2017年12月31日 (日)

織田作之助『船場の娘』


年の瀬に倒れて救急車で運ばれ、間一髪助かって退院してきました。妻の機転のおかげと言ってよいのですが、図書館の帰り道で迷ったり、ごはんがボロボロ口からこぼれるのを見て、すぐに救急車を呼んでくれたのです。それからすぐに意識を失くし、気がついたら、浦安のJ大付属病院の脳卒中ケアユニット(SCU)に絶対安静で寝かされていました。病名は一過性脳虚血発作(TIA)ですが、処置が速かったので麻痺も残らず幸運でした。翌日には息子も駆けつけ、遠くから長兄も様子を見に来てくれましたが、何より暮れの多忙な時に仕事に支障をきたしながら毎日来院してくれた妻には感謝せねばならないでしょう。

自身30年ぶり三回めの入院ですが、若くて有能な看護師さんたちに世話されて、退院する時はやや寂しくもありました。リハビリは疲れるし、ベッドから離れるときは必ずナースコールで呼ばねばならないのは面倒でしたが、テレビもスマホもあるので退屈はしません。妻に頼んで、家の書棚から一番薄い文庫本を持ってきてもらいましたが、何とそれは昭和30年刊行の角川文庫版織田作之助の『船場の娘』というわずか90ページの本でした。

『船場の娘』は短編集で、「女の橋」「船場の娘」「大阪の女」「俗臭」の4編からなっていますが、「俗臭」以外は連作もので、母娘孫の三代の物語です。その中でもっとも出来の良い「女の橋」を紹介しましょう。
船場の瀬戸物問屋伊吹屋の藤助(とうすけ)は、十二の時から伊吹屋に丁稚に上がり三十年、先代の主人の亡くなった今では押しも押されぬ大番頭になっていました。その藤助の唯一の願いは伊吹屋の暖簾を守ることで、四十を過ぎてからは妻子を持つのも諦め、生涯を伊吹屋に尽くす覚悟を決めていました。彼の当座の気がかりは先代の跡取り息子の恭助で、ボンボン育ちで、お人好しで、柔弱な性格、道楽でいつ屋台を潰すやも知れません。それで藤助は、これがまた船場のやり方でもあるのですが、若旦那の恭助には商売には一切手をださせず、先代からの馴染みの宗右衛門町の大和屋に連れて行き、そこでだけ自由に遊ばせることにしたのです。むろん大和屋の女将からは、逐次電話で恭助の動向を連絡させ、酒は銚子三本まで、同じ芸妓は3日続けて付かせない等、細かい取り決めをしていました。

ところで、その恭助が女将の制止も聞かず、小鈴という芸妓を強引に連日指名することで一悶着起きてしまうのです。ある夕、法善寺横丁の「夫婦善哉」で氷白玉を食べながら、小鈴は恭助に妊娠したことを告げます。狼狽する恭助、しかし、気の弱い彼は結婚を約束することしかできません。お腹の目立つようになった小鈴は、母親の住む借家へ引っ越して嫁入りの準備をします。読み書きできないのでは伊吹屋の御寮はんにはなれないと思い、必死で手習いにも励みます。そんな時に大番頭の藤助が突然母娘のもとを訪れ、恭助との別れ話を切り出します。このことは恭助はんも承知のことかと母親が尋ねると、そうだと冷静に藤助は答えます。実は、すでに、ある乾物問屋の長女と恭助との縁談を内内にすすめており、優柔不断の恭助は、器量は悪いが家柄のしっかりしたその娘との結婚を承諾せざるを得ませんでした。

苦労人の母親はすぐに事情を飲み込んで、藤助に頼まれた通り、手切れ金の受け取りを兼ねた證文を書くため筆硯を持ってきます。ここで藤助は予想外の愁嘆場に出くわすのですが、それは小鈴がどっと泣き出したことで、船場に嫁入りするために習った字が別れの證文を書くために使われることの悲しさだったのです。こうして母娘は大阪を離れ、生まれた子はいったん里子に出した後、伊吹屋が引き取って育てることになりました。

それから20年近くの歳月が流れて、大正十一年の夏、大和屋の玄関にしょんぼり入って来た40前後の女がいました。「お勝姐はんゐやはりまつか」とかつての朋輩の名を言われて出てきたお勝は小鈴のやつれた姿を見て驚きます。聞けば、大阪を出た後、苦労の連続で母親にも死なれ、三味線を教えたりしながら糊口をしのいでいるとのこと、たまたま中座で催される花柳一門の名取の披露 に今春女学校を出た伊吹屋の長女雪子が娘道成寺を踊るということ、またその三味線を弾くのが宗右衛門町の芸妓衆で、お勝もその一人だとの噂をどこかで小鈴は耳にしたのです。

「お勝姐ちゃん、わての一生の願いです。その三味線、わてに弾かせて貰へまへんやらか」20年の間、会うことを許されなかった娘の晴れ舞台の三味線を引く、その気持ちはお勝にも嫌というほどわかりました。「小鈴はん、弾きなはれ、弾きなはれ、わての替え玉となって、、、。けど小鈴はん、あんた身體は?」一眼見て病人と分かる小鈴のやつれようだったのです。

中座の舞台の日、お勝の着物を着た小鈴は 、やせ衰えて身幅があまっていたのですが、赤い毛氈の上でこの上なく幸せでもありました。美しく成長した雪子の姿、それを見ながら娘道成寺を弾く小鈴、しかし踊りの終わる頃、いきなり撥(ばち)を落として小鈴は前のめりに倒れてしまいます。幕が弾かれ、楽屋に運び込まれた小鈴を雪子が見舞うと、お勝は、もうたまり切れず、「嬢(とう)はん、、、」と廊下に連れ出して何もかも打ち明けました。母親だと聞くなり、雪子は転げるように小鈴の枕元ににじり寄ったが、もうその時は小鈴の息は切れていました。

織田作之助(1913〜1947)は紹介するまでもない大正昭和の大作家ですが、直截的で乾いた文体はスタンダール譲りで、彼には一片の気取りもありません。書くものはみな面白く、とくに大阪ものは(ほとんどがそうですが)読み応えがあるようです。生涯の大一番に初手に無用の端歩を突く坂田三吉、文楽人形の所作に一生を捧げた吉田文五郎、放蕩を繰り返す『夫婦善哉』の柳吉とそれから離れられない蝶子、作之助の愛したこれらの人物には的確に当てはまる言葉は一つしかありません。それは、阿呆、という言葉ですが、それこそ作之助が大阪と大阪人を愛した所以だったのです。

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