、亡命知識人は、皆、就職のための言葉に苦しみました。アメリカの若手の研究者たちでさえ、就職の場がなくて困っていた時代だったのです。すでに47歳のテイリヒは、しかし、持ち前の努力と才能で、半年で何とか神学校の講義ができるようになりました。

しかし、アメリカでの成功は並大抵のことではありません。テイリヒは、アメリカ人の特質を研究し、亡命知識人の文章や講演で評判の良かったものを詳細に分析研究しました。その結果、アメリカでは、人の心を癒し、勇気づける「説教者」になることが神学者の要件であることを知ったのです。これには、ドイツとアメリカの教会をめぐる環境の違いがあります。ドイツでは教区ごとに教会が一つあって、人々は小学校に通うように教会に通います。牧師は、参加人数の数に限らず一定の収入を保証されます。ところが、自由競争の国アメリカでは、メインストリートに教会が乱立し、各教会とも信者を獲得するために、魅力的な説教者には高額の謝礼を支払います。

テイリヒは、聴衆を惹きつける説教とは、高遠な思想ではなく、日常生活に密着した、あるいは日常生活から生み出された説教に他ならないと知りました。彼には、ドイツ観念論の最後の世代の一人として、圧倒的で深遠な学識がありましたが、それを体系として話すのではなく、個人の心に直接訴えるように話すことが必要なのです。ここで、ドイツで研鑽した哲学的心理学の知識が役立ちました。1952年に出てベスト・セラーになった『存在の勇気』は、そのもっとも顕著な成功のしるしでした。この本は、書店のみならず、駅の売店やドラッグストアでも売られたのです。

この本の中では二つの「勇気」が語られています。まず、自分の止むを得ず属している宗教、民族、伝統、などなどから脱出する「勇気」、つぎに、何らかの新しい世界に踏み込み、そこで自分をその一部とする「勇気」です。これは、まさにテイリヒの人生そのものではありませんか。彼は、新世界におけるメディアの役割にいち早く気づき、雑誌のみならずラジオ、テレビの力も十分に活用しました。あなたにとって有名になることは、という問いにティリヒは、地下鉄で見知らぬ人に話しかけられることだ、と答えています。これはドイツ時代には考えられないことです。彼はハーヴァード大学の全学部教授となり(年2万5千ドル)、最晩年にはシカゴ大学神学部で3万ドルを超える収入を得ていました。

1962年にドイツに一時帰国しましたが、ティリヒには触れて欲しくない過去もありました。彼は1933年にドイツを発つ時、時の文部大臣との間で、一年ののちに帰国するという密約があったのです。ドイツもこの神学の大家を利用できると思ったのでしょうし、ティリヒもナチの勢いは遠からず衰えるだろうと思って保険をかけておいたのです。ティリヒは、このことを、アメリカでは決して公にしませんでした。「ナチと戦って逃れて来た非ユダヤ知識人」というレッテルを損ないたくなかったのです。「それらも含めて、これがティリヒなのだろう」と深井は書いています。

1965年、心筋梗塞で死亡、79歳でした。彼の願望は、父に反逆し、父が代表するドイツ・ルター派の信条に反し、背徳の人生を続け、そして、自分のような人間でも救われるのかという問いに答えることでした。それこそ彼の究極の問いだったのです。

ここで、ドイツ・ルター派の義認論について書きましょう。義認とは、人間が罪許され救われることのキリスト教的表現なのですが、その救いは、人間の何らかの努力や信心によるものではなく、ひたすら神自身の努力による、と解釈するのです。正確には、神が人間を救うという約束を誠実に守ることなのです。深井智朗は、ここでマックス・ウェーバーによる宗教の救済についてのサル型とネコ型の違いについて言及しています。危険が迫ると、サルは自分の腹に子ザルを飛びつかせます。親の腹に懸命にしがみついた子ザルを親ザルは安全地帯に運びます。一方、ネコは子ネコに危険が迫ると、首根っこをくわえて逃げ去ります。サル型では、しっかりつかまるという子ザルの努力が必要なのに対して、ネコ型では、母ネコの子ネコへの愛に信頼し、その母ネコの救済の思いの誠実さに全てを委ねます。ルター派の義認論は、まさにこのネコ型にほかなりません。

ティリヒは、このルター派の義認論を極端にまで拡大解釈します。「人間の側の神喪失や裏切りはあっても、神の人間喪失はない」とまで彼は言っています。そして、人間が、人間の行いの正しさによって救われるのでなく、ただ神の側の神的な行為として人間が救われるのであるとしたら、否定されるべき人間の悪行は救いの条件ではなく、むしろ否定的な悪行が肯定されることが神の真実ということになります。つまり、人間の精神的、道徳的努力ではなく、神だけが、人間の実存的な破壊、人生の崩壊、神からの逃避や否定、伝統的な道徳観からの逸脱「にもかかわらず」人間を救うことができるという逆説が彼を救うのです。すなわち、「それ故に」受け入れられるのでなく、「それにもかかわらず」受け入れられるのです。

ここで再び、先に紹介した「罪ある女の赦し」の話に立ち戻りましょう。ティリヒは、それについてこう書いています。「赦しは無条件です。そうでなければ、それはまったく赦しなどではあり得ません。赦しは「それにもかかわらず」という性格を持つものです。ところが、自分は義(ただ)しいという人は、赦しに「それ故に」という性格を付け加えてしまうのです。…ほんとうは赦されたものこそ、神を愛するということは何であるのか、その意味を知り、わきまえるのです。そして神を愛するものは、人生を受け入れることができるし、これを愛することができるようになるのです。」

私自身としては、プロテスタンティズムもティリヒの思想も全面的に共感できるわけでもありません。しかし、救済よりも癒しを、宗教よりもスピリチュアルを求める軽い時代に、ティリヒの狂おしい探求には心惹かれるものがあるのです。



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