2018年12月31日 (月)

2018年の大晦日に

年末に大きな風邪をひいて二週間ばかり苦しみました。妻ののど風邪がうつったらしいのですが、風邪らしい風邪をひいたのは30年ぶりです。自分はもう風邪はひかないものだという過信があったのでしょうか、いろいろ油断したのかも知れません。風邪のために年末の予定はすべて影響を受けて、仕事納めの29日もなお、ぼんやりした感じが残っていました。

12月3日、退院して一年ということで、脳のMRI検査を受けました。12月6日に、夫婦でその検査結果の説明を受けたのですが、脳の画像は一年前と全く同じで、新たな出血の箇所はないということで、安心しました。妻が、鮮明に映し出された映像のコピーを欲しいというと、CD-ROMに焼いてくれて、帰り際に渡されました。寒くなって血圧は若干上がり気味ですが、薬がよく効いて、依然として低い値を保っています。

一年は、まことにあっという間で、6月にフランス旅行に行ったことも、何か遠い過去のことのように思われます。夏の猛暑も何とかやり過ごし、秋には水道橋の後楽園で野外の能を鑑賞しました。文化の日には、中学校以来のギタリストの親友から手紙があって、東京文化会館の小ホールでのコンサートの招待があったのですが、ちょうど、長男のラップの発表と重なったので、残念ながら断りました。その友人は、彼が京都の大学の哲学科在学中にその下宿に一週間滞在して、いろいろ京都を案内してもらったのですが、その時に「世界黒軍の歌」という歌を私が作詞して、彼がギターで作曲してくれたのを思い出しました。30年近く音信が途絶えた後に、西荻窪の画廊での彼のミニコンサートで再会したのですが、彼によると、私のブログを読んでくれていて、大学時代、京都や東京で徹夜で話したことの全く同じことを書いているので驚いた、と言われました。いわば、あの青春時代のその熱っぽい議論がそのまま数十年も凍結して、そのままの形で蘇ったのに愕然としたというのです。

恐ろしいことに、時々私は塾の生徒に国語を教えていて、教える能力などないが、分かったようなフリをして説明をしたりしています。先日、中学校の教科書に載っている漱石の『坊ちゃん』について教えましたが、以前私は、この本は東京の青年が田舎者を馬鹿にした小説だと思っていたのですが、読み返すと、これは、一つのドッペルゲンガーの物語、つまり、もう一人の自分の物語ではないかと気付いて、ちょっと背筋が寒くなりました。あらゆる意味で、主人公の「坊ちゃん」は、作者の漱石と正反対です。「坊ちゃん」は無鉄砲で、後先を考えず行動しますが、漱石自身は親類とのしがらみ、周囲への心遣いで身の細る生活を送りました。「坊ちゃん」は直情径行ですが、漱石はおそらく、その時代のもっとも先鋭で複雑な自意識の持ち主の一人でした。「坊ちゃん」は天ぷらを4皿、ぼた餅を2皿食べて生徒たちを驚かせますが、漱石は胃弱で食が細い。「坊ちゃん」は物理学校卒で数学の教師ですが、漱石は帝大出の英語の教師でした。1906年の漱石は、実に荒っぽい仕方で、自分自身と裏側で一対一対応のする人物を作り上げたのです。

漱石は、多分、自分自身と対面することの恐ろしさを知っていて、意図的に正反対の、いわば精神のバランスを保てるような人間を必要としたのです。スタンダールが、自分とはまったく違う、反省することなく成功していくジュリアン・ソレルやファブリス・デル・ドンゴを創造したように、あるいはブルクハルトが、自身の謹厳な独身生活では望み得ない権力と奢侈の欲望をルネサンスの城主たちを描くことで埋め合わせたように、過度に意識的な人間は常にもう一人の分身を必要とするのです。人が、酒に酔って、羽目を外して、人生を棒に振るようなことがありますが、運が悪いというよりも、そのもう一人の自分、いわばその人の本質が出ただけであり、分身こそその人そのものなのでしょう。

今年は、本当にいろいろなことがありました。年末にかけて、徴用工やらレーダー放射問題などで、韓国の異様さが露わになっって来たのですが、まさにネットの時代ならではで、昔には考えられないことでした。戦後教育がどれだけ偏向していたか、教師の教える戦後民主主義がどれだけ自分の国を貶めていたか、本当に信じられないことです。その最大の被害者が、いわゆる団塊の世代といわれる人たちで、彼らは、日本は中国人と朝鮮人に悪いことをしたと教え込まれてきたのです。

ところで、これは暴論ですが、団塊の世代が他の世代を大きく凌ぐ人口を持ちながら目立って優れたことを成し遂げないように見えるのは、彼らの親が戦争を生き残った世代だからかも知れません。勇敢で、正義感が強く、正直で真面目な人間は戦争で死ぬことが多く、その遺伝子があまり残らなかったからでしょう。

私は、中学2年になった頃が、自分が大人の世界に入りかけた時期だと思うのですが、というのも、中学1年までは学校が楽しくて、いろんなことにあまり疑問というものを持たなかった記憶があるのです。中学1年の三学期に声変わりして、中2の時のクラス替えで、仲良い連中と離れ離れのクラスになった頃から、父親や教師を尊敬できなくなってきたのです。その時のクラス替えで、最初の学期にクラス委員に選ばれたのは、私とSさんという女子でした。その頃の東京の下町の中学校は不良の子分のような生徒が多く、学級会などは必ず紛糾して、民主主義の真似事のような馬鹿馬鹿しい議事進行など、時間の無駄のように私には思えたのです。話す時間もなかったし、席も離れていたので、私は不満を紙に書いて、同じ学級委員のSさんに渡すようになりました。ところが、Sさんからくる返事は整った字で、しかも私が見たこともない難しい熟語を使った大人びた文章でした。その後、中学を卒業した時、卒業アルバムの写真をみて、はじめて彼女が社会部に入っていたことを知ったのですが、その部の顧問は私のクラスの担任の社会科の教師で、彼はテストの答案用紙の裏面にベトナム戦争について意見を書きなさい、と指示するほどの典型的な政治的教師でした。

私とSさんとは別々の高校に入りましたが、どういうわけか、私の方から連絡したのか、私は彼女の高校の文化祭を訪れたのでした。彼女の高校は荒川に面した淋しいところにあって、以前、在日朝鮮人の青年によるその高校の女子高生殺害事件があり、大島渚がそれを映画化したが、そのロケは何と私の高校の屋上で行われました。彼女の高校の文化祭から数日後、今度はSさんが私の高校の文化祭を訪れて、帰りにステーションビルのレストランでナポリタンを食べたのですが、何とそれが私がスパゲティを食べた最初でした。(知らないで卓上の辛いソースをたくさんかけたので、Sさんが笑ったのを覚えています)

その後、私たちは別々の大学へ入り、ある時、(恥ずかしながらその頃私が凝っていた)アナキズム関係のパンフレットを配りに彼女の大学の文学部のキャンパスにいくと、偶然Sさんに出会いました。久しぶりの再会で、近くの喫茶店で話をしましたが、彼女は、確か「命を救う」ような運動をしたい、などと言っていた記憶があります。その後は家の近くの区立図書館で偶然会った以後は40年近く全くその存在すら忘れていました。ある日、家の書庫にしてある部屋に並べてある岩波文庫のコレクションを漫然とながめていると、そこにSさんの名前があるのにはじめて気付きました。彼女は山川菊栄評論集の編集をしていたのです。ネットで検索すると女性史研究家として某大学の講師をしている彼女の写真(かつての少女の面影が少し残っている)が出てきました。

割とよくいそうな平凡な姓名だったので、まさかSさんとは分からなかったのですが、私は読書家の血が騒いで、手に入る限りでの彼女の著作を図書館を通じて集め、読んでみました。女性史の専門家として、市川房枝などの戦争責任を追及したところは読み応えがありましたが、なぜか、それから従軍慰安婦の問題に傾注するようになり、その種の本をたくさん出しています。よく知られているように、この問題は証明史料が怪しいのが多くて、はっきり言えば、デタラメの可能性が大きい。人間というものについての考え方、また政治と社会についてのもっと深い興味が彼女には欠落しているように思いました。むろん、私などにそんなことを言う資格も能力もないのですが。

浮谷東次郎という名は、どれほどの人に知られているのでしょうか。退院してから、毎日のように付近をウォーキングしているのですが、この辺りには彼に因んだものがよく目に入ります。東次郎の実家は市川の大地主で、祖父は市川の初代市長で、市の会館には胸像もあります。東次郎は、地元の日出学園で中学生活を送り、高校は都立の両国高校、大学は日大を中退し、英国のレーシングスクールを最優秀で卒業しています。中学校のときに、千葉大阪間を50ccバイクで往復し(昔は14歳で原付免許がとれた)、それは『がむしゃら1500キロ』という本となって、また高校時代のアメリカ留学は『俺様の宝石さ』という本(ともにちくま文庫)に結実しました。その後、トヨタのテスト・ドライバーをしながら各レースでことごとく優勝し、日本の最初期のカーレースの舞台で最も輝かしい戦績を残しました。

東次郎は1965年に千葉のサーキットで練習中にコースに侵入した人間を避けてコース横の水銀灯に激突し、23歳の若さで亡くなりました。熱心なプロテスタントであった東次郎の母親は、私財を投じて市川駅にほど近い千葉街道沿いに教会をたて、その二階を東次郎記念館にあてています。母親は、常に東次郎に自らを犠牲にして人のために尽せと教えていたので、違法に侵入した人間を無理によけて死んだのだろう、と書いています。そのがむしゃらで物怖じしない性格、卓抜な行動力など、私には全く無縁の、ほぼ正反対の人物ですが、私にとっては唯一尊敬できる先輩でもあります。

さて、以前玄関には中国人の書家に書いてもらった李白の詩が飾ってあったのですが、いつのまにか、安永・文化の浮世絵師である窪俊満の『宇治茶摘み』が飾られています。俊満独特の色を抑えた渋い色調の素晴らしい版画で、妻に聞くと、お金を貯めて買ったとのことです。2年ほど前、千葉市立美術館で、鈴木春信の錦絵展を観に行ったのですが、妻はそれから江戸時代の浮世絵を集めたいという願望を持ったようです。俊満の版画の下には、私が時折盗み読みするプレイヤッド版アラン著作集『芸術と神々』がなぜか置かれています。

今年は、天皇退位を控えて、いわば記念すべき年になりました。私は、三島由紀夫が言っていたように、天皇は静岡あたりの田舎の質素な家に転居すべきだと思います。外交的な儀式は内閣にまかせて、自身は国に殉じた人々と国家的災害の死者たちの鎮魂に専念すべきでしょう。というのも、天皇で我慢できないのは、天皇自身ではなく、それを取り巻き、その権威を身に纏おうとする周囲の連中と関係する諸制度だからです。天皇の神秘的な権威は、実質的に、太平洋戦争の終戦で、多くの国民の死に応えようとせず、一身の安穏を甘んじて受け入れた時に終わったと思うからです。

紅白歌合戦もそろそろクライマックスを迎えようとしています。新年は、間違いなく、忘れ得ぬ年になるでしょう。それよりも、私は養生して生き続けること、妻と猫を残して逝かないこと、酒を飲みすぎないようにすることに意を注ぐべきだと自戒しています。

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窪俊満の「宇治茶摘み」1796年頃

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