2024年6月30日 (日)

視映者の夢 映画とテレビなど

 

 

 馬鹿っぽいタイトルですが、加齢による認知機能の低下かも知れません。むろん、カントの『視霊者の夢』のもじりですが、『視霊者の夢』は霊視者を自認するスェーデンボリをやんわりと批判したものですが、すでに17世紀の末に占星術を批判したライプニッツと比べても、まだるっこくて、とても名著とは言えないでしょう。ところで、『視映者の夢』とは、映画やテレビの批判のつもりではないのですが、プラトンが『国家』で描いている洞窟の比喩(人々は前方のみ見ることを強いられ、背後には灯火が灯され、様々なものの影のみが前方のスクリーンに映し出される)と不思議にも現代の映像世界は似ています。ガザに足を踏み入れたことのない人でも、ガザの惨状と人々の苦難は映像で理解できる、と思われるのですが、実際はガザの瓦礫の埃、避難所の悪臭、何より人々の精神を痛めつける圧迫感と恐怖による苛立ちを体感することは不可能です。不可能というより、「視映者」なので、ガザの死体袋の並んだ映像を見た直後、ホームランを打ってダイヤモンドを軽快に一周する大谷の姿を見て喜び、10秒後に女子高生が殺されたニュースを見て、今度は何も思わずに、朝食の残りを食べるのです。

 そんなことで日々の精神の平衡を保てるかというと、実は大谷のホームランとガザの爆撃と殺戮は奇妙にバランスをとっているのです。音と映像で届けられるものは「視映者」にとっては、すべて等価なのです。

 さて、まずテレビの話ですが、レヴィ=ストロースは、「テレビはご覧になりますか?」という質問に、「テレビなんか見ませんよ。本を読む時間がなくなりますから。」と答えています。全く、そうあるべき答えで、「老人の一日は千金に値する」という『養生訓』(貝原益軒)の言葉を引くまでもなく、貴重な時間を漫然とテレビの前で過ごすなどはもってのほかというべきでしょう。

 ところが、恥ずかしいことに(テレビ世代の)私の一日は、その日のテレビ番組の録画をすることから始まるのですが、具体的には、まず起きて血圧を測り、食事をし、薬を服用し、イタリア語のラジオ講座を聞いて(もう3ヶ月聞いていますが、文法や単語をゴリゴリ覚えずに、テキストの予復習も簡略に済ませていますが、それでも少しずつ身についているようです。発音が容易なのがうれしい)、それからタブレットでテレビの録画予約を済ませ、ル•モンドその他を読んで、猫を遊ばせ、妻のためにスムージーを作り、洗濯したり本を読んだりしていると、もう10時です。「朝の10時までにその日にするべきことの半分を終えていなければならない。」とは『嵐が丘』の中の言葉ですが、私は10時でだいたいすべて終わっています。

 ところで、どんな番組を見ているかというと、ほとんどはNHKで、報道番組やドキュメンタリーや健康•料理番組などですが、いくら低脳の私でも民放のワイドショーやバラエティ番組は馬鹿馬鹿しくて見る気になれません。今の朝ドラ(虎に翼)と大河(光る君へ)は夕食時に夫婦で見ていますが、どちらも面白い。朝ドラは戦争が絡んでくると、いつも悲しいことが多いのですが、とくに今回は可哀想でした。なぜ赤紙一枚で戦地に赴かねばならないのか。税金を払っているのに、なぜ命まで国に捧げねばならないのか。皇族や閣僚の子息が先陣を切って戦うならまだ分かるが、骨になって帰るのは庶民ばかりです。

 『SHOGUN』を見るためにディズニー•プラスに入ったのですが、全話見終えると、他に見るものがなく、昔の『クリミナル•マインド』をしばらく見ていました(シーズン1と2)。『SHOGUN』ですが、なかなかリアルで面白い。残酷な場面はむろん、煽情的なシーンもあって、これは完全に大人のドラマですね。細川ガラシャと見られる女性マリコを演じたアンナ•サワイの存在感が際立っていました。関ヶ原の手前で終わってしまったのでシーズン2の完成が待たれます。

 Amazonスタジオで制作された映画『沈黙の艦隊』を見ましたが、原作の漫画が優れているのか、映画の出来もとてもよい。日本人指揮官が米国の空母を撃沈させるという胸のすくような場面も見られます。潜水艦と駆逐艦の戦闘というとロバート•ミッチャムの『眼下の敵』(1957)が有名ですが、AppleTVで配信されたトム•ハンクスの『グレイハウンド』(2020)も海洋戦争映画好きにはたまらないでしょう。

 なお、『沈黙の艦隊』と同じ原作者の映画『空母いぶき』(2019)もアマプラで観ましたが、全体に甘い作りで、俳優もしっくりこない(とくに西島秀俊と本田翼)。最後は常任理事国5カ国で構成される国連軍が間に入って一件落着とはふざけています。今や、常任理事国のロシアと中国が真っ先に他国の主権侵犯を実行しているのだから、国連の平和維持能力は実質ゼロでしょう。ということは、他国から武力の威嚇を受けても国連の調停に頼ることはできず、まず自力で国を守らねばなりません。『空母いぶき』では、内閣も自衛隊も国民のためを思い、一身を賭する覚悟で事に当たっていますが、それはあまりに絵空事です。侵略を受ければ、真っ先に他国の属国になろうという政治家もいるのです。自衛隊も頼りになるかどうか。80年間一人も敵を殺していない集団に防衛を期待できるのか。かつて、第一次世界大戦に本格的に参戦しなかったことで、技術と経験で世界に遅れ、何より情報戦で苦杯を舐めたように。

 戦争映画というと、ノルマンディー上陸作戦(1944/6/6)からちょうど80年ということで、現地でフランス大統領や当時の生存者が参加した式典が催されましたが、日刊紙ル•モンドは、その記事の中で、映画『プライベート•ライアン』(1998)の伝説的な冒頭20分の映像を再録しています。オマハ•ビーチで、上陸用舟艇のハッチが開くと同時にドイツ軍の機関銃に狙い撃ちされて次々と倒れる兵士たち。海水に落ちた兵士にも浴びせらる弾丸、水中で噴き出る血、吹き飛ばされた腕や脚、折り重なる死者たちを越えて敢行される突撃、ついに敵の砲台が落ちると、投降するドイツ兵への憎しみに満ちた殺戮、いやもうこれはスピルバーグの傑作ですね。

 近くの図書館で、毎月2回ほど映画が上映されているのですが、平日の2時開演ということで、無料にもかかわらず、いつも空いていて、老人しかいないのですが、先日の『誰がために鐘は鳴る』(1943)は、ほぼ満席でびっくり。後ろの席の老人は「50年ぶりで懐かしくて観に来たよ」と言っていました。それにしても、170分は長い。途中寝てしまったが、最後の戦闘シーンは迫力がありました。ゲイリー•クーパーは、グレース•ケリーと共演した『真昼の決闘』でもそうでしたが、ほとんど表情がない。イングリッド•バーグマンは、『ガス燈』では、ただの大女に見えましたが、この映画では少年ぽいところがよい。彼女の魅力があますところなく発揮された作品は、やはり『カサブランカ』でしょう。

 夫婦で映画の好みが違うので、最近は一緒に観ることは少ないのですが、一月ほど前、アマプラで無料になった『ゴジラ-1、0』を観ました。神木隆之介と浜辺美波の純愛が見どころの一つですが、この二人が出るとメルヘンチックになってゴジラの出す恐怖感を削いでいるように思いました(私は好きですが)。ゴジラ映画といえば、全30作のほとんど全てを観ているはずですが、私の好みはアンギラスとキングギドラです。ガイガンを引き連れて、キングギドラが宇宙空間を地球に向かって突き進む映像はゴジラ映画の中でももっとも印象的なシーンでしょう。ゴジラファンとしての意見ですが、『ゴジラ-1』は『シン•ゴジラ』を凌ぐ佳作、というより愛すべき佳作と言うべきでしょう。ゴジラは、日本人の想念が凝縮し、形になったもので、やはり、敗戦というインパクトが放射能という恐怖と重なって、それが日本人独特の神的ファンタジーを生み出したのでしょう。そのような意味では第一作『ゴジラ』と最近作『ゴジラ-1』がゴジラ映画の二つの代表作と言えるかも知れません。

 ところで、この前、テレビ東京の「サタ•シネ」で、ジョン•ミリアスの『ビッグ•ウェンズデー』(1978)を観たのですが、吹き替えで、しかもかなりカットされていましたが、懐かしくて胸が熱くなりました。話は、1962年、カリフォルニアの夏の海のうねりから始まります。マット、リロイ、ジャックの三人の青年はすでにサーフィンで伝説を作っていました。青春の馬鹿騒ぎ、酩酊し、恋をし、ふざけて、またサーフボートを抱えて沖合に繰り出す日々、しかし、1965年ベトナム戦争の徴兵が始まり、ジャックが戦場に行き、三年後に無事に帰ってくるが、重たい心を抱えたまま失意のうちに生きています。マットは結婚して就職し、リロイも何とか商売で当てようとしています。青春時代の喧騒が過ぎた後で、退屈で覇気のない日々が続く中、1974年、突然、10数年ぶりに、水曜日に来るという伝説の大波、ビッグ•ウェンズデーがやってきます。マットが浜辺に降り立つと、リロイとジャックが待っていて、三人は、青春のすべてに決別するように荒海に飛び込んで行きます、今日が特別な日だと思いながら、、、

 はじめて、この映画を観た時、なぜいつも主人公のマットは泥酔しているのか不思議でした。しかし、現実のマット=ジャン•マイケル•ヴィンセントも後年『エアーウルフ』という凡庸なテレビ映画に出、酒と薬で身を持ち崩し、74歳で死ぬのです。監督のジョン•ミリアスもその後は『若き勇者たち』(1984)という愛国好戦映画(ちょっと面白かった)を作るまでになりました。

 最後に、最近見て印象に残った映画を二つ。

★『オッペンハイマー』(2023)近所のショッピングモールにあるTOHOシネマズで。平日の朝10時のみの上映ということで、観客は四人のみ。目が悪いので最前列で観ましたが、爆発音が大きくて、耳を塞いでいました。説明的な描写はほとんどなく、もっぱらオッペンハイマーの主観的行動で語られるので、マンハッタン計画や核物理学についての興味がないと分かりにくい。前半のクライマックスは、ロスアラモスの砂漠での核爆発の実験です。人類最初の原爆実験で、プルトニウムの激烈な連鎖反応が実際なにを引き起こすか精確には不明でした。恐ろしい予想もあって、エンリコ•フェルミによれば、可能性は低いが大気に感応して、地球全体が火だるまになることもあるという。なお、マンハッタン計画に参加した多くの科学者(ノーベル賞受賞者21人含む)の中でも、フェルミは別格の天才で、トリノ工科大学の入学試験の面接の際、試験官から「で、あなたは何を私たちに教えてくれるのですか?」と聞かれたという。

 映画の後半は、オッペンハイマーが共産主義者ではないかと告発する原子力委員会のルイズ•ストロースとの秘密聴聞会での対決ですが、実際、オッペンハイマーが共産主義者だったかどうかは定かに描かれていません。ストロースを演じたロバート•ダウニーJr.がユダヤ人の執念深さをよく表現していますが、このエピソードが長過ぎてくどい。後半は、もう一つ、「最終殺戮兵器」を作ってしまったオッペンハイマーが、「自分の手は血塗られている」と後悔し、幻覚まで見るようになる場面。これも、実際は本人がどう思っていたか分かりません。戦後すぐは、「原爆の父」として喝采を受けていたし、現在でも偉人と見る人も多いでしょう。

 どうも原爆製造とその使用は、もはやどうにもならない運命のレールに乗って運ばれて行くようで、人間の力では抗いがたいものを感じます。ヒトラーが最初に原爆製造に成功するのではないかということは、アメリカに逃れて来たユダヤ人たちにはまさに恐怖でした。すでにアメリカ東海岸に届くV3ロケットも完成間近という話もあり、ルーズベルト大統領を説得してしゃにむに原爆開発を優先させたのです。ところが1945年4月にベルリンが陥落してヒトラーが自殺し、原爆開発の初期の目的は空振りになってしまったのですが、都合よく、まだ日本が執拗に粘っていたので(これが有利に降伏したいという天皇の意図なら許し難い)、急遽日本への原爆投下が決定したのです。

 この日本への原爆投下にも理由がありました。アメリカは硫黄島の戦いと沖縄上陸作戦で強靭で果敢な抵抗に遭い甚大な被害を受けたので、もし戦いが九州や関東平野に至れば、アメリカは不案内な土地で泥沼に引きずり込まれて、さらに多くの人的損害を被るだろうと思われたのです。さらに、戦後の世界の覇権争いでソ連に圧倒的優位に立つためには、唯一の核保有国であることを世に知らしめる必要もありました。

 この二つは誰しも首肯し得る理由で、問題はそのために日本国民が被るであろう悲劇の目算です。そのための言い訳は、真珠湾攻撃が「卑劣なだまし討ち」であったということですが、どう考えても公平な報復とは思えません(真珠湾の米国の死者3500人、広島長崎の死者21万人)。この不均衡な死者は、ハマスのテロに対するイスラエルの過剰な爆撃を思い出させるでしょう。また、この伝で行くと、アメリカ(とEU)がロシアに引導を渡すためにウクライナでのロシアの限定戦術核の使用を誘っているという話もあるかも知れません。

 なお、米軍の戦術の徹底した冷酷さも特筆ものです。10万人近い犠牲者を出した3月10日の東京大空襲は、密集した下町を選び、春一番のふく時期に合わせ、しかも焼夷弾がもっとも効果を発揮するよう、ハワイで日本風の民家の模擬集落を建てて、何度も実験していたのです。広島ではもっと狡猾でした。原爆投下の日まで B29は何度も広島上空に近づき、すぐ戻って行くので、人々は慣れて、警報が鳴っても防空壕には入らなかったのです。しかも午前8時、学校や会社に人が集まる時間でした。町の中心の広場では、青い空にパラシュートで落ちてくる原爆を無邪気に見上げる動員少女たちの姿がありました。瞬間、閃光が走り、焼けただれた少女たちが折り重なって倒れている映像が映ります。。

 上の描写は映画『ひろしま』(1953)の一場面で、『オッペンハイマー』の補角となり、『オッペンハイマー』を裏から突き上げる作品です。8万人にも及ぶ広島市民のエキストラによって出来上がった、この感動的作品は、最後に死者たちが次々に立ち上がって私たちに向かって歩いてくる映像で終わります。そして、この場面は『オッペンハイマー』の最後に主人公が見る幻覚(焼け爛れた顔、炭化してうずくまる遺体)と呼応するのです。

★『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』(2018)アマゾン•プライムで視聴。この映画の冒頭10分は、驚愕と戦慄を引き起こすかも知れません。高校の入学式の朝、大島志乃は、布団の中で自分の名前を言う練習をしています。制服を着ている時も、鏡を見ている時も、そして、高校へ行く途中の道でも。入学式が終わり、教室で、担任に促されて、順番に自己紹介がはじまります。各自、名前と趣味や希望の部活を言うのです。志乃の順番が来ると、彼女は立ち上がり、沈黙の後で、「ウォ、ウォ、ウォ、ウォー」と獣の咆哮に似た音を叫びます。「オ、オ、オ、オ、オ、」と速射砲のような音が続き、息が切れ、声がかすれた後で、やっと、「シノ、オオシマ、、、」と小さく声が出ました。「外人かよ」と横やりを入れたのは菊地という男子生徒です。

 帰宅すると、母親が心配顔で「どうだった?」と聞きます。志乃は「大丈夫だった」と言って2階の自分のベッドに潜り込んでしまいます。翌日、登校すると、菊池が、「大島、自分の名前言ってみな。シノ、オオシマでーす。外人でーす。」とからかいます。休み時間に担任の女教師が志乃を呼び出して、「緊張しないで、肩の力を抜いて、少しずつ発音できるようになろう。自分の名前ぐらい言えるようになろうね。」と諭します。

 帰る時、学校の駐輪場で、志乃は自転車を将棋倒ししてしまいます。倒れた自転車が同級生の岡崎加代の足に当たって「痛えよ」と言われます。志乃は、「ゴゥ、ゴゥ、ゴゥ、ご、ご、ご、ごめん」と言いますが、加代は「何?それ病気?」と訊きます。「ワ、ワ、ワ、わからない。イ、イ、いつのまにか、ボゥ、ボゥ、母音が出なく、、」と答えます。加代は「これに書きな」と小さなメモ帳と小さな鉛筆を渡します。

 それで二人は何となく親しくなって、一緒に帰るのですが、別れ道で、志乃が黙っていると、加代が「ウチ来る?」と誘います。加代の家はアパートで、加代の部屋にはギターがありました。志乃は加代にギターを弾いてくれるよう、しつこく頼みます。最初断っていた加代も、志乃の懇願に負けて、「笑ったら殺すからね」と言って弾きがたりをはじめます。ところが、加代のあまりの音程外れの歌声に志乃はクスッと笑ってしまいます。「帰れ!」とギターを放り投げて怒る加代。志乃はうなだれたまま家に帰ります。

 数日後、学校の帰りに、商店街で偶然加代を見つけた志乃は何気に後をつけます。一人でカラオケに入ろうとする加代は、入口で、中学校の同級生たちとバッタリ会います。「加代じゃん、どこの高校行ったの? あんた音痴だったよね。一人で練習に来たの? あたしたちと一緒に歌おうよ」と強引に誘います。黙って立っている加代。「カ、カ、カ、カ、加代ちゃんは」とその時、いつのまにか横にいた志乃が叫びます。「ワァ、ワァ、ワァ、ワァ、わたしとヤァ、ヤァ、約束がア、ア、ア、あるんだから!」

 突然の絶叫に驚いたかつてのいじめっ子たちは、「何、この子、怖いよ、逃げよう」と退散します。その後、加代と志乃は二人でカラオケに入りますが、加代は志乃の透き通った歌声に驚きます。それから、二人は何度か加代の部屋で、加代のギターに合わせて志乃が歌って時を過ごしました。ある時、加代が、いきなり、「秋の文化祭に二人で出よう! バンドの名前も考えてある、ほら!」と差し出した紙には「しのかよ」と書かれてありました。「え、え、え!」と驚く志乃。しかし、志乃の顔には、はじめて戸惑いながらも喜びが見えました。

 度胸をつけるために、二人は遠くの町の人通りの多いところで演奏をはじめます。最初は、おっかなびっくりでしたが、次第に思い切った声も出て、ギャラリーもちらほら現れはじめました。けれど、ある日、菊池が自転車で偶然通りかかりました。「え、おまえら何やってんの? 街頭ミュージシャン? それより大島、おまえ歌うときは普通に声が出るんだな。」そう言われて志乃は歌うのをやめ、逃げるように去って行きます。

 翌日、学校の裏庭で志乃と加代が弁当を食べていると、水飲み場のところで、菊池がゲーゲーと吐いています。「あいつ、中学校のとき、いじめられていたらしいよ。まあ、あんな性格だからね、空気読めないというか、うるさいし、邪魔だし、誰にも相手にされないんだ。」と加代が志乃に説明します。それから数日後、菊池があらたまって二人のところに来て、自分をバンドに加えてくれないかと頼みます。そして鞄からタンバリンを出すと、チャカチャカと伴奏らしきことをはじめます。「消えな」と加代に言われて、一時は引っ込みますが、それから何度も頼みに来て、仕方なく加代は菊池のメンバー入りを承諾します。加代の部屋で三人でのはじめての練習の際、志乃は我慢できず、部屋を飛び出して行きます。走る志乃を追いかける加代。志乃は浜辺の砂に突っ伏して「ウ、ウ、ウ、」と言って泣きます。「何で、何で、何か言って」と加代は言いますが、志乃は指で砂に「しのかよ、やめる」と書きました。

 その日から志乃は学校に行かず、一日中ベッドで寝ています。加代が心配して電話をかけますが無視されます。志乃の母親は「催眠セミナー」というパンフレットを持ってきて、「ここ行ってみたら、こういうのまだやったことなかったでしょう?」と言うのですが、志乃はそのパンフレットを引きちぎって投げ捨て、またベッドに倒れ込みます。一方、加代は、一人で文化祭のためのオリジナル曲を作っています。

 志乃が一人で、とぼとぼアーケードを歩いていると、自転車で志乃を探していた菊池に出逢います。「大島の家を探していたんだ、お母さん心配してたよ。、、そうだ、アイス奢るよ」と菊池は志乃をアーケードの中のアイスクリーム屋のテーブルに座らせます。「やっぱ、俺のせい? よくやっちゃうんだよね、俺、昔からこんな感じで、友だちもいないし、気づいたら浮いちゃっているし、それでよけいにはっちゃけて、、、前に大島のことバカにして笑っただろ、悪かったな、ごめんな、ほんとは俺がいなければいいんだろうけど、俺もバンドやりたかったんだ、ほんとはずっとひとりぼっちだったから、離れたくないっていうか、、」菊池がそう語ると、志乃は、アイスが溶けて落ちるのも構わず、「ナ、ナ、ナ、何で、、、ウ、ウ、ウ、うるさい!」と吐き捨てて走って行ってしまいます。

 翌日、久しぶりに登校した志乃。帰り際に菊池が話しかけます。「バンド、岡崎一人でやるってよ。一人でやりたいんだって、、、」と言いますが、志乃は知らんふりして歩いて行きます。「ダセえんだよ、おまえは!」と菊池は叫びます。「空気消して、わたしなんかどこにもいませんて顔をして、おまえなんか、ザコだ、ミジンコだ、、」そう言われても志乃は黙って帰って行きます。

 いよいよ、文化祭の当日。志乃は校舎の裏でスピーカーから流れてくるバンド•コンテストの演奏を聞いています。コンテストに出場した加代は、一人で、自作の歌「魔法」を下手ながらも懸命に歌います。「魔法をください、魔法をください、みんなと同じにしゃべれる魔法、みんなと同じに歌える魔法/ それさえあれば、わたしは外に出かけて行くよ。/ でも、どこへ行こう / わたしは今すぐ帰りたい、みんなの知らない秘密の場所に、あの子と座る校舎の裏に / 魔法はいらない、魔法はいらない、ツバを吐き捨て、バスに乗ろう、わたしは遠くに出かけて行くよ。」

 加代が歌い終わると、ステージの下で、突然、「ウ、ウ、ウ、ウゴゥ」と吠えるような声、加代が振り向くと、いつの間にか志乃が、目いっぱい足を踏ん張り、腕を震わせ、何かを叫ぼうとしています。

 「ウァ、ウァ、ワ、ワ、ワ、わたしは自分の名前が言えない、言えない、言えない、言えない、何で、どうして、知らないよ、そんなの。緊張してるから? みんなと打ち解けてないから? そんなの関係ないんだ! 何で、どうして、わたしばっかり、不公平だ、しゃべりさえすれば、わたしだって、バカにしないで、笑わないで、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、だから逃げた、何にもしゃべらなければ、バカにされない、逃げて、逃げて、逃げて、言えない言葉を別の言葉に置き換えて、それでもっとしゃべれなくなって、でもわたしが追いかけてくる、わたしがわたしを追いかけてくる、わたしをバカにしているのは、わたしを笑っているのは、わたしを恥ずかしいと思っているのは、全部わたしだから、わたしは、わたしは、オ、オ、オ、オ、オオシマシノだ! これからも、これからずっとわたしなんだ!」

 それを聞いた加代の目がやさしく光ったのです。映画の最後の場面、志乃が弁当を食べていと、クラスの女生徒がジュースのパックを差し出して、「これ、あげる」と言いました。「ア、ア、ア、ア、ありがとう」という志乃の顔は心なしか、明るく見えました。

 この映画に出てくる三人、志乃、加代、菊地は、それぞれ、言葉が出ない、音程が外れる、空気が読めない、といったことで、「普通」の高校生から弾き飛ばされていると感じています。しかし、彼らは物語の展開の中で、はじめて存分に自分の気持ちを吐き出します。菊池はアイスクリーム屋で志乃に、加代はコンクールで自作の「魔法」という曲で、そして志乃は加代の曲に背中を押されるように体育館の生徒の前で。感動させることがあるとしたら、それは彼らが自分たちのやり方で正面突破を試みていることでしょう。吃音は治らないかも知れない。音痴はもっとひどくなるかも知れない、どこでも浮いてしまう性格は死ぬまで続くかも知れない。しかし、彼らのような人間は、言ってみれば、何か強力な磁石のようなものを引きずって歩いていて、金属のような貴重な光ったものを吸い寄せる力があるのかも知れない、そう思いたい。

 最後に個人的状況を。5月の血液検査の結果は良好。ただし、血圧が急に下がって(診察室血圧は95)疲れやすさを感じたので、降圧剤を弱いものに変えてもらったら、今度は血圧が上がりすぎて、今は薬の量を増やして様子を見ています。妻は更年期症状が少し見られるようです。

 

 

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『誰がために鐘は鳴る』むろん、原作はヘミングウェイ。原題は、ジョン•ダンの詩から。映画冒頭にその詩が引用されています。 

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『沈黙の艦隊』戦争は嫌だが、戦争映画はなぜこれほど面白いのか。

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『プライベート•ライアン』戦争映画の水準を一気に上げた作品。

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『ビッグ•ウェンズデー』左からリロイ役ゲイリー•ビジー、マット役ジャン•マイケル•ヴィンセント、ジャック役ウィリアム•カット。

アメリカ青春映画のまごうことない傑作。同年(1978)に公開された『ディア•ハンター』同様、ベトナム戦争が重い陰を落としている。

 

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『ゴジラ − 1、0』昔からのゴジラ映画ファンも納得できる佳作。

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『SHOGUN』真田広之が日本人スタッフを引き連れて、違和感ない戦国絵巻に仕上げた。投じた予算は、日本の「大河」の比ではない。

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『ひろしま』戦争を決断した連中は、日本がこんな負け方をすることを予期していただろうか。

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『オッペンハイマー』クリストファー•ノーランは、この映画を一人の科学者の人間ドラマとして描くことで、政治的論争に巻き込まれるのを避けた。

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『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』原作押見修造(太田出版)、監督湯浅弘章、脚本足立紳、出演南沙良(大島志乃)、蒔田彩珠(岡崎加代)

2017年夏のわずか2週間で撮影された。主人公の2人は撮影当時中学生だった。ロケ地は静岡県沼津市。海と空が穏やかで美しい。 

 

 

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ソファーで眠るサーディ。ストレスフリーな毎日はこの猫のおかげ。

 

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妻の肩の上で。サーディはいつも妻のそば。

 

 

 

 

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