2022年11月30日 (水)

L.ビンスワンガー/M.フーコー『夢と実存』(3)

 

 コロナ第八波がやって来ましたが、オミクロン対応のワクチンは見送ることにしました。子供の頃、ひきつけを起こしていたので、そろそろアレルギー反応が出るかも知れず、元々、薬の副反応が強い方なので、もう4回も打ったし、万一を考えて遠慮したのです。

 ところで、『夢と実存』の冒頭に置かれたフーコーの序論ですが、前回の記事で、62点とか書いてしまいましたが、まさに愚者の短慮というべきで、再読したところ、フーコーらしい緊密で濃密な論考であると気付きました。それで、(図書館から借りていたので)全文をコピーして、赤ペンで傍線を引きながらじっくり読み込みました。全体は5章に分かれていて、1、2章は現象学的観点からのフロイト『夢判断』の批判、3章は古今の神話、文学、哲学などに表れた夢についての論考の紹介、そして4章は有名な症例を参照しながら夢についてのフーコー独自の考えが展開されます。最後の5章はサルトルの『イマジネール』に触発されて、想像力と夢の関連が説かれますが、ここはそれほど重要とは思えないので割愛しましょう。なお、サルトルの『イマジネール、想像力の現象学的心理学』(講談社学術文庫)は読みやすくて面白い。以前、人文書院から『想像力の問題』として出ていた時には意味不明で最初の方で挫折したのですが。

 「成年期に達して私は、比類のない摘出力をそなえて少しずつ露わになってゆく一本の梯子が、生と死を分かつ境壁の上に高くそびえ立ち、伸びてゆくのを見てきた。その梯子とは夢のことだ。」(ルネ•シャール『断固たる配分』)

 フーコーの「序論」は、ルネ•シャールのこのエピグラフから始まります。フーコーは、自分に質問にくる学生に、いつもルネ•シャールの詩を読んでから来るように言っていました。ルネ•シャールは、俗物的な強靭さと鋭利な詩的錬金術を兼ね備えた、まさに20世紀のランボーともいうべき詩人です。

 フーコーは、最初の二章で、まず「現存在分析という秘儀」について説明します。ハイデガーの実存の分析は、ひたすら方法論に固執したフッサールの現象学から具体的人間についての人間学への道筋を示すべきものでした。しかし、存在論からさらに存在そのものに魅了されたハイデガーは、人間存在の分析がどのようにして実存の分析論に接合するかを明らかに出来なかった、というより、そのようなことにはほとんど興味がなかったのです。(だが、ハイデガー『存在と時間』の奥深さは、汲み取りきれないほど豊からしく、今年出版された高井ゆと里の『ハイデガー 世界内存在を生きる』(講談社選書メティエ)という本によると、著者の高井が印税から自著を100冊買い上げ希望者に頒布したところ、看護に関係した人たちからの手紙が多かったということです。死と生の境壁にある看護の現場では何より人間存在の深淵への興味が掻き立てられるのでしょう)。

 「われわれには、今日の人間学のうちでビンスワンガーの歩みこそ王道をゆくものに思われた。」とフーコーは書いています。「ビンスワンガーは、フッサールやハイデガーと逆向きに、具体的な個人に即して、実存の諸形態と諸条件が分節してくる地点を明らかにし、存在論と人間論の分割線が不断に踏み越えられるのを見届けようとする。」「1930年に現れたビンスワンガーの『夢と実存』は、厳密な意味でDaseinsanalyse(現存在分析)に属する最初のものだが、夢と実存はここでは並列的に扱われておらず、夢の中に読み解かれうる実存、あるいは、夢という在り方をとった実存として理解されている。」

 しかし、夢などという明証性のない、ぼやけた記憶の中に、実存の人間学が特権的に開示されうるものなのでしょうか。実はこの逆説こそ『夢と実存』のもっとも興味を惹く点である、とフーコーは書いています。ビンスワンガーは、夢の分析は象徴(シンボル)の解釈学のレベルで終わるのでなく、同じような外面的解釈から出発しながら、哲学のうちに逃げ込むことなしに実存の諸構造の了解に到達することができると書いているのです。

 以下は、現存在分析による夢の解釈が、フロイトの夢判断といかに相違するかがかなり執拗に述べられていきます。なお、ビンスワンガーと並べ称される現存在分析の創始者メダルト•ボスについては、その『夢ーその現存在分析』について以前の記事で書きましたが、今思い返してみると、その本の最後の章に紹介されている夢の症例の出典の雑誌などは非科学的な、まあオカルト色の強いいかがわしいものが多かったようです。

 さて、1899年のフッサールの『論理学研究』と1900年のフロイトの『夢判断』の公刊は「いくら強調してもしすぎることのない」(フーコー)出来事でした。この二書は、ともにそれまで人間が踏み込んだことのない領域で、先行の研究の悉くを御破算にし、著者ともに人類のための新たな地平を切り開いたという自負のもとになされた研究だったのです。夢を無意味とみなす立場から、夢こそ潜在的内容である無意識的なものが現実化される場であるという転換は、当時多くの重要性が、いや多大とも言える重要性が与えられてきたのです。今、思い出したのですが、エーリッヒ•フロムの『夢について』の中に面白い例がありました。妻が夫に「ねえ、あなたは、どんな夢にも何かの意味が込められていると言ったわよね。でも、昨夜、私は全く意味のないといえる夢をみたわ。あなたが苺を食べているというそれだけの夢なの。」と言うと、夫は「きみはぼくが苺を食べない、ということを忘れているね。」というのです。

 夢は願望の充足なのですが、それでも夢は夢であって、充足された願望ではないとしたら、夢が当の願望そのものと対立するすべての逆の願望をも実現すると考えられるでしょう。夫が苺を食べる夢は、夫がアレルギーで死んで欲しいという妻の願望であるのか、あるいは夫の偏食が治って元気になって欲しいという願望であるのか、それとは違う別の意味なのか判別はできません。つまり、精神分析における夢の解釈はあくまでも偶発的、可能的な関係性としてしか定義されないのです。

 精神分析における夢解釈が、このように恣意的な偶然に任せられてしまうのも、精神分析が夢に発話行為(パロール)という身分規定しか与えなかったためである、とフーコーは書いています。というのも発話行為が可能になるためには、その礎となる厳密な統辞論的規則を備えた言語活動(ランガージュ)を介してのことであって、それが欠落しているがゆえにフロイトの分析は抑圧された無意識の力学に相応するものしか取り出せなかったのです。

 フロイトの理論に見られるこうした欠陥は、おそらく象徴(シンボル)ということが十分に彫琢されていないことからきている、とフーコーは書いています。フロイトにとって象徴は内界と外界、無意識的な欲動と知覚的意識を結びつけながらも分離する薄い皮膜にすぎず、つまり、一方では潜在的な出来事や無言のまま残存している諸経験が、もう一方では夢の素材の意味作用である、近親相姦願望や幼児退行や回帰が、あるときは並行し、あるときは互いに帰納しながら偶発的に、あるいは強引に結びついているにすぎない、というのです。

 「それに対して現象学的分析は、象徴(シンボル)的事実に、精神分析とはまったく異なる切れ目を入れている」とフーコーは書いています。現象学的分析は、フッサール『論理学研究』の第一研究において、指標と意味作用を区別したように、夢の素材(指標)とその解釈(意味作用)を本質的に区別し、あるいは素材と意味作用の間に出来るだけ距離を取ろうとします。精神分析がこの二つを安易に結合したのとは反対に、現象学的分析は素材の豊かな内容に立ち帰り、素材をそれが表現された文脈のうちで捉え返し、いわば、そのものに成りきることによって、自ら素材そのものと一体化します。これは「了解」というディルタイ以来のドイツ観念論の奥義ともいえるもので、フーコーが「現存在分析という秘儀」と呼んだものなのです。これに関してビンスワンガーも、現存在分析には不断の労苦とある種の才能が必要であると明言しているのですが、ピストルを男性器の、皿を女性器の、橋を性的交合の象徴とする精神分析の安直な解釈からどれほど遠く隔たってしまったのでしょうか。

 古来、夢は多様な解釈を許して来たのですが、共通するのは、夢が特殊な経験の一様式であるという認識でした。ところがフロイトは先人達の曖昧で空想豊かな考察をまとめて屑箱に放り込んで、代わりに欲動というモーターを設置したのです。言いかえれば、フロイトは、十九世紀の科学偏重の時代の波に乗って、夢に心理学という金看板を与えたのですが、それは夢から、特殊な形式の経験としての特権を奪い取るものでした。それに対してビンスワンガーは、忘れ去られた伝統を復活させるのです。「ビンスワンガーは、夢のもつ表意的価値は、夢についてなされうる心理学的分析の尺度を越えるものだという考え方を再発見する。それどころか、夢みる経験はきわめて豊かな内容をもつものであり、その内容は、人がそれを押しこめようとする心理学的限定に還元できるものではない。」こうして、フーコーの「序論」の第3章は、夢の歴史を遡るのです。

 「暁方の夢」だけが有効な意味を持つ、という観念はイヤンブリコスからシェリング(「健康な人の見る夢は暁方の夢だ」)に至るまでの神秘主義の伝統に根ざしているのですが、決して非科学的というわけではありません。まだ消化作用が行われている時に見る夢は、神聖なものとはみなされないのです。もっとも清澄な夜のひとときは、夢うつつの暁方の時ということはよく知られていて、フランス、マニエリスムの詩人、テオフィル•ド•ヴィオーは、

 みだらな毒気にひたされた、われわれの肉体が、/いつわりの運動をわれわれの官能に惹き起こす時間は/もう過ぎ去った、やすらいだ私の頭脳は/眠りが分泌する阿片を吸い尽くした、/夜が終わろうとし、/曙の馬車がふたたびやってくるときには

と、歌っています。すなわち、夢が意味を持つのは、心理的動機や生理的条件が複雑に絡み合うときでなく、逆に客観的文脈が乏しい分だけ豊かなのです。さながら曙のように、暁方の夢は、白昼の覚醒時にはもはや見られないような明晰さのうちで、ある深みをもった新しい一日を告げ知らせるのです。フーコーは、フランツ•フォン•バーダーを引用して、彼の言葉、「まどろんでいる覚醒」とか「覚めた眠り」が、眠れる精神と目覚めた精神の間にあって、諸官感の媒介を減ることなしに直接事物へ還る道を示していると語っています。

 また、スピノザはその『神学•政治論』で、神秘主義的伝統と合理主義的方法が収斂する地点で、預言者の夢を分析しています。エレミヤの悲しみやエリヤの怒りは、夢の中でさらに増幅されました。夢は想像力豊かなヘブライ人にとって啓示の具体的形式でもあったのです。ビンスワンガーは、キリスト教神学においても啓示や強制にさらされた不安定な人間にとって、夢が人間的自由の表現だったと書いています。

 クリュシッポスは、さらに壮大に、夢に世界の普遍的連鎖と、世界の統一を形作り、その一つ一つの断片を同一の霊的な炎で生気づけようと協力する「共感」の効果を認めていたとフーコーは書いています。この世界霊の神話学は、はるか後代のルネサンス期のカンパネラにも受け継がれたのですが、その最終段階は、夢のグランドマスターであるノヴァーリスの次の表現に表されています。「世界が夢となり、夢が世界となる。信じていれば、その出来事が彼方から近づいて来るのを見ることができるだろう。」(『青い花』)またノヴァーリスは、夢の秘教的意味についても書いています。「夢は、すぐれてわれわれに、諸物のあいだに巧みに入りこみ、同時にそれらの一つひとつに身を変えるほどのわれわれの魂の繊細さを教えてくれる。」(全集第二巻牧神社)「われわれは世界中をめぐる旅の夢を見るーとすれば、この世界全体の方が、われわれのうちにあるのではなかろうか。永遠なるものがその世界、過去、記憶をともなって住みついているには、自己のうちにであって、他のいずこでもない。外界とは影の世界であり、この世界がその影を内面の光の王国に投げかけているのだ。」(全集第二巻)「自然とは無限の動物、無限の植物、無限の鉱物なのであり、また自然のこれら三領域は、自然の見る夢の心像なのだ」(全集第三巻)

 ふたたびフランツ•フォン•バーダーを引用すると、われわれは、まどろみはじめた状態では、内的感受性は外的感受性と対立しているが、すっかり眠りに落ちると、内的感受性が外的感受性に対して優位をしめる。そのとき、客観の世界よりもはるかに深遠ではるかに重大な意味を担った主観的世界の上に精神が開花するのです。バーダーは、さらに、伝統的に覚醒時の意識とその認識に認められてきた特権は不確実で偏見に満ちたものでしかない。夜のもっとも深い闇のうちでこそ、夢の閃きは昼の光以上に輝くのであり、またこの輝きがともなう直感こそ認識のもっとも高められた形式である、と言っています。さらに、カール•グスタフ•カールスは、夢は、人間がかつて住んでいた世界から人間のうちに響いてくるかすかな木霊(こだま)とみなされてきたー無意識についての手探りの探査であると書いています。

 長くなりそうなので少し駆け足で、夢についてのフーコーの結論を書きましょう。「人間がおのれの夢の もっとも深いところで出会うもの、それはおのれの死であるー死は、もっとも非本来的なあり方をしているときには生の突然の血まみれの切断にすぎないが、その本来的なあり方においてはおのれの実存の完成なのだ。」フロイトが、その夢研究の初期に、死にまつわるさまざまな夢が繰り返し現れるのに驚いたのですが、それらの夢が欲望の満足という生物学的原理にある限界を彼に感じさせたのです。フロイトは、そこから生の欲動と死の欲動を対立してあるものと捉えたのですが、フーコーは、そうではなく、死は、自由が、世界のうちにありながら、しかも世界に抗いつつ、運命という形でおのれを完成すると同時におのれを否定するという、その矛盾から生み出されたと書いています。「そこでは死は和解という意味を担い、そうなると、このような死を象徴する夢こそ、われわれのみることのできるもっとも重要な夢だということになろう。その夢は、もはや生の中断をでなく、実存の完成を告げている。それは、実存が、いままさに終わらんとしている世界のうちで、おのれの完全性を成就する瞬間を示しているのだ。それが苦痛に満ちたものであれ、平静なものであれ、このような死のうちで夢はその究極の使命を果たすのである。」

 最後に、夢の現存在分析の基(もとい)を成す現象学について書きましょう。まあ、これは分かりにくい哲学ですね。だから、解説書もたくさんあって、それらがどれも違ったことを書いています。共通しているのは、書き出しは易しいが、途中から急に難解になることで、これが大元のフッサールになると、さらに書き出しから難しい。『論理学研究』の第一分冊を読みましたが、そこでは心理学主義と論理学主義の違いが書かれているのですが、読み終わって、ぐったり疲れました。私の住居の近くに渡邊二郎が晩年を過ごした家があって、彼の没後、奥様が蔵書を市の図書館に寄贈してくれたのですが、その中に渡邊が訳した『イデーン』があるのですが、これが貸出禁止で、仕方なく、適当にコピーして家で読みました。その「諸論」を読んで『論理学研究』で、ぼんやりとしかわからなかったところがスッとわかりました。

 フッサールは、こう言っています。心理学は、実在に関する学、つまり事実学である。しかし、純粋もしくは超越論的現象学は、事実学ではなく、本質学として(「形相的」な学として)基礎づけられる。すなわち、もっぱら「本質認識」のみを確立しようとし、徹頭徹尾何らの「事実」をも確認しようとはしないような学として基礎づけられる。この面に応ずる還元、すなわち、心理学的現象から純粋「本質」へ、もしくは判断的思考において事実的(「経験的」)普遍性から「本質」普遍性へと導いてゆくような還元が、形相的還元である。

 形相(エイドス)とは本来、目に見えるもの、性状、あり方、種類などを表す言葉ですが、現象学では本質とほぼ同じように使われています。「事実」とは、確実にあること、を指すのですが、現象学は事実を確認もしない、と言っています。たとえば、林檎の木には低いの高いの、実のなったもの、枯れ木のものなどがあるでしょうが、そういうのに拘泥せず、「林檎の木というもの」にのみ関係しようとするのです。もう一つの例では、サイコロを見るとき同時に最大三つの面しか見ることはできません。実際はサイコロには6つの数字が書かれており、上下合わせると7になるよう作られています。肝心なことは、この本質がプラトンのイデアやカントの物自体と違って、個別的な事物そのものの中に、あるいはそれ自身から表れて来るということです。『存在と時間』で、ハイデガーは現象(フェノメノーン)という言葉を説明して、それはギリシャ語のパイノメノンから来ているのだが、その本来の意味は「それ自身においてその姿を示しているもの」であると書いています。

 メルロ=ポンティはフッサールの膨大な未定稿の中から、「哲学者は常に初心者である」という言葉を発見しました。(『知覚の現象学』)その意味は、哲学者は常に物事や事象をはじめてそれを見るように見よ、ということなのですが、それが現象学的還元の大雑把な意味なのです。先入観に捉われず、他人の説明などものともせず、自らの目でハッシと見るのです。ビンスワンガーはこれを「霊感の贈物」と呼んで、誰しもできるものではなく、ある種の才能が必要だと言っています。彼は『現象学的人間学』所収の「現象学について」の中で、フランツ•マルクの鹿の絵をとりあげて、その鹿は、自然の中を歩いている一匹一匹の鹿ではなく、鹿というものの本質を表しており、その鹿の本質というものは、われわれが自然の中で出会う鹿の中のみならず、ある若い娘の眼差しや歩き方の中に、何か鹿のようなものを発見するときにも出会うものだ、と書いています。

 本来、本質学、形相学というものは、狭い意味では数学に当てはまるのですが(三角形や円という形相を扱うので)、現象学は、それを自然と世界のあらゆる事象に拡大して適用しようとします。文学、芸術、倫理など、その適用範囲は広いのですが、何より医学•生理学、なかんづく精神医学にその効果を発揮しているようです。ゴルトシュタインの『生体の機能』、ユクスキュルの『生物から見た世界』、そしてビンスワンガーの『精神分裂病』などなどです。

 ビンスワンガーの『現象学的人間学』にはほかにも面白い論考が、それはまたいつか。

 

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ルートウィヒ•ビンスワンガー。スイス生まれ。家は代々医者を出している名家。翻訳の許可を得るためスイスのビンスワンガーに会いに行ったジャクリーヌ(フーコーの友人)は、彼が院長をしている病院の広大で気持ち良い雰囲気に強い印象を持ちました。メダルト•ボスと並び称される現存在分析の創始者。

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ミシェル•フーコー。若い時は男性愛に苦しみ、自殺も考えた。57歳でエイズで死んだのはあまりに早い。

 

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ルーミー。16歳。人間で言えば70過ぎだが、いまだに食べる、寝る、遊ぶに余念がありません。

 

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 外の物音に警戒するルーミー。

 

 

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