2023年9月30日 (土)

バンジャマン•コンスタン頌

 

 やっと涼しくなったようで一安心。けれど、コロナの感染者がじわじわと増えているようで心配です。検査と診察のため、朝早く病院に行きましたが、電車内はマスクをしていない若い人も多い。半年ぶりの血液検査ですが、腎機能と肝機能にわずかの数値越えがあるものの誤差の範囲ということです。懸案の血糖値も、妻に強要された一カ月のあんぱん禁止が功を奏したのか、やや下がり気味です。しかし、何よりも、この記録的な暑さの夏を乗り切ったことが大きい。

 ところで、ポール•ベニシューの『作家の聖別』の続きで、自由主義思想の作家、セナンクール、ノディエ、スタール夫人、コンスタン等を書こうと思ったのですが、記事が長くなりそうなので、少しずつ分割して行こうと思います。まず、コンスタン(1767~1830)ですが、『作家の聖別』の「ジェルメーヌ•ド•スタールとバンジャマン•コンスタン」という項に加えて、ツヴェタン•トドロフの『バンジャマン•コンスタン』(叢書ウニベルシタス•小野潮訳)を参照しながら書いて行きましょう。

 「まずひとつの驚きから出発できる。バンジャマン•コンスタンは、何ゆえにフランス文学の歴史において当然彼が占めるべき地位を占めていないのかという驚きである。彼こそ自由主義的民主主義の最初の偉大な思想家ではないか。宗教についての広大で深遠な省察の著者ではないか。明晰でイロニーにも欠けるところのない自伝作家ではないか。彼の『日記』は人間の魂の入り組んだ迷路にかつて投げ下ろされたもっとも驚くべき測鉛のひとつではないか。彼の唯一の小説『アドルフ』はまごうことなき傑作ではないか。同時代の傑出した人々、ゲーテ、プーシキン、スタンダールそしてユゴーはコンスタンを認め賞賛していたではないか、、、」(トドロフ『バンジャマン•コンスタン』)

 コンスタンが正当に評価されなかった理由は四つある、とトドロフは言っています。まず、フランスで長い間、歴史学の分野で強力な影響力を持ったマルクス主義が、コンスタンの自由主義を隠蔽の対象としたこと。二つ目は、コンスタンの政治思想が現代のわれわれの民主政体にあまりに近く、あたりまえに思えること。三つ目は、その豊かな才能ゆえに分類が不可能なこと。彼は作家、哲学者、歴史学者、社会学者であり、そのような人間を他に見つけるのは至難でしょう。さらに、四つ目、コンスタンは時代の政治状況に活動的に参加し、それゆえに自分の著作を出版する余裕がなかったこと。彼が死んだ時にもまだ『宗教論』は印刷されていず、彼の自伝、日記、政治的テキストが完全な形で日の目を見るのは20世紀も終わりになってからです。

 すでにして難解な予感のするコンスタンを、政治、宗教、愛という三つの側面から見て行きましょう。

《政治》 今、私の手元には『近代人の自由と古代人の自由•征服の精神と簒奪他一篇』という岩波文庫があるのですが、そのうち、冒頭の『近代人の自由と古代人の自由』が何と言っても素晴らしいので、まずこの労作から紹介しましょう。これは、1819年、コンスタンがアテネ•ロワイヤル•ド•パリで行なった講演で、彼の政治思想が端的、明晰に述べられています。

 われわれが近代人の自由と言う場合、その言葉の意味するところは、法律以外の何物にも服さない権利、誰かの恣意的な要求により逮捕されたり拘束されない権利を意味します。それはまた、自分の意見を表明する権利、職業を選択し、それを実践する権利、財産を自由に処理するだけでなく、それを浪費さえする権利をも意味します。また、人々が集まって互いの利益について話し合ったり、同じ信仰について話したり、あるいはただ暇つぶしのために集まる権利でもよいのです。当然、政府を批判したり、ずるい役人の罷免を要求したりもできるでしょう。これが、われわれが考え、イギリス、フランス、アメリカなどで現実のものとなっている自由なのです。

 それに対して、古代人における自由とは、他国と同盟を結ぶこと、法律を採決すること、公共的な広場で戦争か平和かを討議すること、すなわち、さまざまな政治的権能を集団的に直接的に行使することでした。古代人はこの集団的自由と矛盾しないものとして、全体の権威に対する個人の完全なる服従を認めていたのです。先に近代人の自由としてわれわれが認めたものはほぼ見当たりません。個人的な行動は、常に厳格な監視のもとに置かれていました。監督官が、個人の家庭内まで目を光らせ、夫が新妻を自由に訪うことさえできなかったのです。音楽家のテルパンドロスが竪琴に弦を一本加えることもスパルタ人の監督官の許可が必要でした。市民としては和睦か開戦かを決断するが、ひとりの人間としてはその一挙手一投足を制限され、監視されていたのです。つまり、古代人は、コンドルセ(『人間精神進歩史』)も言うとおり、個人的権利という概念を持っていなかったのです。

 ところで、このような古代と近代の自由概念の違いはどのようにして生じて来たのでしょうか。その主要な原因は古代国家の領域の狭さにあります。狭い国が境界線上で対峙しているので、いずれの国も好戦的な性質を持ちやすく、実際小競り合いは日常でした。敗戦国は全員奴隷にされる運命であり、勝った方は日常の業務のほとんどを奴隷に任せ、かくして市民には政治的討議に費やす時間が生まれます。国民の数が少ないので、一票の重みは大きく、そのような政治的権能は個人的自由を犠牲にしても十分得るに値すると思えたのです。

 それに対して近代のヨーロッパの主要国は、古代の都市国家に比べて十分な広さがあり、さらに知性の進歩により開明的になった近代人は戦争を重荷と思うようになります。力づくの開戦は、相手の思わぬ抵抗と反撃を招き、挫折することもあると学んだ人間は、商業という平和的な手段を選ぶことになります。このことは、ヨーロッパに多大な変化をもたらしました。まず、恒常的な戦争状態から脱して、奴隷制度が消滅し、国民はあらゆる職業に就いて社会の必要を支えねばなりません。それに加えて、商業には休息というものがありません。近代人は、古代人よりはるかに多忙な人生を生きているのです。さらに、商業の発展は自律の気風を与えます。近代人は商業において国家の介入を嫌い、国家的権威の介入なしに自らの欲望を満たすことを望みます。

 ここで、読者の反論を予想できます。つまり、古代における随一の商業都市アテナイの存在です。羅針盤のない時代にアテナイの海上貿易の成功による富は膨大で(羅針盤がないと冒険心のない民族は沿岸から離れられない)、アテナイは近代の商業国家の特徴の多くを有していました。アテナイは商業のために家族ぐるみで移住してくる他国人に大盤振る舞いで市民権を与えていたのです。しか、そうしたアテナイでも、奴隷制度は存続していたし、個人的自由は政治のために大幅に制限されていたのです。

 近代人の自由は近代人にとって、私的な自律を平穏無事に享受することですが、そのような近代人には、また、集団的権力に能動的に継続して参加するという古代人の自由を享受することは不可能なのです。一票の重みがあまりに軽い近代人には、古代人のように政治に直接参加するような喜びは極めて希薄です。さらに、近代人には、商業の発展により、各国間のコミュニケーションも活発になり、古代には考えられなかった快楽の要素が増えて来ました。政治に夢中になる必要もなかったのです(カフェで政治談義に熱心なフランス人は例外でしょうが)。

 「古代人の目的は、祖国を同じくするすべての市民のあいだで社会的権力を分有することにありました。彼らはそれを自由と呼んだのです。近代人の目的は私的な快楽のうちに安寧に暮らすことであり、彼らが自由と呼ぶのは制度がこうした快楽に与える保証であります。」

 さて、コンスタンが、近代人の自由と古代人の自由について詳説したのはなぜでしょうか。実は、コンスタンはこの2種類の自由を混同したことが、フランス革命の暴走を招いた根本原因であると確信したからです。独裁権力を掌握したジャコバン派は、主に二人の思想家から影響を受けました。一人は、むろんルソーで、彼は国民全員が自らの人格と財産を差し出して、「一般意志」の支配下に入ることを提案しました。むろん、この制度は国民自らが賛成し、国民自らが作り出さなければ意味がありません。この制度は、その出来上がった形よりも、その過程に意味があるのです。ルソーは2000年前の人びとが享受した政治的自由を自分の世代において実現しようとしたのです。

 しかし、このルソーの提案は、血気にはやる革命家たちにろくでもない口実を与えてしまったのです。恐怖政治に影響を与えたもう一人の思想家はアベ•ド•マブリ(1709~1785)です。彼は、古代の共和政や美徳を激賞し、古代の自由の基準に従って国民が主権者になるために市民が完全に支配下に置かれること、人民が自由になるために個人が奴隷になることを求める体制の代弁者でした。マブリの峻厳、不寛容、人間のあらゆる情念への嫌悪、一切を隷属させることへの渇望は、勝ち取ったばかりの権力をあらゆる対象へと拡大したくてうずうずしている連中を魅了しました。「自由の法は暴君の軛(くびき)よりはるかに峻厳にして苛酷なものである」とはルソーの言葉ですが、この言葉の裏には自由への強い情熱があります。しかし、マブリや革命家連中にはその情熱や知性は望むべくもありません。

 しかしながら、近代人の自由が古代人より優れていると一概に思うことは危険です。確かに、近代に至って初めて勝ちとられた個人的自由は比類なく価値あるものです。だが、人間の自己完成には、政治的自由もまた、何より不可欠なのです。

 「古代的自由がもたらす危険は、社会的権力の分有にばかりこだわる人びとが個人的な権利や快楽を軽視すぎることにあります。近代的自由にひそむ危険は、われわれの私的な自立の享受と個人的利益の追求にかまけるあまり、政治権力に与るという権利をたやすく手放してしまうことです。」

 政治権力の受託者は、われわれに、せっせとそうするように勧めてきます。彼らはわれわれにこう言うのです。「結局あなたがたの努力の目的、仕事の動機、あらゆる期待の向かう先は何ですか? 幸福なのではありませんか? さあ、ではこの幸福とやらを私たちに任せてください、私たちがちゃんとあなたがたにさしあげますよ。」

 これに対して、コンスタンは最後にこう反論します。これが彼の結論です。「そもそも皆さん、どんな種類のものであれ幸福こそが人類にとってただ一つの目標であるというのは一体ほんとうなのでしょうか?、、、もし自ら道を下り、道徳的な能力を抑え込み、望みを卑しめ、活躍も栄光も気高く崇高な感情も捨て去ろうというのであれば、けだものに堕して幸福にひたることは誰にでもできます。いや皆さん、私はわれわれの本質のより善き側面、われわれを追いかけ悩ませるあの崇高な不安、われわれの知識を押し広げ能力を高めようとするあの情熱のことを申し上げたいのです。われわれの運命は単に幸福へといざなうのではありません、自らを高める自己完成perfectionnement へと呼びかけるのです。そして政治的自由は、天が与えたもうた最も強力で最も効果的な自己完成の手段であります。」

《宗教》 すでに若年の頃から、宗教はコンスタンにとって思索の中心にありました。ただし、初期には、エルヴェシウス流の唯物論から、無信仰というより、その空疎さが糾弾の対象であったようです。しかし、彼は不可知論を通じて『エミール』の「サヴォアの叙任司祭の告白」によく似たもの、人間の根底にある、人間を超えた感情に気づくのです。1804~1805年のドイツ滞在中に、コンスタンはゲーテ、シラー、シュレーゲル兄弟、ウィーラントなどと頻繁に対話し、同時にほぼ毎日宗教の社会学的考察についての膨大な書物を読んでいきました。キリスト教のみならず、イスラム教、仏教、ゾロアスター教、そして多神教(ギリシア、ローマなどの)などを研究していたのです。彼は写字生を雇って重要箇所を次々筆写させ、写字生が来ない日には自分で抜書きを大量に作りました。

 彼が最後に達した境地は、ルソーよりかは宗教色が強いが、カトリックなどの教会宗教を嫌い(彼はシャトーブリアンの『キリスト教精髄』を軽蔑しきっていました)、理神論からは遠く、強いて言えば人間主義的宗教といったものでした。

 「この世の後には何もないことを確信し、この世に非常に満足しているので他の世界がないことを喜ぶような、あの大胆な哲学者では私はもはやない。私の著作は、ベーコンが言ったことの奇妙な証明となっている。すなわち多少の知識は無神論に導くが、より多くの知識は宗教へと導く。」(1811年、オッシュ宛の書簡)

 「私は不信仰であるためには、あまりに懐疑論者であり過ぎる。」(1829年、ロザリー•コンスタン宛)

 「私の驚きは、人間が宗教を必要とすることではない。私を驚かせるのは、人間があえて宗教を退けられるほど、自らを強いものと信じ、不幸を避けうると信じることなのである。」(『アドルフ』)

 宗教の効用は、道徳の奨励にあります。不死の教義が、来世への期待を抱かせ、自らを律するのです。コンスタンの宗教論には、無神論に冒された社会の堕落を示す凍りつくような頁が溢れている、とトドロフは書いています。「彼岸には無しかないと考える人間にとって生命以上の何があるだろうか。」(『宗教論』)「そういう人間は、生きている間に最大限の快楽を得ようとするだろう。もし神が死んでいるとするなら、すべては許されているのではないか。」

 われわれは宗教とのあらゆる関係を取り払った純粋な道徳を当てにすることはできないのでしょうか。それに対するコンスタンの答えは悲観的なものです。「自分自身の利害を越えて自らを高めることのできる人はまれであり、われわれのそれぞれが自分自身の利害を越える瞬間もまれである。、、、人類の大部分は宗教なしですませることはできないし、そうすべきでもないであろう。 」神なき世界で、いかにして宗教感情は生まれるのか。以下の文章がコンスタンの結論です。

 「空の眺めや夜の静けさ、海の広漠は、限界を持たないように見えることから、われわれにははかり知れぬ広がりの観念を抱かせる。有徳の行為や寛大な犠牲を前にし、危険に勇敢に立ち向かう人間を見、他人の苦しみが救済されるか緩和されるかするのを認めるとき、われわれはあるいは心安らぎ、あるいは熱狂(精神の高揚)enthousiasme へと導かれる。悪徳を侮蔑し、暴政を憎むとき、魂の奥底で、われわれの本性の根源的諸要素が掻き立てられる。こうしたすべてにより、宗教感情は育まれるのである。」(『政治の原理』)

 ツヴェタン•トドロフは、コンスタンの宗教論(不死性の感情は宗教からしか生まれないという)について、最後にこう付け加えています。コンスタンに対して、なぜわれわれには不死性が必要かと問うことができるだろう、と。もともと、コンスタンには、これはスタール夫人とも共通しているのですが、価値を二つの層に分けて考える前提がありました。すなわち、人間的な価値の層と、人間の上にあり、人間の希望の対象となる価値の層です。ここから彼の不死についての考えが出て来たのですが、トドロフは、死後の生ではなく、われわれの外側に存在しているがわれわれの一部をなす人びと、彼らの幸福がわれわれの幸福となる人びとに支えを求めることはできないだろうか、と問うのです。つまり、上昇への救いでなく、横のつながりへの救いです。「もしわれわれにはたった一度の人生しかなく、その人生がわれわれの死の瞬間に決定的に終わってしまうのだとしても、われわれはこの人生を至高の価値とするよう強いられはしないと結論できないだろうか。なぜなら内部と外部のあいだは連続しているからである。社会性sociabilité が不死に取って代わるのだ。」

《愛》 バンジャマン•コンスタンは1967年、スイスのローザンヌでフランスから移住して来たプロテスタントの家に生まれました。父は軍人でした。母親はコンスタンを産んだ15日後に産褥で亡くなっています。これは、やはり生後9日で母を亡くしたルソー(スイスのジュネーヴ生まれ)を思い出しますが、実際、ルソーはヴァランス夫人、コンスタンはシャリエール夫人という年上の女性に人生最初の手ほどきを受けています。ただし、ルソーは紅顔の美少年でしたが、コンスタンは赤毛で緑色の眼鏡をかけた顔色の悪い青年でした。ルソーは女性に愛されることを日常のことと受け入れたが、コンスタンは生涯、自分を愛してくれる女性には警戒心を持っていました。

 軍人の父親は、コンスタンをオランダ、ベルギー、英国、ドイツなどに住まわせ、その都度、家庭教師を変えました(最後の家庭教師は父の愛人でした)。16歳でスコットランドのエディンバラ大学に入学、ここで友人を作り学生生活を楽しみました。27歳のとき、パリで、一つ年上のスタール夫人と運命的な出会いをしました。彼女は、すでに数冊の本を出している当代きっての才女で、コンスタンはすっかり魅了されます。一年半後に愛人関係になり、娘アルベルティーヌも生まれますが、ジェルメーヌ•ド•スタールは、コンスタンの家柄と財産に不満があって、結婚を承諾しませんでした。

 世間の手前、コンスタンは、アルベルティーヌと暮らせなかったのですが、彼はこの娘を熱狂的に愛し、観劇や舞踏会に連れ回しました。アルベルティーヌが病気になるや否や心配で打ち震え、何も手につかなくなります。これほどの関係は当時には極めて珍しく、たとえばモンテーニュは子供たちが何人幼くして死んだかも覚えていず、ラ•ロシュフーコーはその息子に苦い失望を味わい、ルソーは五人の子をすべて遺棄しています。この不実なリストには終わりはない、とトドロフはつけたしています。

 「今日はアルベルティーヌの誕生日だ。何ということだ、何ということだ。」(日記、1813年)。「アルベルティーヌは魅力的で、これ以上ないほど賢く、愛らしい。人生を彼女とともに生きていきたい。」(日記、1814年)。「人生に数ある良きことの中でも、父親と娘の関係はおそらくもっとも大きな幸福を約束してくれることのひとつだ。」(親友バラント宛書簡1813年

)。「『アドルフ』に彼が書いているように、コンスタンは、ひとを愛するということは、そのひととともにいるのを楽しむことであることを、よく知っているように思われる。そして彼は青年時代から、このような状態を熱望していた。」とツヴェタン•トドロフは書いています。

 さて、スタール夫人(コンスタンより一歳年長)とコンスタンですが、二人は出会う前から似通った政治思想を持っていました。いわゆる自由主義的民主主義で、極端な共和主義にも、反動的な王党派でもなく、むろんカトリック復古派でもまったくなく、中道派で、コンスタンがどちらかというと個人主義的、スタール夫人がやや貴族的といった感じでしょうか。とにかく、ジェルメーヌ•ド•スタールは男性を含めてもその時代最高の知性を持っていました。父親のネッケル氏(二度フランスの財務総監になった)を敬愛していて、そのスピリチュアリスムに強く影響されました。

 二人について、ポール•ベニシューはこう書いています。「個人的な動機に関しては、両者はかなり異なった。コンスタンにあっては死への恐れ、人間が機械化していくという強迫観念、生命力への渇望といったものが、おそらく人間と神に対する彼の信仰の源にある。他方、スタール夫人にあっては、恋愛における不幸、男性たちの虚栄心と浅はかさによって支配された社会への反抗心が起源にある。二人とも、混乱期の最中にあって、堅固な思想と希望を保ち、自由と社会秩序を和解させるための近代的な処方箋を示した。そして、反革命派の哲学に抗し、人間への信仰を宗教と一体化した形で提示した。」(『作家の聖別』)

 二人が出会い、二人が共同して育んだ思想について考えましょう。それはenthousiasme (高揚•情熱)と人間の完成可能性perfectibilité です。enthousiasme は人間精神の根底を支えるもので、これを欠いた思想、人間性などは考慮に値しません。perfectibilité について。実は先に紹介した岩波文庫『近代人の自由と古代人の自由、、、』には「人間の改善可能性について」という1829年(死の前年)の論文が収められているのです。人間の改善可能性とは、人間がもっと良くならなければならない、という主張ではなく、差し迫った人類の危機のための警告なのです。人類が築き上げた文明も文化も、自然災害、蛮族による侵入、疫病の蔓延などによってすべて潰え去るかもしれません。われわれの努力の記憶も成功の痕跡も一つ残らず消し去ってしまう完全なる破滅が待ち受けているかも知れません。足元に奈落が口を開けているかも知れないのです。人間という種の段階的改善のみがそれを救うのですが、そのためには世代から世代へと後戻りしながらも着実に進んでいかねばなりません。奴隷制度が絶対の悪として人類に滲み渡っているように、不当な抑圧や独裁がそれ自体生き残ることのできない時代がきっと来るのです。

 コンスタンは、さまざまな恋愛を経験しましたが、その中で、もっとも熱烈だったのはジュリエット•レカミエ、つまりレカミエ夫人への恋です。1814年から1815年まで半年あまり続いたこの恋の顛末は日記に詳細に述べられています。もともとジュリエットはスタール夫人の友人で、コンスタンは10年前から知っていました。それが、1814年8月31日、パリのジュリエット宅で会ったとき、突然激しい情熱が湧き上がったのです。そのときコンスタン47歳、ジュリエット38歳でした。それ以降は、毎日、日を追うごとに恋情が募って苦しさで身悶えするほどです。一方では冷静に、この恋を相手に受け入れさせるための策略を練ることに余念がありません。なにしろ、相手は欧州最高の美女と言われ、ナポレオンをも袖にした女性です。しかし、コンスタンの日記には、攻略目前、後少し、もう一押しなどと威勢の良い言葉が並びます。実は、醜男であるにもかかわらず、彼は狙った女性は、それまで一人として失敗したことはないのです。

 彼の手口は次のようなものでした。まず、できるだけ毎日会い、毎日話すようにして、徐々に自分というものを相手の中に浸透させる。会話を重ねる毎に、彼の知性、優しさ、細やかさを相手に十分わからせるようにしていく。機を見て、自分の気持ちを仄めかし、恋慕の思いをくどくならぬよう打ち明ける。次第に恋の苦しみと相手の素晴らしさを休みなく吐露していく。女性は、いつのまにか、彼が訪問しない日は何か物足りなく思うようになる。意図的な不在ののち、はっきりと告白し、受け入れられないと、急に床を転げ回り、壁に頭を打ち、女性の前で致死量寸前の阿片を飲み、自殺を図ろうとする(実際飲んだこともあったが、大抵直前に止められる)。しかし、これだけ全力を尽くしても、ジュリエットは微動だにせず、コンスタンはついに完全に諦めます。直後の日記にはジュリエットへの恨み、憎しみ、悪口が延々と連なります。この失恋がショックで、コンスタンはキリスト教敬虔主義に近づきました。

 コンスタンにとって運命の人は、やはりスタール夫人でしょう。彼女は、コンスタンの知性を正当に評価できた唯一の女性でした。しかし、ジェルメーヌ•ド•スタールは大変嫉妬深く、コンスタンが他の女性に心移りするのを許しませんでした。ジェルメーヌから逃れるべく、コンスタンはシャルロッテというドイツ人女性と二度目の結婚をします。シャルロットテは、いわば母親のような女性で、コンスタンを丸ごと受けいれ、一緒に暮らすと心が休まる女性でした。

 しかし、コンスタンの心情ともっとも近く、深い尊敬と友情で結ばれた女性はジュリー•タルマ以外にいません。コンスタンは、1798年31歳のとき、知人の家で11歳年上のジュリー•タルマと出会い、直ちに文通を開始します。ジュリーは父親のわからない私生児としてパリに生まれますが、7歳のとき母に捨てられ、パリの街路で印度総督で政府顧問の高官に拾われます。その高官はジュリーに読み書きや上品なマナーを教え、9歳のときオペラ座のバレエ学校に入学させました。ジュリーは、そこで頭角を表し、幾つものバレエの主役も務め、ジャン•フィリップ•ラモーの舞台にも出演します。ジュリーは三人の男と関係を持ち三人の子を産みますが、その男性のうちの一人は、後に有名な悲劇俳優になるフランソワ•ジョセフ•タルマでした。その頃のバレエの踊り子は現在のアイドルのような存在で、たくさんの熱狂的なファンやパトロンがいました。ジュリーは、そのパトロンの一人から不動産投機を勧められ、高級住宅地ショセダンタンの建物などを購入し、後にその建物の一つをナポレオンに売却してかなりの利益を得たりしました。

 数奇な、あるいは華やかな生涯でしたが、ジュリーはまた優れた知性と温かい心情を持ち、迫害された人物には常に援助の手を差し伸べました。徹底的な共和主義者で、臨終の時、司祭を呼ぶのも拒否しました。コンスタンは、彼女と会うや否や親友となり、彼女の心の美しさ褒め称えました。男女の関係はなかったのですが、なぜかというと、ジュリーは常に、身を捧げた女と征服したと思う男の間には真の友情は成立しないと考えていたからです。ジュリーは49歳で亡くなりますが、コンスタンはその死の床に立ち会いました。ジュリー•タルマの臨終の言葉は次のようなものです。「私は人生はもう一度やり直しがあると思っています。だって、初演のときは、誰だってわけがわからないうちに終わってしまうでしょう?」

 

 

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ツヴェタン•トドロフ『バンジャマン•コンスタン』。トドロフはブルガリア出身でパリで構造主義文学批評で名を上げる。「他者の記号学」がテーマらしい。邦訳は読みにくいものが多いがこの本は易しく書かれています。

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岩波文庫『近代人の自由と古代人の自由•征服の精神と簒奪他一篇』「人類の改善可能性について」も収められています。「征服の精神と簒奪」はナポレオン批判の書。しかし、ナポレオンが復位するとその憲法審議会委員に加わり、その変節が友人たちからも批判された。しかし、政治において中道を守るというのは難しく、スタール夫人も同様に革新•反動の両陣営から非難されていた。

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コンスタン『日記』(全)20年近く前、誕生日に妻が買ってくれたもの。帯の写真は1994年に制作されたテレビ映画『心の底から』。コンスタンとスタール夫人との愛憎劇。なお小説『アドルフ』は2002年にイザベル•アジャーニ主演で映画化されています。『日記』の一部「アメリーとジェルメーヌ」は小説仕立てのようだが、他の大部分は秘密の日記として書かれ、その時代の著名人への非難も容赦ない。前半の1804〜1805のワイマール滞在期と後半1814〜1815のレカミエ夫人との恋愛騒動が面白い。ワイマールでは毎晩のように観劇に出かけ、シラーやゲーテの劇評も辛辣だ。ゲーテはコンスタンと話すために何度も宿所を訪れていた。レカミエ夫人宅には連日訪問し、拒否されてもまた訪問する。その濃密な恋愛の記録は笑わせもするが、偽らない苦悩の記録でもある。

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ジェルメーヌ•ド•スタール。(1766〜1817)稀に見る知性と広く寛大な心を持つ。ナポレオンに敵対し、幾度もフランスを追放された。51歳の長くない生涯に、三つの長編小説のほか膨大な著作、評論を残した。

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ジュリエット•レカミエ。(1777〜1849)彼女への求愛を断られたナポレオンは、夫のレカミエ氏の銀行を破産させ、彼女を国外に追放しました。晩年のジュリエットは白内障でほとんど眼が見えなくなりました。パリのアパルトマンで一人暮らしをする彼女を訪ねたのはリューマチで歩くのも困難なシャトーブリアンでした。

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ジュリー•タルマ(1756〜1805)。コンスタンとの友情は死ぬまで続いた。二人の書簡集は邦訳されていません。

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何やら懐疑的なルーミー。

 

 

 

 

 

 

 

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