2020年10月27日 (火)

佐多稲子『私の東京地図』

欧州、とくにフランスでのコロナ第二波の猛威は想像以上ですね。本当にこのパンデミックは収まるのか。また、その後の世界はどうなるのか。GoToキャンペーンで浮き足立った日本は、これで大丈夫なのか。妻は居合の忘年会に参加すると言っていますが、感染がとても心配です。私は、家にばかりいるので体がだいぶ弱くなってきました。12月には退院して3年目のMRI検査があります。脳の新しい出血がなければいいのですが。

  ここ一週間ほどは猫の体調が悪く、もう死ぬのでは、と心配しました。痛みで苦しいのか、泣き声とも叫び声ともつかぬ声を出し、カーテンの陰に隠れて出て来ません。もう13歳半なので寿命がきたのかとも思いましたが、動物病院で全身のレントゲンと血液検査をしてもらって、内臓は特に異常なく、どうも腰の関節の痛みらしい。私も同じようなヘルニア性腰痛で苦しんだので、その痛みはよくわかります。痛み止めの注射と薬で、2、3日後にはすっかり元気になって、私たちも心底ホッとしました。

  1926年(大正15年)稲子は動坂上(今の本駒込)のカフェー「紅緑」で女給として働き始めました。彼女は22歳でしたが、すでに女工、女中、女店員、さらに結婚と離婚を経験し、子供も産んでいました。まだ幼い子を抱えていたので、家から近いこのカフェーで、女給募集の貼紙を見て応募して来たのです。その頃、田端の室生犀星宅に集っていた若い文学青年たちが、会合の後に動坂を上がり、カフェー「紅緑」で歓談するのが常でした。彼らは中野重治、堀辰雄、宮木喜久雄、窪川鶴次郎などの面々で、出来たばかりの彼らの雑誌「驢馬」を女給である稲子に見せてくれました。稲子は小学校も卒業していないのですが、それまで手に入る限りの小説や文芸雑誌を濫読していたので、「驢馬」創刊号に記された執筆者の名前、芥川龍之介、室生犀星、佐藤春夫らに清新な驚きを覚えたのです。

  彼らの話を聞いているうちに、稲子は自分でも12歳の時に働いていたキャラメル工場での経験について語ったりしました。中野重治が、その話に興味を持って、小説にするよう提案し、こうして「つつましくも可憐な」(平野謙『佐多稲子論』)短編『キャラメル工場から』が世に出ることになったのです。あの一つ一つ紙に包まれ、小さな箱に入ったキャラメルについて、こんな秘密の物語が隠されていたとは! この話は、誰かから聞いた話でもなく、一日二日体験した話でもありません。九州から夜逃げ同然に上京し、間借りの二階に、無職で酒呑みの父親と病人の叔父と魯鈍な叔母と祖母と弟で、文字通り極貧の暮らしをしていた一家のために、12歳の娘は小学校を中退して働きに出たのです。毎朝、その日の電車賃のため家中の銅貨をかき集め、それが無いときは歩いて橋を渡り、凍える手で小さな紙にキャラメルを包んでいきます。かけたキャラメルは食べていいので、レモン味のキャラメルの日はなんとうれしいことか。でも、退勤時には門のところで、弁当箱の中までキャラメルを隠してないか調べられます。物語の最後に、郷里の担任の教師から、小学校だけは卒業するようにと書かれた手紙を読んで主人公は涙を流します。ここには1ミリも粉飾された現実はなく、怒り、悲しみ、あきらめが小さなアルミニウムの弁当箱の中に物言わず静かに収まっています。「虚無と清純という背反するニュアンスに彩られた」(平野謙)作家佐多稲子の処女作にふさわしい一編と言えましょう。

  佐多稲子(1904~1998)は長崎に生まれましたが、両親は佐賀の学生でした。母は15歳の高女一年生、父は18歳の中学五年生で、世間の手前佐賀を離れ、祖母のいる長崎に引っ越して来て稲子を産んだのです。稲子は小学五年生で、家族と一緒に長崎を離れ東京に向かいました。子供時代を過ごした長崎の思い出は戦後に出版された『私の長崎地図』に詳しく描かれています。忘れ難いのは稲子が小学一年生の時に亡くなった母の肖像でしょう。母ユキは18歳で弟正人を産みますが、夫の放蕩のため家計は逼迫し、ユキは働きに出、その結果、肺結核に罹り、3年間の療養の後、23歳でなくなります。稲子によれば、母は美しく、優しく、稲子の小学入学時は、弱っている体にもかかわらず、着物やエプロンやかわいいリボンを用意してくれました。病状が改まって、いよいよ起きられなくなった時、療養先の佐賀の実家から稲子に最後の手紙が送られてきました。ヨクベンキヤウヲシテ、ヨイオクサンニナルヤウニ。母の死後、父の放蕩はさらに度を越し、ついに一家は、担任の先生にだけ事情を告げ、友達にも近所にも内緒に、東京へ出奔します。

  ここから、佐多稲子『私の東京地図』(1949、講談社文芸文庫)は始まります。夜逃げして上京した一家の宿泊先は、父親の弟である叔父の住んでいる向島小梅町の三囲(みめぐり)神社裏の長屋の二階でした。叔父は早稲田の学生でしたが、兄が一家の遺産を喰い尽くして学費が払えず、中退し、しかも脚気で寝たきりに近い状態になっていたのです。父親は相変わらず酒を飲み、家族に怒鳴り散らし、たまに近くのアサヒビールの工場や仕出し弁当屋の人夫として働いたが、生来の怠け者で長続きしませんでした。家計は祖母の内職が支えていたので、その内職の材料や出来上がった製品を運ぶのが稲子の仕事でした。隅田川の向こうの花川戸には履物の問屋が集まっていて、そこから麻布と紐をもらって下駄の鼻緒を作るのです。帰りには厩橋近くの文房具問屋から小学生用の雑記帳を預かって来ます。その表紙に、絵心のある叔父が、寝そべったまま、花や鳥を絵の具で描いていきます。

  この叔父は稲子に大変な影響を与えたので、子供の頃、本や雑誌を持ってきて読ませてくれたのはこの叔父でした。叔父が長崎に帰省の折は、稲子をはじめて図書館に連れて行ってくれました。東京で一緒に暮らすようになってからは、もう脚気が進行して脚が浮腫んでいたのですが、少し元気な日、稲子を連れてすぐ近くの吾妻橋に寄ったとき、川の上を飛ぶ白い鳥を指差して、「鴎だがね、隅田川の上では都鳥っていうんだよ」と嬉しそうに教えてくれました。稲子が口入れ屋の手引きで上野山下の料理屋に奉公することになった時、蒲団から顔を上げて、「とうとう稲子も落ちて行くのか」と言いました。ある日、稲子が仕事から帰ると、叔父の遺体の前に祖母が座っていました。まもなく葬儀屋が来て、叔父の脚をポキポキと折って丸桶の中に入れました。叔父は文学青年で、小説家志望でしたが、志かなわず、25歳で陋屋で死んだのです。

  家計はさらに火の車になって、父親は稲子を川向こうのキャラメル工場に就職させます。そのため、稲子は転校した牛嶋小学校をわずか1ヶ月で退学しなければなりませんでした。後になって、その小学校の同じ五年に堀辰雄がいて、住居も同じ小梅町であったことがわかります。キャラメル工場は遠くて電車賃がかかったので、一年足らずでやめ、今度は支那そば屋に住み込みで入りますが、手が小さくてジャガイモが剥けずクビになります。そして、ついに上野山下の料理屋清凌亭の女中になるのですが、水商売とはいえ、オーナー夫婦が堅い人間で、稲子は大事に使われ、座敷女中になっても身持ちは堅かったようです。その清凌亭には芥川龍之介が時折訪れ、窓から不忍池の蓮が見える二階には菊池寛が家族連れで食事に来たこともありました。

  ここで稲子に一大転機が訪れます。日本橋丸善がはじめて女子社員を募集し、その新聞広告を見て、稲子は高等小学校卒と偽って応募して、なんと合格してしまうのです。料理屋の女中から、当時東京の、いや日本の中心といえる日本橋の老舗洋書販売店の店員となるのは信じられない出世でした。その頃の丸善は、二階が洋書、一階が和書•文房具•洋品を扱っていて、稲子が配属されたのは一階の舶来香水の売り場でした。そこには、むろん各界の著名人や作家が来店し、丸善の重役だった内田魯庵が和服を着て二階から降りてくることもありました。昼休みには、近くの高島屋や白木屋、三越を訪れ、香水の値段を比べることもありました。

  関東大震災(1923年、大正13年)が起こったのはまさにその頃で、稲子は瓦礫の間を抜け、人が押し合う吾妻橋を渡り、向島の長屋に辿り着きます。丸善も被災して、九段の仮店舗で営業を再開しますが、ちょうど三年目、稲子20歳の時、丸善の上司の仲立ちで縁談が持ち込まれました。相手は都心に広大な土地を持つ資産家の跡取りで、本人はまだ慶応の学生で27歳でした。帝国ホテルのレストランでの一回の見合いで稲子は結婚を決めてしまうのですが、これが彼女の人生の最初の大失敗で、相手の男は異常に嫉妬深く、いわゆるDVの常習者で、稲子は何度か自殺未遂をし、救急車で病院に運ばれて命を取り留めることもありました。堪えられず結婚三年目で離婚するのですが、すでにお腹には子供を宿していました。こうして赤子を連れた独り身の女として、本郷動坂のカフェーの女給となり、「驢馬」の連中と知り合うことになるのです。稲子はまもなく、「驢馬」のメンバーの一人窪川鶴次郎と結婚しますが、これがまた、人はよいが、女に脆い遊び人で、稲子の友人と何年にもわたり密通し、さらに別の女たちとも関係を持ち、稲子は我慢した挙句、41歳の時離婚します。

  稲子の男運の悪さですが、父親は芸者遊びで財産を蕩尽し、給料を家に入れず、酒飲みで暴力を奮い、病気の妻を労りもせず、娘の小学校を中退させて12歳で働きに出す冷酷さ。まあ父親は選べないから仕方がないが、2度の結婚はどうでしょうか。最初の男とは財産に目が眩んで、次の男は顔で選んで衝動的に、どちらも不幸と言ってよい結婚生活で、その苦悩が政治活動の殺伐さと絡み合って、一種救い難い雰囲気を醸し出します。妻の話では、頭の良い稲子が、一度で学習せず、二度も男選びで外れを引くのは理解しがたいとのことですが、私はこういうところに稲子のニヒリスティックな人生観、もうどうにでもなれ、という諦念の潔さ、樋口一葉の『にごりえ』や『わかれ道』の主人公に似たものを感ずるのです。

  ところで、最近、佐多稲子の『夏の栞ー中野重治をおくる』(講談社文芸文庫)を図書館で借りて読んだのですが、文学者同士の感動の交友というよりも、曰く言い難い隔靴掻痒に類したものを感じました。有り体に言えば、稲子にとって最も忘れ難い男性は中野重治であり、中野重治にとっても生涯慕い続けた女性は稲子ただ一人のように思われるのです。中野は窪川の中学以来の同郷の友人でした。カフェー「紅緑」で「驢馬」の連中と出会った時、たぶん窪川は愛想よく、女受けが良いので、稲子はすぐに魅かれてしまった。まだ帝大の学生であった中野は無骨で奥手の男で、とても高等学校全国一番の成績で入学する秀才には見えなかったのでしょう。稲子の才能を最初に認めたのは中野であり、中野の後押しで稲子は小説を書き始めたのです。ところが、中野が恋路を歩こうとする前に、稲子は衝動的に窪川と同棲を始めてしまいます。中野の性格上、友から女を奪いとることなどできそうにありません。中野は真面目な男で、稲子の出産祝いに日本橋の西川で買ったモスリンの上等な幼児布団を二人の住居に担いで持って来たりしたのです。

  「驢馬」の仲間がみな結婚したころ、独り身の中野を心配して、稲子を含めた「驢馬」の人たちは中野の結婚相手を探しました。稲子は一時プロレタリア演劇の女優の訓練を受けていたことがあるのですが、その時、気のあった人として原泉のことを思い出し、彼女はどうかと提案したのです。話はとんとん拍子に進み、中野と女優兼モデルの原泉の結婚が決まったのです。原泉がどれほど中野を愛し、尽くしたかは『夏の栞』を読めばわかるでしょう。しかし、『夏の栞』には、所々、稲子の密かな思いが隠されているのです。中野が肝臓癌から胆嚢に転移し、東京女子医大で最期の時を迎えつつある時、稲子は原泉と交代で中野を看病していたのですが、時折、中野の口から洩れる言葉を稲子は忘れずに書き留めています。原泉に促されて、稲子が冷たくなった中野の足に触れると、やおら中野が目を覚まして、「稲子さんにさすってもらったら罰が当たるよ」と言ったこと、また、床の上に垂れ下がったタオルを稲子が外したとき、もう目が見えないのに、それが稲子だと分かり、原泉がその理由を訊くと、「ああいう人はほかにいないもの」とつぶやいたこと、最も印象的なことは、原泉が稲子に、「稲子さんが(看病に)来ると、いつも(中野は)張り切るんだから」という言葉に表れているでしょう。中野重治は佐多稲子に対して中学生が同級の頭の良い可愛い女生徒に対するような気持ちを持ち続けていたのです。そして、稲子も、友人である原泉の立場を十分考慮しながら、にもかかわらず、自分が日本のプロレタリア文学最大の詩人•作家•理論家に愛されたことを、ともかくも、文字の上に残しておきたかったのです。

  結ばれないがゆえに、永遠に続く愛もあるのです。本多秋五は、随筆集『一閃の光』の中で、中野重治の家を訪れたとき、中野の家の細々とした調度の全てが、安直なものは一つもなく、中野重治という人間の刻印が押されたものばかりであることに気付いて驚いたと記しています。このような生活の堅実さ、趣味の揺るぎない堅固さこそ、状況に翻弄され、時代に弄ばれた稲子のついに持てないものであったのです。平野謙は、その優れた『佐多稲子論』で、佐多稲子と中野重治の二人だけが初志を見失わぬプロレタリア文学者だと書いており、「いつか本多秋五がいったように、私も佐多稲子や中野重治が天寿を全うせんことを切に祈りたくなってくる。」と結んでいます。中野重治は77歳で亡くなりましたが、稲子は長生きして94歳で死にました。

  ここからは、やや感傷的になります。というのも『私の東京地図』に描かれている町こそ、私が育ち、歩き、遊んだ思い出の町だからです。私の生家は墨田区吾妻町ですが、叔母がすぐ近くの寺島町に住んでいました。母と母の姉である叔母はたいへん仲が良く、私と二つ上の姉は日曜毎に叔母の家に遊びに行っていました。叔母の家は東武曳舟駅のすぐそばで、本所向島から押上、曳舟あたりはかなり馴染みです。『私の東京地図』に出てくる寺島の「蛇横町」はまさに叔母の家の所であり、あのクネクネと蛇行する道は懐かしい。歩いて浅草に行く時、吾妻橋を渡るのですが、15年ほど前、橋を渡り始めると、欄干や橋の上一面に白い鴎が十数羽群がって来ました。幻想的な光景で、「いざ言問わん都鳥、思ふ人はありやなしやと」という業平の歌が思い出されたのは当然でしょう。帰りは吾妻橋際にあったアサヒビールの旧工場のビアホールでビールを飲むのが楽しみで、味のある木造りのビアホールがなくなってしまったのは残念です。叔母の夫にあたる人は、戦時中、アサヒビールに徴用されていたのですが、昼休みに弁当の蓋にビールを入れてもらって飲んでいたということです。ビールといえば雷門近くの有名な神谷バーも『私の東京地図』に出てきました。稲子の父親が機嫌がいいとき、子供の稲子を連れて酒を飲みに来たのです。父は電気ブラン、娘は葡萄酒を飲みました。この神谷バーには稲子の弟正人が叔父の描いた絵を売りに来たりしていました。私は、長男と来ると、いつも生ビールのジョッキと電気ブランを飲みます。花川戸の辺りは今でも履物関係の問屋や工房が多いのですが、大学入学の時、叔母に連れられて酒井直三商店に靴を買いに行ったことがあります。入口で靴を脱いで上がるので試着のときに便利です。思い出はほかにもたくさんあって書ききれません。

  上野山下界隈、つまり池之端、仲町、黒門町、御徒町あたりを稲子は「私の縄張り」と言って、所狭しと並ぶ料理屋や弁当屋、和菓子屋、洋食屋、パン屋を一軒一軒店名を挙げて思い出していますが、店の場所が違っていると浅草生まれで上野池之端に住んでいた円地文子に指摘されていました。稲子は下働きの女中だったころ、毎日使い走りに行かされていたので、この町内に詳しくなったのです。浅草から上野への道も懐かしい。稲子が書いている仏壇屋が並ぶ通りは怖いので、私はいつも反対側を歩きました。上野は、動物園や博物館、美術館など、ここも懐かしいが、どこに行っても雑踏ばかりで、私はあまり好きではありません。「紅緑」のあった本郷動坂ですが、以前都立駒込病院に通っていた時があり、いつもJR田端駅から動坂を上って中ほどにある病院で治療を受け、そのまま動坂を上がって「紅緑」のあった神明町(今の本駒込)を通り、白山まで歩いて、都営三田線で神保町に行って古本屋街を巡って帰りました。

  日本橋について書こうとしましたが、それはまた別の機会に。

 

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1時間半に及ぶ検査と治療でぐったりしたルーミー。生まれてはじめての大病でした。

 

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図書館で借りた2冊。

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佐多稲子十八歳。丸善に勤め始めた頃。佐多稲子全集第一巻の写真。

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