2019年12月 6日 (金)

師走の読書ノート(1)

 

◎倒れて入院してからちょうど2年経ちました。切れた血管が危険なところだったら、そのまま逝ってしまったわけで、運が良かったと妻といつも話しています。鮎川信夫は甥の娘とスーパーマリオを遊んでいるときに脳卒中で倒れ、その日のうちに杏林大附属病院で亡くなったことはよく知られていますが、ゲームで興奮して瞬間的に血圧が上がったのでしょう。私は怖がりのくせにホラー映画が好きで、ときおり観たくてたまらなくなるのですが、ドキンとさせられる時があるので最近は観ないようにしています。ところで鮎川信夫の『最後のコラム』は、大岡昇平の『成城だより』や武田泰淳の『目まいのする散歩』と同様、文学者晩年のどうとも言えないエッセイですが、その中で、甥の家族とディズニーランドへ行った時のことが書かれていて、日本人がこんな楽しそうな笑顔をしていたことがあるだろうか、という感慨に襲われているのが面白い。思えば、大岡や武田や鮎川も戦争で散々苦労して、戦後の著作はおしなべてみな粘りつくような暗さがあります。前の世代の薄田泣菫や蒲原有明、後の世代の吉本隆明や江藤淳ら、戦争を経験していない世代との違いは明白でしょう。

  姉さん!

  飢え渇き卑しい顔をして

  生きねばならぬこの賭けはわたしの負けだ

と歌った詩人は、ディズニーランドで見た日本人の心底楽しそうな笑顔に驚愕したのです。ところで、私は、詩人というものは俗人の最たるものだと思うのですが、『最後のコラム』にもそれの例証らしきものがあります。鮎川の家の近くの古本屋に丸山薫に献呈された詩集が大量に売られていた、どうも丸山は献呈本を次から次に売り飛ばしているらしい。丸山薫と云えば、実家に『帆•ランプ•鴎』を含む丸山の詩集があって、子供の頃よく読んだものでした。「どうだろう、この沢鳴りの音は、、、」とか「あいるらんどのような田舎に行こう、、、」などは暗誦したものです。鮎川によると、石垣りんの「へんなオルゴール」という詩に丸山のことが書いてあるそうです。それによると、「歴程」夏のセミナーのため千葉県の旅館に宿泊していた石垣は、夜に石垣の詩集『表札など』を持参した年配の男性の訪問を受けてサインしてくれと頼まれました。「これも挟んでありました」と言われた紙を見ると、「丸山薫様石垣りん」と書かれています。

  おお、『帆•ランプ•鴎』!

  どうしてうらんだり かなしんだりいたしましょう。

  売って下さったのですか 無理もないと

  それゆえになお忘れ難くなった詩人よ。

◎前回の記事のために俳書をたくさん読んだので、もう俳句に飽きてしまったのですが、図書館で『井月句集』(岩波文庫)があったので借りてみました。井月(せいげつ)は乞食井月とも言われ、66歳で乾田の中で糞まみれで発見され、知人宅に運ばれて死んだのですが、実は昔、貸本屋時代からのつげ義春の漫画本を集めていたことがあって、その中に井月について描いた漫画があったのを思い出したのです。井上井月は上越に生まれ、各地を彷徨った後、信州は伊那谷で乞食暮らしを37年間ほどしていました。酒が好きで、伊那の俳句好きの金持ちの家を回っては酒食にありつき、お礼に俳句を達筆の書で書いて渡したりしたとのことです。なぜ伊那(今の信州赤穂あたりの飯田線の沿線らしい)に居ついたかというのは謎ですが、どうも住民の性格が良くて、酒好きの土地柄だったからでしょう。性格は穏健で問題を起こすこともなく、尊敬はされずとも嫌がらせとかは余りされなかったようです。自らの過去は黙していたとのことですが、その俳句は芭蕉の遺風を継いで軽妙で格調もある、同じ放浪生活とはいえ山頭火や放哉、あるいは晩年の惟然などのような破格な句は作らない、それが特徴と言えましょう。ただ、時代が悪く、幕末から明治の御一新を跨いだ時代だったので、あの壬申戸籍など、浮浪者がせっつかれた時代なのが井月には可哀想でした。幸い、庇護者の家の当時子供だった下島勲が井月のことをよく覚えていて、成長して医師になり田端で医院を開くと、偶然芥川龍之介が田端に住んでいてその主治医となります(自殺の際の検分もした)。その下島が芥川に井月のことを話して、俳句好きの芥川は井月に興味を持ち、その句集刊行に助力を惜しまず、その跋も書いています。芥川全集第8巻に収録されているその跋を見ると、井月の句には駄句が多いと書いていますが、これこそ「おまえが言うな」で、芥川自身の俳句でも良いものは無いか、ごくわずかです。そもそも芭蕉が言ったとおり、生涯に三、五句秀句をものせば十分なので、

  降る雪や明治は遠くなりにけり(草田男)

  湯豆腐やいのちの果ての薄明り(万太郎)

  水枕ガバリと寒い海がある  (三鬼)

などに感心して草田男や万太郎や三鬼の句集を読むとがっかりすることが多いでしょう。井月の句ですが、残念なことに後世に残るほどのものは一句もなかったと思います。ところで、性懲りもなく、また作句してしまいました。

   天皇になり替わりたし年の暮れ

   熱燗を虚しき夢と啜りたり

   人の子は哀しく生まる聖夜かな   

◎さて、芥川全集の同じ第8巻に『上海遊記』『江南遊記』が収録されていますが、芥川はこの中国旅行の直後から(旅行中も入院していたのですが)体調を崩し、一気に自殺まで急坂を転げ落ちていくのです。坂口安吾は、中国で性病をうつされたのが貴族的な芥川の苦悩を引き起こし、それが自殺の原因だろうと書いていますが、中国で女遊びをしたのは確実としても、それが自殺の原因の一つとはとても思えません。やはり遺伝(母親も精神病だった)から来る神経過敏によるものではないでしょうか。この二つの旅行記は近代日本の作家の旅行記の中では読むに値しないまでも傑作とはとても思えません。『上海遊記』の中に中国美人についての章があって、クラブで接待に来た美人たちの耳が日本女性と比べて美しいと書いてあります。芥川によれば、これが彼自身の発見で、日本女性はずっと日本髪で耳を隠していたので、髪油のせいで美しくない、それに対して中国女性は耳をすっかり外に出しているので美しくなったのだと、これは遊蕩児ゆえの観察でしょう。話が下世話になりますが芥川の巨根伝説は有名ですが、以前サイデンステッカーの『流れゆく日々』という自伝を読んでいたら谷崎潤一郎の一物は極少で、それが彼の文学に抜きがたい影響を与えていると書いてありました。芥川と谷崎が例の「小説の筋」論争で熱く戦ったことを考えると面白いです。まあ、これはサイデンステッカーの谷崎への嫌味かも知れません。と言うのも谷崎はニューヨーク生まれで洗練されて話の面白いドナルド•キーンが好きで、それがコロラドの山中から出てきたサイデンステッカーの嫉妬心を煽ったのでしょう。ところで、キーンもサイデンステッカーも海軍の語学学校で日本語を習得したことは興味深い。軍隊と相撲部屋は語学習得に最適の環境なのでしょうか。

◎先日、本八幡の山本書店で、岩波の日本思想体系『中世禅家の思想』を200円で買いました。栄西の『興禅護国論』は予想通り難しくて、しかも退屈。一休の『狂雲集』を読んでいたら、見たことのある詩句が出て来て吃驚、「夢中猶読小時書(夢中なほ読む小時の書)」は南宋の詩人劉後村(1187~1261)の詩句にあり、江戸時代後期の遊歴の漢詩人柏木如亭が編集した詞華集『聯珠詩格』に載せられているもの。一休宗純は室町時代の禅僧で、明らかに後村の詩を盗んでいますが、一休はどこでこの詩句を知ったのか。愛慾まみれの破戒僧なので何をしてもおかしくありませんが。

◎ブログ記事に書く本を探そうと近所の図書館をぶらぶらしました。哲学の棚から『フィヒテーシェリング往復書簡』(法政大学出版会•座小田豊、後藤嘉也訳)を取り出してパラパラ読んでみると、編者のワルター•シュルツの前書と概要が面白い。この書簡集は、最初の一通を除いて、1799年7月から1802年1月までのわずか2年半ほどの文通の記録です。1798年にイェナ大学で二人が出会った時、フィヒテ36歳、シェリング23歳でした。ほどなくフィヒテは「無神論論争」(弟子のフォルベルクの論文がきっかけとなった)に巻き込まれてイェナを去り、ベルリンに赴きます。こうしてイェナとベルリンを往復する二人の文通が始まるのですが、はじめのうちは二人の間は全き信頼関係で結ばれ、二人が共同で出す予定の哲学雑誌についての話題が中心になります。1781年のカント『純粋理性批判』の出版から1831年のヘーゲルの死までの50年間は、ドイツの哲学思想がはじめてヨーロッパの思想のトップランナーになった時代であり、ドイツ思想界は百花繚乱の喧しい議論に沸騰していたのです。中傷や誤解、反目と同調が交錯していたこの時代に、フィヒテとシェリングはこの雑誌によって新しい哲学精神をドイツのみならずヨーロッパ中に喧伝しようと思っていたのです。むろん、二人は出会った当初から哲学の根本精神においては違ったものを持っていましたが、時代を正そうという情熱が二人の分離を促す一切のものに勝っていたのです。しかし、1800年の秋頃から、二人の書簡の調子は変わってきます。書簡は長くなり、一方が他方を自分の思想に組み入れようと腐心するようになります。共にお互いを当時の最も重要な思想家であると認めており、そういう有力な自立した思想家に対して、それゆえに彼にこそ自分の哲学を理解してもらいたいという必死の努力が互いの文章に垣間見えるのです。書簡の調子は凝縮され、余分な話は一切捨象され、一つの論文ほど長く、互いに相手の思想を知り尽くした上で、にもかかわらず自分を理解させようと懸命に書き続けるのです。けれども1801年、つまりシェリングの『わが哲学体系の叙述』、フィヒテの『人間の使命』の発表に至って、二人の離反は決定的になっていきます。二人の各々の取り巻き連中が、悪口や告げ口を二人に吹き込みます。誤解をただそう、もう一度理解し合おうと努力しながら、しかし、もはや相手を自分の立場に引き入れることは不可能だという諦めに達して行くのです。書簡は相手への人格攻撃まで及び、表面は紳士的な丁重な文面を墨守しているものの、それゆえにいっそう破局的な様相を呈して行き、書簡は突然終了するのです。

◎フィヒテはカント哲学から出発し、カントの『純粋理性批判』と『実践理性批判』を一つの哲学にまとめようとしました。カントが至り得ないと断じた物自体の絶対の点から道徳の基準を紡ぎ出したことにフィヒテは強く反発したのです。そこからフィヒテが考え出したのが自我の絶対性、あるいは絶対自我の存在で、カントと違って、この自我は行動し、反発し、次々と反応して行くのです。これがフィヒテ前期の知識学で、1800年頃を境にフィヒテの自我はますます破壊的になり、自分自身の存在根拠まで脅かすようになります。しかし、自我は自我自身のうちで反省し、共同的人間(同胞の世界)に目覚め、道徳的秩序のうちにこそ唯一の実在性があるのだと認識するに至ります。フィヒテはこの理念的な紐帯を神とよび、それへの接近方法は信仰しかないのだと結論づけました。1801年の『人間の使命』の第三部「信仰」はフィヒテの熱情こもった圧倒的な迫力で読む者の心を揺さぶるでしょう。

◎そして、まさにシェリングがフィヒテから離れたのもこの点においてなのです。シェリングは、フィヒテが信仰に陥った理由を、絶対存在を知の概念で説明できなかったからだと非難します。「私の見るところからすれば」とシェリングは1801年10月3日の手紙で書いています。「哲学においては、信仰について語ることができません。それは、幾何学において信仰について語ることができないのと同じです。」そして、シェリングは、絶対的なものは知によってでもなく、信仰によってでもなく、ただ直接的な直観によってのみ把握されうると書くのです。私は、ここにドイツ観念論の栄光とも悲劇ともいえるものを見ます。フィヒテとシェリングは相半しながらも、ドイツ観念論の内実ともいうべきもの「哲学は唯一ただ絶対的なものへの問いによってのみ規定される」また「思惟する主観性は如何にして絶対的なものを把捉できるか」という問いと信念を共有していました。冷静に人間悟性の限界を探求したカントと、理性の実在性を世界領域の全体に広げたヘーゲルとも違って、フィヒテとシェリングの狂おしくも報い少ない探究は、この書簡集に濃い影を落としています。書簡集の編者のワルター•シュルツは最後にこう書いています。「ヘーゲルの思惟が、国家や社会など現実の諸問題を自分のうちに取り込んでしまったために、ドイツ観念論以後の哲学者たちは、この思考と対決せざるをえなかった。これに対して、知を、〈或る純粋な、計り知れない、没世界的な絶対的なもの〉のうちに根拠づけようとする後期フィヒテと後期シェリングの努力は、世界に背を向けた神学的形而上学の表現なのである。19世紀後半には、この形而上学に至るどのような通路も、もはや見出せなかった。」

   長くなりましたので、読書ノートの後半は(2)に回します。

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