2009年7月 2日 (木)

パリ再訪(8)帰国の日

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 帰国の日。しかし、パリ発は夜なので、チェックアウト後、トランクをフロントに預かってもらいました。身軽な格好で、まずサン・セヴラン教会へ。ホテルのすぐそばの教会なので、パリを発つ前に一度は行きたかった教会です。入口はまだ鉄扉が閉ざされ、すでに観光客が何人か開くのを待っています。やがて、黒人男性が出てきて扉を開けてくれました。サン・セヴラン教会は左岸を代表する教会です。フランボワイアン様式のファサード、典型的なフライング・パッドレスが見られ、内部は高い天井に明るい陽射しがとおり、実に多彩なステンドグラスを輝かしています。堂内を歩いていくと、壁に大きなプレートがかけられ、第一次大戦で死んだ教区の若者たちの名前が千人を越える数で刻まれています。右手の礼拝堂に入ってみると、なぜか円形の壁にぐるりとジョルジュ・ルオーのリトグラフ『ミゼレーレ』のうち10枚が飾られています。ベルヴィルで生まれたルオーがステンドグラス職人の見習いとして最初に手がけたのが、このサン・セヴラン教会のステンドグラスの修復だったことと関係しているのでしょうか。

 

 サン・セヴラン教会からセーヌ川に出て東に歩くとすぐに貧民救済博物館Musee de L’Assistance Publique –Hopitaux de Parisがあります。建物は王室建築家フランソワ・マンサールによって17世紀に建てられたミラミヨン館という立派なもので、向かいにノートルダム寺院を見る絶好の位置にあります。受付には眼鏡をかけた冷たい感じの女性が一人座っています。ここで一人4ユーロ払い、パンフレットをもらって二階に上がります。展示室に入ると、看護学校生とみられる少女たちがたくさん来ていました。熱心にメモを取っている少女もいましたが、大半は休憩用のソファに座っておしゃべりをしています。彼女たちを除くと、見学の人は私たち以外誰もいません。

 この館は中世からのフランスにおける貧民、捨て子の救護医療の歴史が展示されています。また、かつての手術用具や、医療器具などもあり、それに関した絵画や彫刻が多数展示されています。しかし、もっとも多く展示されているのは、文書、手紙の類で、それらが収められているケースには黒い布が被せてあって、読んだらまた覆っておかねばなりません。むろんフランス語の文章ばかりで、読んでいくのはとても疲れます。全体的に地味な展示で、これで4ユーロは高いような気がしますが、無料にしてもほとんど見学客は来ないでしょう。メルシェの『十八世紀パリ生活誌』によると、18世紀までのパリの衛生・施療事情は最悪で、フランスの地方都市の水準にも達していなかったようです。瀕死の病人が運び込まれるオテル・デュー(市立病院)は、風通しが悪く、空気は淀んでおり、病人はただ寝かされ、死ぬのを待つだけだったとも云われています。当時のイスラム世界の明るく清潔な医療施設とは比べものになりません。17世紀の聖ヴァンサン・ド・ポールは、貧しい人たち、捨てられた子供たちの救護のために力を尽くしましたが、それはまた、上流社会の要請でもありました。自分を養えない貧民の増加は、社会全般のモラルの低下を招くと考えられていたからです。聖ヴァンサン・ド・ポールの訴えに賛同して、自らの館を貧しい人や病人のために開放したのが裕福な未亡人Madame de Miramiyonでした。これが、このミラミヨン館の起こりです。

気になった展示を二つ。どれも捨て子に関するものですが、まずLe Tour(塔)といわれる捨て子を置く装置です。17世紀頃、子供を育てられない親は、殺してしまうか、宿屋や教会の前に赤ん坊を置き去りにしていました。そのような危険な捨て方から赤ん坊を救うためにLe Tourは発明されたのです。扉を開けて四角い置き場所に赤ん坊を置き、回転させると裏側の病院内部の部屋に赤ん坊が送られるのです。それが立体の動く模型で作られていて、母親が赤ん坊を置くと、180度回転して、今度は聖ヴァンサン・ド・ポール病院の看護婦がその赤ん坊を取上げているのです。こうして、親は顔を見られずに子供を捨てることができるのですが、しかし、生活のためとはいえ、わが子を捨てざるをえない親の気持ちはいかばかりであったでしょうか。もう一つの展示は、その捨て子の足に結び付けられていた、金属、布、手紙の類です。一枚の手紙は、ギザギザに切り取られており、いつか、生活に余裕ができたら子供を迎えに来ようともう半分をidentificationのため切り取ってあるのです。

 

息が詰まるような貧民救済博物館を出て、私たちはセーヌ川を西に歩いて、ポン・ヌフの手前で左に曲がり、サン・ジェルマン・デ・プレに向いました。妻が、パリを発つ前にドゥー・マゴで食事がしたいというのです。サン・ジェルマン・デ・プレ教会のすぐ前にあるカフェ・ドゥー・マゴはパリでもっともよく知られたカフェの一つですが、私たちのような貧民にはやや敷居の高い料金表が貼ってあります。思い切って入ってみると、店内は思ったよりも明るく、活気に満ちています。昼時で混雑していますが、観光客でしょうか、女性の客が多いのが目につきます。私たちは、ここでビールと軽食とコーヒーをとりました。コーヒーにはチョコレートがついてきます。ギャルソンはたいへん感じがよい。向かいの席の中国人の家族はあわただしく食事をして、あわただしく出ていきました。

 

レンヌ通りを歩いて左に曲がり、サン・シュルピス寺院に向います。途中にあったチョコレートの店、ピエール・エルメに入ってみると何とさきほどの中国人の家族が何箱も買っているのに驚きました。サン・シュルピス教会の左塔とヴィスコンティ作の噴水は前回の滞在では工事中で見ることができなかったのですが、今回はゆっくり見ることができました。妻は、教会内部にあるドラクロアの画をたくさん写真に撮っています。私は、この壮大な教会の椅子に座って、ステンドグラスから降り注ぐ七色の光を浴びながら、物思いにふけっていました。何を考えていたか、むろん、家で待つルーミーのことですが、今回のパリ旅行では何度か具合が悪くなって、無事に日本に帰ることができるのか心配になったこともありました。パリの街を歩くのは心慰められることだが、家の畳の上で、猫と昼寝をすることもそれに勝る安らぎがあります。

 

サン・シュルピス寺院からフェルー通りをリュクサンブール公園に下っていきます。途中にL’Age d’Hommeという出版社があって、その一階が本の倉庫と自社の本の売場になっているようです。ウインドウに並べられた本をぼんやり見ていると、トマス・ウルフ『時と河Le Temps et Le Fleuve』がありました。ほかにも、レベッカ・ウエスト、G.K.チェスタートン、などが並んでいます。店の中に入ろうとして、扉を開けようとするが開きません。奥から女性が出てきて、壊れているから強く押してくれとのこと。店内は、本が書棚に倉庫のようにきれいに並べられています。妻は、梯子に乗って、厚い二巻本のレオン・ブロアの『未刊の日記』を手にとって考えています。その隣りにはジュール・ラフォルグの最初の完全版の三巻全集があります。ここは、ときおり詩の朗読会なども開かれているということです。私たちが本を見ていると、いつのまにか客が何人か入ってきて、店の人に質問したりしています。カタログを見てみると、ジョヴァンニ・パピーニ『キリストの話』、アーナンダ・クマーラスワミー『芸術における自然の変転』、ヴァシリー・ローザノフ『我らの時代の黙示録』、オクターヴ・ミルボー『書簡集』などもあります。プレイヤッド文庫に似ているDossier Hという一人一巻本の叢書には、ジョセフ・ド・メーストルやルネ・ゲノン、マックス・シュティルナーなどの名も並んでいます。このL’Age d’Homme書店は、ユーゴスラヴィアから逃れてきたウラジミール・ディミトリェヴィッチが1966年にスイスのローザンヌで始め、後にパリに拠点を移したものです。当初は、ドストエフスキー、トルストイ、チェーホフに収斂されかねないスラブ文学の中に、アンドレイ・ベールイやアレクサンドル・ブローク、ニコライ・レスコフなどを紹介する目的を持っていましたが、次第にスイス関連の作家、そして世界的規模での文学、エッセイ、詩、宗教思想などの本を出版していきました。ディミトリェヴィッチが祖国を脱出するとき、肌身離さず持っていたのはトマス・ウルフの本で、その追放された天使(Ange exile)というイマージュは、彼の出版物の根底に貼り付けられているようです。

 

リュクサンブール公園へ。テニスコートの脇の東屋へ行くと、チェス盤が刻まれたテーブルがたくさん置かれて、どのテーブルでも人々がチェスを指しています。天気が良いので、東屋の外のテーブルでも、多くの人が自ら持ってきたチェス盤を広げて楽しんでいます。半数以上は持参のチェス・クロックで時間を計りながら指しています。ギャラリーの数も多く、終盤のぎりぎりの戦いではどこも異様な必死さが感じられてきます。学生、勤め人、老人、ユダヤ人、女性の姿も見えます。もっともギャラリーの多かったのは、車椅子にすわって指している脳性まひの男性の対戦でした。わけのわからない言葉を発しながら、それでも不自由な指で的確に指しています(チェス・クロックも器用に押しています)。中年男性と学生の対戦が始まったので見てみましたが、男性はナイトのオープニングから4手目で入城し、ビショップを犠牲にしてクイーンとナイトで電撃アタックをかけています。これは私の常用の(といってもチェスソフト相手ですが)作戦の一つで、てっきり私が発明したと思っていたので驚きました。結局、男性は無謀な攻撃がたたって終盤劣勢に追い込まれましたが、それでもしぶとく諦めません。頑張ったが、ついに時間切れで、「トンベ(針が落ちた)」といって席を立ちました。顔は興奮で真っ赤です。

 

公園を出る前にトイレに入ろうとして、リュクサンブール公園の公衆便所に行きました。なぜか便所の横に警官が一人立っています。入ろうとすると、白髪の男が顔を出して、よく見ると立て看板にcabinet 0.6ユーロと書いてあります。妻と二人分1.2ユーロを出そうとしましたが、あいにく小銭がありません。10ユーロ札を出すと、男は3.8ユーロしかおつりをくれません。片方の手には、あたかも今受けとったかのように5ユーロ札が握られています。私は「サンキューロ(5ユーロ)!」と言って男の手から5ユーロ札をむしりとりました。男はチェッとした顔をしています。辰野隆が初めてパリに着いた時、遣り手婆の悪態に、「espece de ,,,(このやろう)」と言い返したのを思い出して、何か一言投げつけたかったが、よく考えてやめました。

 ところで、日本のように駅ビルに無料の温水洗浄便座があるのが普通のような国にいると、パリのトイレ事情は何とも我慢ができません。アーセナルの監督であるフランス人アーセン・ベンゲルは、かつて、日本のように豊かな国が、なぜサッカースタジアムを造るとき、ついでにトラックを付設してしまうのか、と苦言を呈したことがありました。しかし、その伝でいけば、パリのように多くの宝物・価値ある文化財を有する豊かな都市にとっては、(ましてや世界一の観光都市であるのに)、街中の公園、広場、駅、街路に無料のトイレを設置して常に清掃しておくことなど簡単なことではないでしょうか。そうしないのは、やはり、中世以来の国民性、トイレなどに金を使うのは無駄だという心持によるのでしょうか。母はいつも、玄関と厠を見ればその家の程度がわかると言っていたので、母が生前にフランスを旅していたら、きっと非文化的国家とみなしていたでしょう。

 

 夕方になったので、預けてある荷物を取りにホテルに戻りました。メトロで、シャルル・ドゴール・エトワールへ。エール・フランスのリムジンバスで一路ロワッシーに向います。暮れ方のパリは、夜の歓楽の準備をするように、何かけだるい雰囲気がそこここに漂います。渋滞でやや時間がかかったが、何とか空港に着きました。すでにチェック・インは済ましてあるので、荷物を預ける前に、ラウンジでのんびりしていました。大きな土産物店があったので、妻に荷物を見張ってもらって、私一人で買いに行ってみると、新聞や雑誌や本も売っています。ユーロの硬貨がまだ残っていたので、何かいいものはないかと探すと、1.5ユーロ(200円)均一のPocket Classiquesなるペーパーバックのシリーズが売られていました。私はそこでフロベールの『三つのコント』を買って妻のところに戻ると、今度は妻が店に出向いてフィッツジェラルドの『ベンジャミン・バトン』を買ってきました。私は、まだ硬貨が使いきれてないので、また店に行って、妻は持っているが私は持っていないボードレールの『悪の華』を買いました。ポケット・クラシックは他にはメリメの『イルのヴィーナス』しか売っていなかったのですが、メリメのこの短編は彼にしては傑作とも思えないので買いませんでした。ページ裏の案内を見ると、このシリーズは、できるだけ安い価格で多くの人に手軽に古典を読んでもらうために始められたようで、テキストはほぼすべて全文が収録してあります。目ぼしいところを挙げると、コルネイユの『ル・シッド』、ディドロ『ブーガンヴィル航海記補遺』、マリヴォー『愛と偶然の戯れ』などですが、面白いのは『愛・関係・放蕩』と題して、ラクロの『危険な関係』からの393の引用で成り立っている巻です。

 

 さて、荷物を預けて、エール・フランスの出発ラウンジへ。免税店で買物をしたら、レジの女性が「目的地は上海ですか?」と英語で聞いてきました。中国人に間違われたのは初めてで、かなり驚きました。 夜の出発というのは何か陰気な感じがします。ゲートの開くのを待って、ベンチには多くの日本人がすわっていますが、みな疲れた顔をしています。妻ははやくも眠そうな顔をしています。搭乗が始まって、みなが解放されたような、しかし、やや重苦しい足取りで飛行機に通ずる明るいトンネルの中に入っていきます。これが地獄への道だったとしても何の不思議もなかったでしょう。というのも、後はぎゅうぎゅうづめの客室に押し込まれ、椅子に縛りつけられ、顔も知らぬ操縦士に運命を任せて、12時間無事に着くことだけを願うしかないのですから。むろん、私は、61日のブラジル沖でのエール・フランス機の事故のことを考えています。機体も同じA330なら、運命の針の触れ具合に背筋が寒くなる思いがするのは当然でしょう。

 

 飛行機は定刻に、無事、シャルル・ドゴール・空港を飛び立ちました。私にとっては、また憂鬱な時間の始まりです。妻が本を読み出したので、私も買ったばかりの『三つのコント』を読み始めました。2万語を使って書いたといわれるフロベールの著作を辞書なしで読むなどできない相談ですが、私は常時電子辞書を携帯し、しかも辞書を引く苦労をまったく厭わない、むしろ好みなので、わからない単語が頻出しても意に介さないのです。しかし、わずか1ページ半読んだだけで疲れてしまい、ミネラル・ウォーターを飲みながら音楽を聴いていました。そのうちに食事になったのですが、エール・フランスのエコノミーの食事の不味さは尋常ではありません。食後のコーヒーが終わると、早々と灯りは消されましたが、むろん眠ることなどできません。妻が、アイスクリームを食べたいというので、後ろの給湯室に出向きましたが、そこはすべてセルフサービスで人がいっぱいです。みな我先にアイスクリームやサンドイッチやカップめんや飲物に群がっています。一人が戸棚を開けて新しいアイスクリームの箱を見つけて取り出すと、いっせいに手が伸びて、あっという間に箱は空になりました。ハーゲンダッツを持って妻のところに戻ると、地獄から抜け出したようにほっとした気持ちになりました。

 いつのまにか、妻が眠りに落ち、話し相手がいなくなったので、珍しく映画でも見てみようかという気になりました。実は、毎週末は夫婦でDVDで映画を観るのが楽しみなので、機内の小さな液晶画面での(しかも吹替え)映画は見るつもりはなかったのですが、クリント・イーストウッドの『グラン・トリノ』の誘惑には勝てませんでした。(ネタばれはありません)。悪条件での鑑賞ながら、ただちに映画の中に引っ張り込まれ、終わるまで夢中で観ました。ところで、この映画の秀逸さは、グラン・トリノという題名そのものです。フォード72年型グラン・トリノ。深緑のボディーはきわめて美しい。主人公が、日本車のディーラーである息子を軽蔑するのもよくわかります。エコ車など、何の魅力もありません。グラン・トリノという忘れられた車の中に、この映画のすべてが集約されています。

56日夕方4時に成田着。急いで家路につきます。扉を開けると、玄関で待っているはずのルーミーの姿が見えません。台所にも居間にもいません。ようやく、本を置いてある部屋の隅に隠れているのを発見しました。妻が抱き上げると、安心して、妻の頬をぺろぺろ舐めはじめました。8日ぶりの再会でした。(パリ再訪 了)

Stsevrin

ホテルのすぐ近くのサン・セヴラン教会。サン・ジャック通りからその後姿を写しました。正面のファサードは、ユトリロが印象深く描いています。

Agedhomme

サン・シュルピスからリュクサンブールに至るフェルー通りにある出版社L'Age d'Homme。ウインドーには私好みの本ばかり並んでいます。社名はミシェル・レリスの『成熟の年齢L'Age d'Homme』から採ったのでしょうか。





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2009年6月21日 (日)

パリ再訪(7)カルチェ・ラタン

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 帰国前日の今日は予備日として何の予定も入っていませんでした。適当に散策することにして、まず、セーヌ川をはさんですぐ向かいのオテル・ドゥ・ヴィル(パリ市庁舎)で催されているプチ・二コラ展へ行ってみることにしました。この市庁舎はなかなか立派な建物です。入口に、屈強な黒人のガードマンがいて、入場制限をしているので待て、といわれました。どうも冗談の通じるような相手でないので、向かい合ったまま黙って外の舗道で立っていました。さて、入ってみると、子供ばっかり、どうやらクラス全部で見学に来たようです。展示会場の奥に大きなテーブルがあって、そこに色鉛筆、ソフトペン、画用紙などが置いてあって、誰でも勝手に絵が描けるようになっています。もちろん、子供たちはプチ・二コラの絵を描いているのですが、それが何とも面白い。私も描いてみましたが、やはりどうもうまく描けません。片隅に作者ルネ・ゴシニの使ったタイプライターとぼろぼろになったラルースの辞書が置かれていました。ル・プチ・ニコラはルネ・ゴシニと作画担当のジャン=ジャック・サンペとのまさに奇跡的なコラボレーションによって成り立った傑作シリーズで、フランス語学習の初期には誰でも読んだことがあるでしょう。

 

 オテル・ド・ヴィルを出てから真向かいのB.H.B(ベー・アッシュ・ベー)という百貨店へ。東急ハンズをややお洒落にしたようなデパートでそれほどの新味はありません。その後、マレ地区までぶらぶら歩き、フランス歴史博物館(ズービーズ館)へ。3ユーロ払って見学したものの、退屈してすぐ出てきました。それから歩いてサン・ジャック塔(これも大したことはありません)を見て、サン・ミッシェル橋を渡って、再びホテルの近くまで帰ってきました。橋のたもとにあった楽譜屋をのぞいてみましたが、昼食休憩ということで閉めだされ、サン・ミッシェル広場横のジベール・ジュンヌのエゾテリスム専門書店へ向いました。若い頃、この本屋でルネ・ゲノンの『ダンテのエゾテリスム』を買ったのですが、その頃は入ってすぐ右側にゲノンの著作が他を圧するようにずらり並んでいました。ところが、今はゲノンの本は奥の狭く暗い通路に数冊あるだけで(隣にエリアーデが数冊)、大半は怪しげなオカルト本です。おまけに仏像が飾ってあったり、お経のような音楽が流れていたり、香が焚かれていたりで、いたたまれなくなってすぐ出てきました。 

 

 ホテルには寄らず、お腹が空いたので、オデオンの四辻(Carrefour de l’Odeon)に食事に行きました。ここはいつも活気があって、人通りが絶えません。この四辻に立つと、オデオン通り7番地にあったアドリエンヌ・モニエの有名な貸本屋「本の友の家」のことを思い出します。20世紀初頭、そこはパリの、いやパリ以外のどこにもありそうもない、文学的出会いの場でした。ヴァレリー、ジッド、パウンド、ジョイス、ヘミングウェイ、ヴァレリー・ラルボー、ベンヤミン等々がオデオン通りのモニエの店を訪れたのです。その頃、ベンヤミンはカルチェ・ラタンやサン・ジェルマン・デ・プレのホテルを渡り歩きながら、乏しい原稿料に頼る不安定な生活をしていました。彼は、モニエへの最後の手紙の中で、「私たちが出会い、話したあのオデオンの四辻ばかりでなく、私たちの中の思い出の四辻の一つ一つで」あなたを思い出すだろう、と書いています。

 さて、オデオン通りの入口にあるカフェ、レ・ゼデゥトュールへ。「出版社」という名の通り、店内の四隅にはずらりと書棚が並んでいます。非常に繁盛する店で、昼時ということもあり、インテリっぽい男性女性でいっぱいです。若いギャルソンが忙しそうに動き回り、ひっきりなしの会話、食器の音、それらが反響して、書棚の書物をゆっくり検分する雰囲気ではありません。私たちははサラダとパンとデザートを食べ、食後に私はたくさん置かれた新聞棚からフィガロ紙ををとって読み始めました。パリの新聞はいろいろ読んでみましたが、フィガロ紙が私にはいちばん読みやすく簡明で頭に入るようです。

 

 オデオンからサン・ジェルマン大通りを東に向って進み、サン・ミッシェル大通り、サン・ジャック通りを過ぎました。この辺は古本屋が多く、私はカーディナル・ルモワーヌの古書店でバーゲン本を見てみました。フランス語の古書は、妻に頼むと、すぐアマゾンなどで安いのを探して注文してくれるので、パリでわざわざ高いのを買う気になれません。店頭の箱から、マルセル・シュオッブ『モネルの書』(3ユーロ)、サント・ブーヴ『婦人たちの肖像』(5ユーロ)を見つけ出しましたが、ペーパーバックでビニールにしっかり包まれているので中身が確認できず買うのを諦めました(サント・ブーヴの本は後で後悔しました)。そこからメトロのジュシーまで歩くと、駅の近くの古書店で「エゾテリスム本80%OFF」の張り紙が。ところが店内に入ってみると、低俗なオカルト本ばかりです。今やパリではエゾテリスム(秘教主義)というと、この手の本ばかりなのでしょうか。

 帰り道、カーディナル・ルモワーヌの交差点際のカフェでエスプレッソを飲みました。オデオン、クリュニュー、モベール・ミューチュアリティ、カーディナル・ルモワーヌと、つまり6区のサン・ジェルマン・デ・プレから5区のカルチェ・ラタンに至る地域はもっともパリらしい、私の気に入りの地域です。ここには本屋とおもちゃ屋がたくさんあります。モベールの近くで、チェス用具専門店を見つけました。入ってみると、店内はチェス・セットが天井まで並べられています。これほどたくさんのチェス盤と駒を見たのは初めてでした。長らくチェス・セットを買いたがっていた妻は熱心に物色していましたが、やはり高く、ミニチュアサイズのものでも20ユーロ以上します。

 

 まだ夕方の時間でしたが、私が疲れたので、サンドイッチを買ってホテルに帰りました。昨日の強行軍の疲れが出たのか貧血気味で、シャワーを浴び、下着を変えてベッドに入りました。昨日と打って変わって元気な妻は、一人で夕食を買いに外出しました。目が覚めると、妻がテレビでなにやら恋愛映画を見ています。ベッドの上に、パンやヨーグルト、チーズ、イチゴなどを広げてテレビを見ながらゆっくり食べました。今回見たテレビ番組では、「クイズ・ミリオネア」がいちばん面白かったようです。形式はほとんど日本のものと同じですが、司会の男性が秀逸です。
明日はいよいよ帰国、体調を調えねばならず、夜は外出せずにそのまま寝てしまいました。

Pnicola

ル・プチ・二コラ展の入口。実写版の映画も会場で上映されていましたが、ぜんぜん面白くありません。やはり、サンペの画なしではプチ・二コラといえないのです。

Monge

カーディナル・ルモワーヌの交差点際のカフェからモンジュ通りを見渡す。有名なカフェよりも街角の平凡なカフェにすわってぼんやりするのが最上です。森有正によると、この辺りは、ユイスマンスが繰り返し描いている地域だとのこと。

 

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2009年6月20日 (土)

パリ再訪(6)クリュニュー、ギメ、バスチーユのオペラ、ポンピドゥー

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 今日は第一日曜日、主だった美術館はほとんど入場無料となる日です。まずホテルのすぐそばにあるクリュニュー中世美術館へ。ここは妻がもっとも気に入っている美術館です。午前十時、私たちが一番乗りで、古い木製の扉を開けて美術館に入りました。受付の係員はもったいぶった態度で、今日が第一日曜で、それゆえに入場料は免除されると話して、チケットを切ってくれました。しかし、無料であるにもかかわらず、見学の人はごくわずかです。私たちは、まず、入口横のグッズを売るショップに入りました。いろいろ買いたいものはありましたが、私は妻に「一角獣と貴婦人」のタペストリーをあしらった蓋付きコーヒーカップ(9ユーロ)を買ってあげました。妻は、なぜか、「猫の歴史」なる本を買っています。

 もはや、馴染みになった部屋から部屋へ巡り歩いて、最後に例の一角獣のタペストリーをじっくり鑑賞しました。「こういう美術館が、家のすぐ近くにあればいいのに」と妻は言いますが、パリの面白いところは、このような古色蒼然とした中世の建物と中世の宝物が、サン・ミッシェル界隈の雑踏のすぐ傍らにあって、しかも少しも超然としていず、日常の生活の中に完全に溶け込んで息づいていることでしょう。

 

 メトロで16区、パレ・ド・トーキョーの近くのイエナ駅へ。地上に出て、すぐ前にあるのが特徴ある丸い建物のギメ東洋美術館です。ここを訪れるのも妻のかねてからの希望でした。クリュニューと比べて、内装はたいへん新しくて明るい。アジアの、地味で重い宝物・図画・骨董の展示ながら、全館を流れる雰囲気は軽さと親しみやすさです。まさにフランス的であり、その館の大きさ、展示物の量も私の好みにぴったり適合しました。

 まず、インド美術。ひきしまった体、豊満な胸、誘惑に満ちたポーズに私も妻も圧倒されました。紀元1世紀から17世紀あたりまでのヒンドゥーの神々の魅惑的な像、色鮮やかな絵画もあります。すべてを貫いているのは深い宗教性で、この中では仏陀の禁欲的な像もやや偽善的にさえ思えてきます。

 カンボジア、タイ、ビルマなどのこれまた興味深い像をみながら、いよいよ中国美術の展示室に入ります。紀元前5世紀から20世紀の清王朝まで、時代のスパンの長さもさることながら、北の匈奴から南の長江流域に至る広範な工芸美術の数々は他に類を見ません。私が嘆賞したのはすばらしい中国陶器の数々です。日本の陶器に比べ、ダイナミックで華麗、しかも瀟洒、小粋な小物の陶器、磁器、漆器も見ていて飽きません。私は脇村義太郎の『趣味の価値』(岩波新書)に書かれているロックフェラー二世のことを思い出しました。ロックフェラー二世は、金融業の故モルガン一世の蒐集品が売りに出されたとき、その中の中国古陶器のコレクションにすっかり魅了されました。しかし、100万ドルという金がどうにも工面できず、思い余って、父親のロックフェラー一世に手紙を書きました。自分は、ヨットや競馬や車のような道楽には興味がない、しかし、この中国古陶器のコレクションはどうしても欲しいから100万ドル貸してくれないか、と。すると、ロックフェラー一世の返事が来て、中国の壷なんかを買うために100万ドルも貸してはやれない、しかしお前がそんなに欲しいなら私が買っておまえに贈ってやろう、と。こうして、一代の蒐集家ロックフェラー二世のコレクションが始まったのです。「ひとつでいいから欲しいんだが、、、」とまた私が願望をつぶやくと、妻はもはや相手にしてくれません。

最後に日本の展示室へ。妻が、日本の煙草箱や印籠を見ていると、白人の男性が香木入れのようなものを指して、「これは何でできているのか」と英語で尋ねてきました。妻が私に答えを聞いてきたので、適当に「木だよ」と答えると、男性は「やっぱり」といった顔でうなずきました。妻は自分が日本人と思われたことにうれしいようです(パリではいつも中国人に間違われるので)。

 

ギメ東洋美術館を出ると、爽やかな五月の風が吹いています。日曜なので人通りがなく、イエナのあたりはたいへん静かです。エッフェル塔がすぐ近くに見え、歩けばほどなく凱旋門にぶつかりそうです。しかし、ぶらぶらしている暇はなく、2時半からのバスチーユでのオペラに行かねばなりません。メトロを乗り継いでバスチーユへ。観劇前に昼食を済ませようと、バスチーユ広場前のカフェをいくつか見て歩きました。ボーマルシュ大通りに入ってすぐ右にあったLe Genieという小さな店を見つけました。夜はバーになるらしく、すでに昼からビールを飲んでいる人もいます。前掛けをした初老の男性二人がカウンターの近くにいて、お客はほとんどここの常連のようです。私たちは、鉄板で焼いた大きなピザトーストのようなものとレンズ豆とオリーブのサラダを食べました。いかにもパリらしい標準以上のおいしさです。これと500mlのワインで20ユーロとは安いものです。

 

オペラ・バスチーユに入るのは初めてです。ここは1990年に開業した新オペラ座で、ガラス張りの丸い現代的な建物です。席は一階の真ん中の一番後ろで50ユーロ(6500円)の席、椅子はゆったりしていて、オペラ・ガルニエとは大違い。やや遠いが、非常に見やすい席でした。私の左隣りに挙動不審の背の高い白人男性が座りました。開演すると、別に面白くないところで笑ったり、突然根拠なく拍手したりします。向う隣りの女性に厳しく注意されると、しばらく頭を抱えてしょんぼりしていましたが、すぐに回復してまた熱心に観はじめました。幕間の休憩時間に、気が付くと、オペラ座の無料の絵葉書を全種類もらって楽しそうに一枚一枚見ています。私もまったく同じに全種類の絵葉書をもらって見ていたので、この男性に何か親近感を覚えました。「あの人は自閉症かも知れないけれど」と後で私は妻に言いました。「オペラが好きで、いつも一人で見に来ているんだろう。いかにもパリらしくて羨ましいじゃないか」

さて、肝心の舞台は、ヴェルディ中期の傑作『仮面舞踏会』です。私は、すでにDVDで見てあらすじを熟知していたので、舞台上の電光掲示板に出るフランス語訳をあまり気にせずにすみました。なかなかの熱演で、クライマックスの仮面舞踏会の場面は非常に盛り上がりました。劇場は音響も雰囲気も申し分なく、オペラ・ガルニエよりも好感が持てるようです。私と妻は、幕間にロビーで3ユーロのエスプレッソを飲みましたが、サービスの男性従業員はそろって白面の美青年です。

観劇が終わって、妻がトイレで行列しているのを玄関のロビーで待っていると、向かいのソファーに老人がすわっています。しきりと二階に続く階段のほうを気にしているのはトイレに行っている奥さんを待っていたのでしょう。やがて、老婦人が階段を降りてきて、二人寄り添いながらオペラ座の外に出て行きました。パリでオペラを見ると、幸せそうな老夫婦の姿を多く目にします。いや夫婦ばかりでなく、レストランやカフェで一人でゆっくりと食事している幸せそうな老人の姿も目立ちます。トイレから戻ってきた妻にコートを渡すと、周りにはもう係員の姿しか見えません。何と最後の客となって、私たちの後ろでゆっくりオペラ・バスチーユの扉が閉じて行きました。

 

まだ6時過ぎなので、メトロ1番線でLes Hallesへ。1番線は観光路線といわれ、バスチーユ、レ・アル、ルーヴル,シャンゼリゼ、凱旋門など右岸の観光スポットを巡っていきます。ストになってもこの路線が止まることはめったになく、いつも混んでいて、車両は軽快な最新型の自動ドアです。しかし、私は、6番線や10番線の車両のようなゴムのタイヤが露出された古い緑色の車両がたまらなく好きで、それに乗ると、パリに来たことを実感するのです。

 さて、レ・アルにあるポンピドゥーセンターの中の国立近代美術館は20世紀の現代絵画を中心に展示していて、実は妻も私も訪れるのは初めてでした。入場料無料の日だからでしょうか、透明のチューブでできたエスカレーターには行列ができています。そこに並ぼうかと思っていると、向こう側に教会の尖塔が見えます。サン・トゥスタッシュ教会に違いなく、51日に忘れた帽子を取り戻しに行くよい機会だと思って、明るいうちに行ってみることにしました。ところが、近くにくると、もう重い鉄の扉は閉ざされています。妻が、確か入口はこっちだったというので裏のほうへ回ると、どうもサン・トゥスタッシュ教会にしては古すぎます。上を見上げると、細い路地に突き出た黒く古色を帯びた恐ろしいガーゴイルたちが見えます。はっと気づいて鞄の中からミシュランの地図を取り出して確かめると、やはり、サン・トゥスタッシュではなく、サン・メリー教会でした。パリでもっとも古い鐘楼を持つ教会、また古式に則った祭式を今でも残している教会でもあります。それにしてもこの教会はすべてが焼け爛れたように古い。昔、ここは娼婦たちが出没する路地が集まっていました。今でも、暗くじめじめした路地は残っています。雨が降ると、道に突き出たガーゴイルの口から雨水がシャワーのように道に降り注ぎ、悪人の盗人の罪あるすべての人々の頭に降り注ぎ汚れた身と心を清めるのです(この教会についてはユイスマンスが詳しく書いています)。ところで、このサン・メリー教会やホテルの近くのサン・セヴラン教会やサン・二コラ・デュ・シャルドネ教会のような古い教会には常に心を揺さぶられる何かがあります。反対に、サン・タントワーヌ聖堂やマドレーヌ寺院やサクレ・クール寺院など、19世紀以降にできた教会には何かこけおどしに似た空虚さがつきまとうのです。

 

 いよいよポンピドゥーの近代美術館の中へ。この美術館はポンピドゥー・センターの4階と5階を占めています。まず、ほとんどの現代絵画が展示されている5階へ上りました。しかし、何という人の多さでしょう。大半は若い人々で、今度の滞在ではあまり見かけなかった日本人も多く見られます。マチス、ボナール、モンドリアン、ピカソ、ダリといった有名な画家の絵を見てまわります。ルオーの「秋」を描いた一連の画には妻も私も感嘆しました。すべての絵が、まわりを枠どるように幼稚な模様で飾られているのです。私自身はマチスに少し驚きましたが、見てまわるうちに妻の具合が悪くなって、ベンチで休んでいました。後で聞くと、シュルレアリスムの作品を見ているうちに気分が悪くなったということでした。確かに、クリュニューやギメの美術品が好きな彼女にとってはエルンストやマグリットは我慢ならなかったのでしょう。妻がベンチにすわっている間、私は妻が唯一見たいといっていたフランシス・ベーコンの絵を探しにいきました。ところが5階中のどこを探してもなく、係員に聞いてもわからないということです。それでは4階にあるだろうと妻と4階に下りてみましたが、ここは写真が主で、絵画は端のほうにあるだけでした。その端の部分にもなく、あきらめてエスカレーターで降りて帰ろうとしたとき、私の視界の端になにやら大きなおぞましい絵が入ってきました。しかし、そこは階段の裏側で、誰も通らないところです。半信半疑でそばに行ってみると、確かにそれはベーコンの絵画でした。画題や作者名を示す一枚のプレートも貼られていません。「何でこんなところに、、、」と私たちは唖然としてその絵を見つめました。

 

 もう夜の九時近くですが、まだ十分明るいのには驚きます。セーヌ川を渡るとすぐにホテルなので歩いて帰ることにしました。サン・メリー教会の近くに、日曜でも開けているスーパーがあったので、ワインとケーキを買いました。妻はまだ食欲が出てこないようです。オテル・ド・ヴィル(市庁舎)の前を通ってアルコール橋をシテ島に渡ります。すると左側にノートルダム大聖堂が見えてきました。薄暮になりかかっていますが、まだ観光客の姿がちらほらしています。ドゥーブル橋を渡って、シテ島から左岸へ行く時、橋の下をおそらく今日最後の遊覧船がゆっくり通り過ぎていきました。観光客はそれでも20名ほど、みな陽気で、私たちに手を振っています。セーヌ川のたもとでは、居酒屋の舟が赤い提灯をつけて夜の商売の準備に余念がありません。

Cluny

福音書によると、イエスは子供のロバにのってエルサレムに入城しました。この可愛らしい像では、イエスよりも凛々しいロバのほうに作者の愛情がこめられているようです。(クリュニュー中世美術館にて)

F_bacon   

一つだけあったフランシス・ベーコンの絵。なぜかプレートは貼られていません。

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2009年6月13日 (土)

パリ再訪(5)ルーヴル、オペラ座のバレエ

5月2日(土)

 朝起きると寝汗をかいています。しかも頭が重く、起き上がると軽く目まいがしました。下痢の後は体全体がおかしくなるので、それと連日の疲労が重なって、かなり体力的に消耗しているのは間違いがありません。妻が仕事のメールをチェックしている間、顔も洗わずに横になっていました。少し落ち着いたところで、朝食をとりに食堂に降りました。いつもはコーヒーを飲むのですが、今朝は紅茶を頼みました。幼い頃のことですが、歯痛や頭痛やお腹が痛かった時など、母に背負われて家の外をしばらく歩くと、不思議なことにコロッと治ってしまうのです。大きくなってからは、具合の悪い時に、紅茶を飲むとなぜか急激に気持ちが納まってくるようになりました。食堂で紅茶を飲みながら、好物の杏のジャムをクロワッサンにつけて食べると、幼年期以来の私の体のあらゆる防衛機構が動き出したように、いつもの朝の気力が蘇ってくるように感じました。

 

 今日はルーヴル美術館の後、オペラ座にバレエを見に行く予定でしたが、その前に土曜日に市を出すモベール・ミューチュアリティの朝市を見ておくことにしました。メトロのモベール・ミューチュアリティの駅までは歩いてすぐです。昨日コンサートを聴きに行ったサン・ジュリアン・ル・ポーヴル教会の横の道からダンテ通りを横切ると、すぐにモベールの市が立っていました。この辺りはパリでももっとも古い街路の残っている地区で、かつてこの地区に住んでいたと思われるダンテも、おそらくサン・ジュリアン・ル・ポーヴル教会を訪ね、モベールの朝市でリンゴやパンを買って歩きながら齧っていたことでしょう。

 妻は、朝市でロースト・チキンを買ってホテルに置いておこうとしたのですが、残念ながら鶏肉の出店はありませんでした。市場としても規模が小さく、あっという間に見終わってしまいましたが、市場の前の鶏肉屋でおいしそうなロースト・チキンを焼いているのをみつけました。ルーヴルを見終わった後、買って帰ろうと考えながらモンジュ通りをカーディナル・ルモワールに向けて歩いていくと、右側にパン屋のカイザーの本店があります。落ち着いた小さな店ですが、パンを買う人の行列ができています。店頭の両側に物乞いの人が座っています。今回のパリ旅行で気づいたことは、ほとんどの物乞いの人が犬を連れているということでした。中には犬といっしょに寝ている物乞いもいて、その犬の可愛らしさがまた哀れを誘います。

 カイザー本店の向かいには、サン・二コラ・デュ・シャルドネ教会の古い尖塔がそびえています。よく知られた教会ですが、もう時間がなくなっていたので、大急ぎで堂内を見ることにしました。入口には、ミニスカート、タンクトップ、半ズボンでの入場お断りの張り紙が。私はパリ旅行ではいつも着古したスーツを着ていくことにしています。教会やオペラやレストランに入るのに便利ですし、古いスーツなら古本屋で本を漁って汚してもベンチでアイス・クリームをこぼしても気になりません。ところで、若い頃、都心の高層ホテルでアルバイトをしていたことがあるのですが、その時アメリカでホテル実務を勉強してきた女性の主任にこんなことを教えられました。あなたがたは、ホテルに滞在する外国人が擦り切れた下着やパジャマを持って来ているのを見て軽蔑するかも知れない、しかし、彼らは合理的なので、古い下着やパジャマを持ってきて、帰るときにはそれを捨てていき、トランクの空いたスペースに土産を入れて帰るのだ、と。私も古い服は捨てて帰りたいといつも思うのですが、貧乏性か、いつも全部持って帰ってしまいます。

 

 いよいよルーヴルへ。今回は、エジプト、ギリシア美術を見る予定でした。ところが、カルーゼルのギャラリーからルーヴルへ入ろうとしたところ、とんでもない行列が。セキュリティ・チェックのためですが、何とかそこを通過しても、今度はチケットを買う行列です。何という人の多さ、しかし無理もありません、パリを訪れる観光客のほとんどがルーヴルを訪れるのですから。

 やっと入れたのですが、私はそこでもう疲れて椅子に座って休んでいました。汗がふき出てきて、持参したミネラルウォーターの瓶はもう空っぽです。やはり、体調がおもわしくなく、ホテルに帰って休みたくなるほどでした。妻は、あらかじめ、ルーヴルの見取り図と見るべき部屋をコピーして持参していたので、私はただ妻の後について歩くことにしました。それにしても、ルーヴルは広すぎて、歩く距離が半端ではありません。私たちは、半地下の中世のルーヴルの遺跡から始めて、シュリー翼1階と2階のエジプト美術を見ていきました。私は、ルーヴルは何度来ても完全に迷うのですが、妻は実にその構造を理解していて、的確に案内してくれます。

 

 ある展示室に入った瞬間に共感の混じった快い感じを抱くことが誰にでもあるでしょう。ルーヴルのエジプト室もそのように私を迎えてくれました。ここに造形された王や王妃や人々の像は、あらゆる時代、地域を通じてもっとも美しいように私には思えます。しかも、それらは信じられないほど古いのです(5000年前のものさえあります)。エジプト人が動物を崇め、神の顔を動物で象ったことはギリシア人を深く驚かせました。しかし、これは何の不思議でもありません。古代エジプト人は、悪しき人間中心主義に陥ることなく、身の回りの多様な世界に神を見たのです。ハゲタカの凛々しさ、猫の気品ある敏捷さ、河馬の豊饒な多産さ、切り取ってもまた生えてくるトカゲの再生力、彼らはこのようなものに神を見たのです。スフィンクスの謎めいた永遠の魅力はその動物の下半身にあるのです。

 すばらしい装飾品の数々を見ていくと、これらのほとんどが墓跡で発見されたことを忘れるのですが、墓と死の世界は古代エジプト人には日常そのものでした。おそらく、ナイル川の年毎の氾濫、太陽と月の規則的な変化という無限に続く自然の営みが、人間もまた死を超えて再生しうるという観念をもたらしたのでしょう。死後の世界をつきつめていく志向は、また生身の生の中への死の際限ない侵食をもたらします。彼らの相貌がみな「永遠の相のもとに見られた」感じを与えるのはそのためでしょう。

 

 つぎに同じシュリー翼のクラシック・ギリシアの展示室へ。彫刻のすばらしいことはもちろんですが、エジプト美術を見た後では、ミロのヴィーナスさえやや見劣りするようです。じっくり見たのは、ギリシア陶器のすばらしいコレクションです。ほんの小さな盃、大きな盃、さまざまな形、そこに描かれる動的で劇的な図柄は見ていてまったく飽きません。そして、最後に、葬祭用の白地レキュトスを含む大小の壺がずらりと並ぶ部屋では、遠いアッティカの人々の暮らしを想像してみることもできました。「一つでいいから欲しいんだが」というと妻は呆れた顔をしています。

 

 体は、もう限界を越えていたので、すぐにメトロでモベール・ミューチュアリティに戻りました。鶏肉屋に行くと、もうロースト・チキンは売り切れていたので、骨付きのローストを二つ買いました。それから、カイザー本店に寄りましたが、ここもほとんど売り切れています。サンドイッチとパン・オ・ショコラを買ってホテルに戻りました。私は、食事を終えると、汗でぐっしょり濡れた下着を取り替えてベッドで眠ることにしました。その間、妻がホテルの近くで買物に行ってくるというので、簡単な地図を描いて渡しました。サン・ミッシェル大通りとサン・ジャック通り、スーパーのフランプリなどの場所を教えて、「ホテルの場所がわからなくなったら、ノートルダム大聖堂の鐘楼に向って歩いてくるんだよ」と言いました。

 

 一眠りしてみると、妻はもう帰っていました。夕方からのオペラ座のバレエへの準備をしなければなりませんが、疲労感が抜けず、なかなかベッドから起き上がれません。妻は「私一人で行ってくるから、ホテルで休んでいたら」と言ってくれますが、終演が夜遅くになるので、帰りが心配です。シャワーを浴びて、身支度を整えると次第に気持ちがしっかりしてきました。ところで、この部屋はバスが付いていず、シャワーだけ(une chambre avec douche)ですが、これは少し後悔しました。ホテルの場所を優先させたので、できるだけ安い部屋にしたのですが、旅行中の疲れはやはり湯船につからないととれません。それに、このシャワーはかなり高い位置にあって、取り外し不可能、下肢のほうまで湯があたりません。また、お湯が出るまで時間がかかり、湯量の調節つまみも実にいい加減です。

 

 さて、開演30分前にオペラ・ガルニエに到着しました。ここでの観劇は二度目ですが、以前は10ユーロの右端のかなり上の席でした。今度は16ユーロ(2000円)のamphitheatre(階段桟敷)という席で、正面の何と一番上です。その席まで上ってみると、横浜球場のアルプススタンドを思わせる高さで、もし前のめりになって椅子から滑ったら、そのまま弾んでバルコニーを越え、一階の観客席の上に落ちてしまいそうです。それを防ぐためか、椅子の座る面はv字型に傾斜しており、さらにひどく浅いので、まともに座るのは普通の大人では無理です。また、足元の余裕もまったく無く、奥に座った人が出るためには列の皆が立たねばなりません。ただし、眺望はすばらしく、オペラグラスがあれば演者の顔の表情もはっきりわかります。

 私たちが席に着いたときは誰もいなかったのに、開演時間になると満席となっています(遅れてくる人もたくさんいます)。席がいっぱいになってくると、前の席の観客の背中と私の足が当たらないようにするのが難しく、絶えず体を入れかえていなければなりません。

 ところで、肝心の演目はというと、これがまったく馴染みのない現代バレエで、三つの独立した舞台から成っています。最初がHark!というバレエで、ただ集団が踊っているだけのもの、二番目がWhite Darknessという題で、どうも麻薬中毒の人間の幻想を描いたらしいもの、最後がceci est mon corpsというもので、解説によるとマルコ福音書からインスパイアーされたもののようです。ダンサーの完璧に近い体、基本が叩き込まれた無駄のない動き、優雅で先鋭な身のこなし、、、などはすばらしいと思えるものの、踊りの意味がまるでわからないのですぐに退屈してきました。ところが、一つの踊りが終わるごとに場内はたいへんな拍手、私の前に座っていた三人連れの若い女性などはダンサーの名前を熟知していて賞賛の言葉を交わしています。まわりの観客もよくバレエを知っている人が多いらしく、ダンサーが紹介されるごとに熱狂的な拍手が鳴ります。「ぼくにはまったくわからないのだが」と私は妻に言いました。「このような難しい踊りを味わい、かつ楽しむことのできる文化的素養というのはぼくらが思っている以上に深いのかも知れないね」。クラシック・バレエの好きな妻でもこの現代バレエは理解不能で途中で退屈したということでした。

 

 もう夜遅いのに、オペラ・ガルニエの外に出ると薄暮のように明るさが残っています。私たちは、クリュニュー・ソルボンヌまで地下鉄で帰り、まだ開いている食料品店を見つけてぺリエやお菓子を買い込んでホテルに帰りました。私の気分はかなりよくなってきています。


Neko

ルーヴルのエジプト展示室に飾られた猫の像。猫は友人であると同時に崇拝の対象でもありました。猫の額の上に付けられた青いスカラベは彼らが神であることを表しています。

Opera

オペラ・ガルニエでの休憩時間。妻が立っているところは三階の階段横のバルコニー。

 

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2009年6月 3日 (水)

パリ再訪(4)ベルヴィル

51日(金)

 花、花、すずらんの白い花、51日、パリでは愛する人にすずらん(muguet)を贈る日です。どこの街角でも、少女や婦人や年寄りや中年の男性まで、卓を出し、あるいは花束を抱えて、道行く人々にすずらんを売っています。5ユーロから10ユーロで、人々はすずらんを買って贈ります。女性は手で持ったり、胸に着けたり、男性は帽子につけたり、耳にはさんだり、胸ポケットに差し込んだりしています。 

 ベルヴィルには私一人で行くつもりでした。妻はおそらく一人で買物にでも行くだろうと思ったのです。しかし、やはり一緒に行くことになって、私の中には一抹の不安がよぎります。というのも、一昨日、パッシーを訪れた時、裕福な人々が住むその華やかな通りを妻がたいへん気に入っていたからです。華やかな中にも生活の匂いがして、人々が活き活きと行き交い、子供さえもすまして化粧しています。そんな西の街パッシーに対して、東のベルヴィルはその正反対の移民と低所得労働者の町です。妻がこんな町を気に入るわけがありません。

 

 シャトレ駅でメトロ11番線に乗り換えてベルヴィル駅へ。地上に出ると、そこはベルヴィルの交差点で、ちょうど10,11,19,20区の交わるところにあるのです。西のベルヴィル通り(Rue de Belleville)はベルヴィル墓地を通ってポルト・デ・リラまで続き、南に伸びるベルヴィル大通り(Boulevard de Belleville)はペール・ラシェーズ墓地にぶつかります。

 今日は金曜日でベルヴィル大通りには市が立っています。何と人の多いことでしょう。皆、食料品や日用品の買出しに来ています。白人、アラブ人、黒人、アジア人、彼らは皆庶民の顔をしています。観光客など一人も見えません。地下鉄出口のすぐ横から市場は始まっています。野菜、果物、魚、肉、パンなどの食料品、しかし、ここではラスパイユやグルネルの市場のようには整然と並べられてはいません。雑然と積み上げられているのも多く、値段も安い、そして、売り手の男たちの高い声が響きあってうるさいほどです。歩くのもたいへんで、正月の浅草仲見世のごとく押し合いしながら前へ進みます。面白いのは、時計やベルトや洋服や小道具・おもちゃなどを売っている店で、かなりいかがわしいものが並んでいて、思わず手にとってみずにはいられません。背の低い老人が私のバッグの開いたポケットを指差して、「気をつけないと盗まれちゃうよ、ムッシュー」と親切にも注意してくれました。

 私は、東京の下町の縁日の人込みや商店街の雑踏に慣れて育ったので、ベルヴィルの市場のような気取らない、騒々しい、怪しげな露店を見て歩くのが好きなのです。市場の外れまでゆっくり見て歩きたかったのですが、妻は明らかにこの雰囲気に圧倒されて早く市場から抜け出したがっているようです。しかたなく、ベルヴィル大通りの歩道に出て、1ユーロ均一の店が立ち並ぶ通りを見て歩きました。

 

 やはり、一人でくればよかったかなと思いながら、ベルヴィル大通りから東に曲がり、すぐ近くのベルヴィル公園を目指します。静かな坂道を上っていくと、中国人の親子がふざけながら坂を下りてきました。母親と二人の子供、パリでこんな楽しそうな中国人を見たのははじめてです。そういえば、このあたりは中国系の住人が多そうなのが、窓から干してある洗濯物でわかります(パリでは外に干してはいけないのですが)。ベルヴィル公園の入口に来ました。この広くない公園は、ひたすら階段で上へ上へと登ります。頂上に展望台らしきものがあって、そこからパリの景色を一望できます。やや霞んだ空の中に、エッフェル塔、モンパルナス・タワー、サクレ・クール寺院などがそびえるように立っています。ベルヴィルは、その昔、ポワトロンヴィルという村でした。しかし、その頃から、みな、ここをベルヴィルと呼んでいたのです。Belle Villeとは美しい町という意味ですが、実はBelle Villeとはパリのことなのです。かつて、ここはパリ市ではなく、市外のさびしい村でした。東から来た旅人が、この丘からはじめてパリの市内を遠望したとき、Belle Ville!「なんて美しい町だろう!」と叫んだことが町の名の由来のようです。

 

 ベルヴィル公園を出て、北へ向って歩きベルヴィル通りへ降りて行きます。この近くのヴィレット通りでは、ベルヴィルの生んだ二人の天才の一人、画家のジョルジュ・ルオーが生まれています(もう一人はエディット・ピアフ)。ルオーの父親は、プレイエルの工場でピアノの塗付けの仕事をしていました。ルオーは、この父親から職人の仕事にたいする敬意を受け継いだのです。家族は、近くのサン・ジャン・バプティスト教会に通う熱心なカトリック教徒でした。少年ルオーはサン・ミッシェル広場近くのサン・セブラン教会のステンドグラスの修復をすることでそのキャリアをはじめています。

 ベルヴィル通りを上っていきます。小さなクレープ屋やコインランドリーや狭い食料品店が並びます。パリのどこにでもある活気ある洒落たカフェーなどはなかなか見つかりません。小さなカウンターとスチールの椅子がある薄暗いカフェーで、人々は朝からビールを飲んだり、ハムや野菜をはさんだパンを食べています。通りのそこかしこに場末の匂いが漂います。おそらく、ベルヴィルのもっとも賑やかな時代はもう終わってしまったのでしょう。 20世紀の初頭、ここには製靴工場や織物工場などが並び、女子工員があふれ、それを狙った男たちがカフェーやレストランにたむろし、週末には映画館、ダンスホールが満員になったのです。また、近くのサン・マルタン運河やサン・ドニ運河で荷揚げをする労働者たちも集まってきました。低所得者たちの小住宅や集合住宅がならび、子供たちがそこかしこで遊び、広場には何と観覧車も回っていたのです。そして、ベルヴィル名物の急坂を登るために、今モンマルトルにあるようなケーブルカー(funiculair)が、レピュブリック広場からサン・ジャン・バプティスト教会を結んでいました。

 

 しかし、ベルヴィルはまもなく移民の波にのみ込まれます。とくにアジア人、ユダヤ人(マレ地区のユダヤ人がスペイン系なのに対してベルヴィルのユダヤ人は東欧系)、アラブ、アフリカの人たちが集まり、ベルヴィルの様相は変わっていくのです。

 ベルヴィルが、いわば根無し草のような労働者の町になり、今、移民の町になっている理由は、おそらく、パリという町の閉鎖性にあるのでしょう。パリというとボヘミアンたちの町という側面が強調されますが、パリには、生まれた地域で育ち生涯そこから離れない人がたくさんいます。なぜか?パリ以上の町など世界中どこにもないからです。そして、地方からパリに流入してきた人々はそれぞれの地域のコミュニュティで強固な連帯の絆を作り上げます。たとえば、私たちが前回滞在したモット・ピケ・グルネルのある15区はブルターニュ出身者の作り上げたコミュニュティが根幹になっているといわれますが、黒人やアラブ人が極端に少ないのはそのためでしょう。実は、ベルヴィルにも古い住民がいて、その特徴は反政府的ということです。共産党のもっとも活動的な支部はベルヴィルにあったし、1870年のパリ・コミューンでは激しい戦いがベルヴィルとその隣の町メニルモンタンで戦われました。(敗れた国民軍の兵士はペール・ラシェーズの塀の前で銃殺されました)このベルヴィルのインターナショナルな性格が、他の町と比べて、移民や工場労働者を受け入れやすかったのかもしれません。

 

 ベルヴィル通りからシモン・ボリヴァル通りに入って、ビュット・ショーモン公園を目指します。私たちの前を、乳母車を押しながら子供を二人連れている白人の男性が歩いていました。おそらく、祭日なので、子供たちをビュット・ショーモン公園で遊ばせようとしているのでしょう。私たちが、後をついていくと、案の定、公園の入口までやってきました。

 ここは、間違いなくパリでもっとも美しい公園です。もともとは、浄水場とゴミ捨て場だった広大な土地を1867年、ナポレオン三世が、気鋭の造園家バリレ・デシャンと建築家ダヴュー、そしてベルグラード出身のエンジニア、ジャン・シャルル・アルファンに命じて見事な公園に変身させたのです。彼らは自然の起伏をうまく利用して、山あり谷ありの道を作り、運河から水を引いて大きな池を作り、小島を作り、滝を落とし、大木をめぐらせ、小鳥や水鳥が集う楽園に作り上げました。完璧に計算された公園でありながら、自然をそのまま残したような素朴さと興趣に満ちています。

 祭日なので、広い公園のあちこちに人の姿が見えます。ダンスをしたり、大道芸の練習をしたり、寝そべったり、私たちの前を歩いていた親子も、芝生の上でお弁当を広げて食べ始めました。人々の顔は何と楽しげな明るい顔に輝いているのでしょう。子供たちは思う存分走りまわり、親たちは人生の束の間の休息を楽しんでいます。ベルヴィルの坂を何とか上ってきた妻も、この解放的な自然の明るい気分にすっかり魅惑されたようです。

 

 ビュット・ショーモン駅からメトロでレ・アルまで。モントルグイユの市で食物を買おうとしたのですが、もう市は店じまいした様子です。ここもサン・ミッシェル界隈と同じくレストランが乱立していて観光客がいっぱいです。通りのそこかしこにすずらんの花を売る人が立っています。私たちは、パリ最古のパティスリーとして知られるストレールで、ほうれん草のキッシュとチョコレート・エクレアを買いました。とても暑いので、近くのサン・トゥスタッシュ教会に入って椅子にすわり涼んでいたのですが、何と私はそこの椅子に帽子を忘れてしまいました。ホテルに帰る地下鉄の中で気づいた時はすでに遅く、取りに帰る気力もありません。「パリで帽子を買って帰ろうよ」と妻は慰めてくれましたが、私がトランクから予備の帽子を取り出すのを見て驚きました。

 ホテルで、ストレールで買ったキッシュとエクレアを食べました。キッシュはまあまあですが、エクレアは繊細すぎて物足りません(私はエクレアにはいつも過大なものを要求します)。着替えてから、金曜9時半まで開いているルーブル美術館に行こうとホテルを出ました。天気が良いので、ブキニストをひやかしながら、セーヌ河畔をルーブルまで歩いていくことにしました。夕方のさわやかな風が吹いています。セーヌ河畔は、恋人同士、若者同士、観光客の群れでいっぱいでした。今回の滞在ではなぜか日本人とほとんどすれ違いません。セーヌ川をゆっくり走るバトー・パリジャンはいつものように観光客で鈴なりです。こんな光景を見ると、世界がインフルエンザの蔓延に緊張していることが嘘のようです。

 

 ルーブルに着き、先っぽのライオン門から入ろうとしたら、何と51日は休館日でした。ガクっと膝から崩れ、疲れがどっと出たようで、今日これからどうしようか途方に暮れました。ゆっくりとレストランで夕食をたべようかと思いましたが、キッシュが腹にもたれて食欲が湧きません。そのとき、妻が、ホテルの近くで見たチラシのことを思い出しました。実は、今朝、ベルヴィルに行くためホテルを出ると、すぐ横の壁に教会でのコンサートのチラシが貼ってあったのです。サン・ジュリアン・ル・ポーヴル教会はホテルのすぐ近くにあって、そこで夜8時半から「アヴェ・マリア」と題して歌とピアノ演奏があるのです。料金は18ユーロと23ユーロで、決して安くはないので、どうしようか迷っていると、浮浪者のような身なりの中年男性が汚い手押しのカートを引いてきて、その中から「Ce Soir!(いよいよ今夜!)」と書いた紙を取り出し、チラシの上に貼りました。私たちがチラシを見て考えていると、「今夜だよ、とてもいいからぜひ来なさい」というのです。妻が丁寧に「ジュ、レフレシーレ(考えてみます)」というと、チラシの電話番号を指差し、「電話すれば確実に席がとれるよ」と教えてくれました。今、そのことを思い出して、ルーブルが閉まっているのなら、そこに行こうと私たちは決めました。しかし、まだ席は残っているでしょうか。私たちは急いで地下鉄でサン・ミッシェルまで帰り、ホテルに寄らず、まっすぐサン・ジュリアン・ル・ポーヴル教会に行ってみました。教会の前で神父がチケットを売っていたので、私たちは安いほうの18ユーロ(2350円)の券を2枚買いました。神父の話では18ユーロの席は側廊で23ユーロの席は真ん中だそうです。

 

 まだ時間があったので、いったんホテルに帰り、着替えてから開演30分前にホテルを出ました。サン・ミッシェル界隈の雑踏を抜けて、サン・ジャック通りを渡るとそこにサン・ジュリアン・ル・ポーヴル教会(Eglise Saint-Julien-le-Pauvre)があります。おそらく、私がパリで見たもっとも小さな教会でしょう。ロマネスク様式の低い愛らしい建物です。中に入ってみると、受付に、今朝チラシを貼っていた中年のおじさんがいて、今夜のプログラムを売っていました。私たちの顔を覚えていて、「ボンソワール」と笑いながら挨拶してくれました。私が3ユーロのプログラムを買うと、おじさんは私が渡した18ユーロのチケットを見て、いたずらっ子のように目くばせしながら、23ユーロの席を指差しました。おそらく、遠い日本から来た観光客だと思ってサービスしてくれたのでしょう。私たちは小さな声でメルシーと言って、好意を素直に受け、真ん中の席にすわってしまいました。

 

プログラムによると、この教会は12世紀に出来たパリ最古の教会だそうです。そういえば、かなり古く、どこかロシア正教の雰囲気もあって、スペインの古い小さな教会を思わせます。教会の名の由来は304年にローマで殉教した聖ジュリアンと、中世の「貧者Pauvre」といわれた聖ジュリアンSaint Julien l’Hospitalierに由来するそうです。後者の聖ジュリアンは、あのフロベールの『三つの物語』の中の「聖ジュリアン伝」の主人公その人です。領主の子でありながら、逃れられない忌まわしい罪を犯したジュリアンは、その罪ゆえに、人々に蔑まれ、遠ざけられ、唾を吐かれながら、各地を放浪していきます。あるとき、ジュリアンは渡し守のいない川にぶつかりました。彼は、朽ちていた舟を修理し、川辺にみすぼらしい家を建て、人々のために無償で渡し守の苦役をつとめます。嵐の夜に、彼が小屋で休んでいると、闇の奥から誰かが自分の名を呼んでいるのに気づきます。外に出ると、向こう岸に船を待つ男の姿が見えました。ジュリアンが対岸に着いてみると、その男は全身らい病に覆われ、かさぶたからは膿が吹き出ています。ジュリアンはその男を舟に乗せて渡し、小屋に入れて焚火にあたらせます。「寒くてたまらないから、お前の体でわたしを暖めてくれ」と男は言いました。ジュリアンは着物を脱ぐと、裸の胸を男の膿だらけの胸に重ね、病で崩れた顔をしっかりと抱きしめ、爛れた唇に唇を押し当てます。瞬間、小屋は光に満たされ、男は輝くイエス・キリストに変身し、ジュリアンをやさしく抱き返すのです、、。

 

祭壇の前にはスタインウェイのグランドピアノが置かれています。時間になって、歌手と演奏者が登場しました。黒いドレスを着て登場したのは、オペラ座以下フランスの各劇場で活躍しているソプラノのエドヴィジェ・ブルディー、ピアニストはフィリップ・アレグレという人で、二人はともにトゥールーズ音楽院を卒業しています。

まず、ペルゴレージのSe tu m’amiからはじまって、アヴェ・マリアを含むシューベルトの曲が三つ、さらにグノー、カッシーニのアヴェ・マリア、ヘンデルのヨシアなどが歌われました。とくに、シューベルトはすばらしく、そのセレナーデには深く感動しました。その後、ショパンの嬰ハ単調のノクターンが弾かれ第一部が終了しました。妻は狭い教会堂の中に響き渡る美しい歌声にすっかり魅了されていました。パリでは、このような教会コンサートがほぼ毎日どこかで開催されているのです。

第二部は、アメイジング・グレイスなどの黒人霊歌やイタリア・オペレッタの歌が続き、夜10時頃終演しました。終わりの挨拶に出てきたのは、何と私たちを23ユーロの席にすわらせてくれた受付のおじさんで、彼がこのコンサートの主催者のようです。妻も私も満足して教会を後にしました。今日は失敗が続いたけれど、最後は気持ちよく眠りにつけそうです。

夜のサン・ミッシェル界隈は混雑をきわめていました。レストランで食べるほどお腹は空いていないので、チュニジアの菓子店でクレープを買うことにしました(私はこの菓子店が気に入ってしまったのです)。髭を生やした菓子店の主人は白衣を着ているのですが、パティシェというより肉屋に見えるのがおかしいのです。チーズ・クレープを頼んだのですが、フランスのクレープは日本のよりも厚く、しかもチーズをこれでもかというほど大量に挟みます。ホテルに帰って、ペリエを飲みながら二人で半分ずつ食べて、それでお腹いっぱいになりました。

 

Bellevillemetro
メトロのベルヴィル駅を出たところ。すぐ右から市場がはじまっています。向かいの建物群は古き良きベルヴィルをしのばせる雰囲気があります。

8ahuit
ビュット・ショーモン公園の前ですずらんの花を売る子供。私がもしベルヴィルに生まれていたら、やはり小遣い稼ぎに花売りの手伝いをしたでしょう。

 

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2009年5月30日 (土)

パリ再訪(3)ランス

430日(木)

 朝早く起きて、食堂に一番乗りしました。エレベーターは直ったのですが、旧式で狭く、扉を開けて乗り込むと、大人が二人やっと入れる窮屈さです。昨日は、下痢で体力を消耗したので、食堂に積んであったバナナやオレンジを食べてビタミンを補給しました。

 サン・ミッシェル駅からメトロ4番線で行くと、東駅(Gare de l’Est)までは、あっという間です。857分発のランス(Reims)行きTGVは、まだ入線もしていません。別にランスに用事があるわけではなく、フランス三大聖堂の所在地であるアミアンかシャルトルかランスのどれかに行こうと思っていたら、妻がTGVに乗りたいというので、TGVの走っているランスにしたのです。切符はあらかじめSNCF(フランス国鉄)のサイトで一番安い(出発日、時間で運賃が変わります)ものを買いました。二等で片道一人12ユーロ(1500円)です。出発20分前になって、やっと電光掲示板に私たちの乗る列車が表示されました。27番ホームというので、駅の端まで歩きました。二等は列車の先頭なので、さらにホームの先っぽまでひたすら歩きます。二等車の中は、非常に明るく軽快で、マクドナルドの店内を連想させました。しかし、乗り心地は悪くなく、長時間でなければ快適に過ごせそうです。出発直前に、男二人と女一人の機関銃装備の警備隊が乗り込んできて、私たちの前のボックスに陣取りました。「あの人たちがいると安心ね」と妻は言いますが、私は目が合うたびにテロリストに間違われているのかと思って落ち着きません。

 

 パリ郊外の住宅地が窓外に去ると、フランス特有の農村風景が広がります。なだらかな小麦畑が続き、山はまったく見えません。ノンストップ、一時間足らずでランス駅へ到着しました。ランス駅は、日本の地方都市の駅とよく似た感じで、駅前はまったく何もありません。しばらく歩いても、朝早いからか、人気はなく、ただカフェの店員が通りに椅子を並べているのが見えるだけです。旅行案内所で地図をもらって、たぶんこっちの方角だろうと適当に歩いていくと、いきなりランスの大聖堂(Cathedral Notre-Dame)が姿を現しました。

 私たちは二人とも、まさに息をのんで大聖堂を見上げました。まるで異世界から舞い降りたように、巨大であって繊細、古色を帯びながら輝いています。妻もしばらくの間ぼう然として見つめています。それから双眼鏡を出して、これまた見事な彫刻群を一つ一つ嘆賞していきました。有名な諸王のギャラリーや今やle sourire de L’Europeとして統一ヨーロッパのシンボルの一つともなっている微笑の天使の像もあります。パリのノートルダムが建築とすれば、ランスの大聖堂は彫刻ともいってよいでしょう。恐ろしいガーゴイル、それを踏みつける諸聖人、牛や猪などの動物の像もあります。

 内陣に入ってみましょう。エミール・マールが言うように、大聖堂は人々にとって聖書そのものです。きらびやかなステンドグラスが語りかけるものは幼い時に両親から聞いた旧約の物語、そしてマリアやイエスのお話です。高い天蓋、オルガンの厳かな調べ、燭台の上の蝋燭、ここに差し込んでくる光はどこか別世界から降りてくるような色合いを持っています。内陣を奥に進んでいくと、剣を垂直に持ったジャンヌ・ダルクの像があります。彼女は苦難を克服して、ここランスでシャルル七世の戴冠を実現したのです。真ん中の奥には、シャガールのステンドグラスが異彩を放っています。妻はこれをたいへん気に入って、堂内の土産物屋で、ステンドグラスの絵葉書を買っていました。

 

 大聖堂を見ただけで疲れてしまいました。お腹がすいたので、とりあえず昼食をとることにしましたが、レストランが林立していて、どこにするか迷います。あれこれ見て、一番安い日替わり定食(Plat du Jour)の店にしましたが、何と定食は牛のレバーで、これは妻の苦手なメニューです。店頭の黒板で読んでいたのですが、あれこれ店を物色しているうちに勘違いしてしまったようです。二人とも、相手に頼って、しっかり考えないからで、こんな旅行初心者のする間違いをしてしまって、お互いにショックでした。もうパリに帰りたくなりましたが、まだ帰りの列車にはかなり時間があります。一キロほど離れた世界遺産のサン・レミ大聖堂に行くことにして、午後の熱い陽射しの中を歩き始めました。中心部を離れるにつれて、フランス地方都市のけだるさが漂います。眠そうな静けさ。歩いている人は誰もいません。車さえ走っていません。古い街並みもありますが、パリと違って、一日で退屈しそうな風景です。やはり、パリの活き活きした街頭、歴史と新しさ、知的であり軽薄であり、何もかもが混在している街が私たちは好きなんだろうと思いました。

 サン・レミ大聖堂(Basilique Saint-Remi)は、すばらしく大きな聖堂で、フランスで最も古いステンドグラスもあります。しかし、ランスの大聖堂を堪能した後では、気の抜けたシャンパンを飲んだようで感激がありません。そういえば、ランスといえば「大聖堂とシャンパンの町」といわれるようにたくさんのカーブがありますが、私がお腹をこわしてアルコールを控えているので、カーブの見学はしませんでした。ワインの試飲はいつもひどく酔っ払うのです。

 

 また、とぼとぼとランスの中心街まで戻ってきました。どうやって時間をつぶそうかと案内所でもらった地図を見ていると、大聖堂の近くに、ヴェルグ―ル館(Hotel le Vergeur)という博物館らしきものがあるようです。行ってみると、かなり古そうな大きな館で、入り口は何の変哲もない鉄の扉です。入ろうかどうか迷っていると、昼食休憩から戻ってきた女性の館員が、「どうぞどうぞ」と扉を開けて入れてくれました。入ってみると、すぐ受付で、入館料はガイド・ツアー付で4ユーロということでした。私がお金を払うと、先ほど扉を開けてくれた若い館員が、ピチッと直立して、「これからガイド・ツアーをはじめます」と宣言しました。後ろを振り向いても誰もいません。ツアーは私たち二人だけのようで、まず、古い建物に囲まれた中庭に案内されました。

 最初に、フランス語と英語のどちらで話せばよいかと尋ねられたので、妻は、「メランジェ(両方混ぜて)で」などと答えています。「オーケー」と館員は答えたものの、英語はそれだけで、あとは最初から最後までフランス語の解説が続きました。さて、中庭はそんなに広くないのですが、古色を帯びた建物と、木々と、壊された防壁が残っています。まず、建物の柱の説明から入りました。コリント式やイオニア式などの柱頭の様式は、旅行前にあらかじめ勉強してきたので、下から上へと変化していくセオリーはよくわかりました。ただ、ルーブル宮のようにセオリー通りでないのは、このヴェルグール館が長い時代(12世紀から)の間につぎはぎだらけの修復と付け足しがなされたからだそうです。庭の中には、戦争で爆撃された礼拝堂の廃墟も残っており、これはわざと修復せずに残してあるということでした。

 若い館員の説明はたいへん熱心で、身ぶり手振りを交え、感情をこめて話します。時々、こちらに質問してくるので、聞き逃さないよう妻も私も必死です。しかし、熱が入ると早口になるので、何を言っているのかわかりません。庭の奥にある由緒あるレバノン杉についての説明ははじめから終わりまで全く理解不能でした(地面を大量の毛虫がはっていたので気を取られて)。

 

 中庭の説明が終わったのでほっとして入り口に戻ると、フランスの老婦人らしい二人の観光客が待っていて、館内のツアーは四人となりました。まず、階段を上って二階へ行きます。踊り場や廊下に、各時代の所有者たちが集めた絵画や彫刻のコレクションが並んでいます。ランスの有志が寄贈したデューラーの版画「ヨハネの黙示録」もあります。「ルイ十五世の間」や「ナポレオン三世の間」などはとびきり上等の調度品で飾られていました。聞き手が四人に増えたので、館員の説明はさらに熱を帯びてきました。注目すべきは二人の老婦人の相槌の絶妙さです。「アー、セ・ヴレ」とか「ウイ、セ・サ」ばかりでなく、「そういえば、私の町にも、、」とか「○○宮殿にもあったわ」とか、「まあ、あの王妃の」などと、タイミングよく話し手を鼓舞するのです。館員も、もっぱら、話しがいのある二人に向けて話し始めたので、私たちは少し緊張感がほぐれました。ところが、Krafftという20世紀初頭にこの屋敷の所有者だった商人が、日本から持ち帰った刀や人形や掛け軸を展示してある部屋に入ると、いっせいに私たちに質問が集中しました。

 三階には、地方の上流階級の生活がありのままに残されている部屋が続いています。トイレに使われた狭い部屋、大勢が会食できる食堂、さらに驚くのは食堂に続く調理場です。多くの鍋やフライパンがずらりと磨かれて壁にかかっています。寒い時に調理場でスカートの下から暖める小さな暖房具もあります。すごいのは、大きな棚を開いてずらりと出てくる皿、ポット、茶碗などの豪華さです。同じ紋章がついてこれだけ揃って残されているのはフランス全土でもここしかないということでした。ツアーが終わって出口から帰るとき、私が館員に感謝の言葉を述べると、その言葉があまりに大袈裟だったのか、彼女はぱっと明るい顔をして口を開けて笑いました。

 

 かなり疲れて駅にたどりつきました。パリ行きの列車まで、少し時間があったので、自動販売機でOranginaという炭酸入りジュースを買って飲みました(おいしかったので、パリでも何度か飲みました)。最近、メトロの駅でもボトルの自動販売機が設置されていますが、一本2ユーロ(260円)は少し高いようです。

 帰りのTGVは一等で一人17ユーロ(2200円)です。この前後の時間のTGVは、なぜか24ユーロに跳ね上がっていました。座席は日本の新幹線のグリーン車とよく似ていて、すっぽり体が漬かるグレーのシートです。二人とも疲れていたので、すぐ寝ようと思いましたが、前の座席の二人の幼児がうるさくてなかなか眠れません。やっと眠りかけたら車掌が検札に来ました。日本でプリントアウトした切符を渡すと、パスポートを見せろと言ってきます。シャツの下から出すのに手間取って、すっかり眠気も覚めてしまいました。

 

 ホテルに帰ってもすぐ休んだわけではありません。シャワーを浴びて、こざっぱりしてから、ホテルのすぐ近くにあるはずのシェイクスピア・アンド・カンパニー書店に行ってみることにしました。探すのに手間取ったのは、書店のあるビュシェリー通りが小さな公園で分断されていたからで、見つけてみると、なんとセーヌ川に面して、ノートルダム寺院の向かいにありました。ここは、シルヴィア・ビーチの有名な同名の書店とは何の関係もないようですが、なぜか観光スポットになっています。私たちが行ったときも中国人家族が見学に来ていたので驚きました。主に、英米の文学書がいかにもスノッブに並べられています。妻は奥に入っていろいろ探していましたが、私は外に出ているバーゲンの棚をあまり興味を持たず物色することにしました。フォークナー、ヘミングウェイ以下有名どころが並び、カポーティやオースターなどのペーパーバックもあります。『ヘンリー・アダムスの教育』の縮刷版を5ユーロで見つけたので買おうかどうか迷いました。汚れていたので買わずに帰りましたが、後日また行ってみると、なぜかすでに失くなっていました。

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ヴェルグール館の正面。左下が入口の扉。館内は撮影禁止でした。


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中庭で熱心に説明してくれる館員の女性。妻にとっては格好のフランス語個人授業となりました。

 

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2009年5月26日 (火)

パリ再訪(2)パッシーのピアノ工房

429日(水)

 一番、気がかりだったことは、むろんメキシコで発生したブタ・インフルエンザです。出発の時点では、メキシコとアメリカ、カナダにしか患者は出ていず、ただメキシコでの致死率が高いことから現在よりかえって不気味であり、どのように変異していくかわからない不安もありました。ヨーロッパでの大発生も考えられ、旅行の中止も考えてみました。ホテルはキャンセル可ですが、航空運賃は前払いしてあり、キャンセル料が発生します。他にオペラ、バレー、列車のチケットはもはやキャンセルできません。この時期を逃がすと来年のGWまで待たねばならず、予定通り、決行することにしました。結果的には、イギリス、スペインでは患者が発生したものの、フランスでは帰国の日にパリで二人患者が出ただけで無事に帰ることができました。526日現在のフィガロ紙にはgrippe(インフルエンザ)の文字は一面から完全に姿を消しています。予防としては、成田空港とシャルル・ドゴール空港ではマスクをしましたが、パリ滞在中はマスクはしませんでした。結果がよかったからよいというわけではなく、中止の選択肢もあり得たと思いますが、しかし、このぐらいのリスクは海外旅行にはつきものでしょう。

 

ぐっすり寝たら二人とも旅の疲れはどこかに飛んでしまいました。シャワーを浴びて(予算的にバスはついていません)朝食を食べにホテルの食堂に行きました。まだ、エレベーターは止まっているので、螺旋階段をぐるぐる降りてくると、途中の階段のカーペットの上に、こげ茶の子猫がすわっています。「待って、カメラを取ってくる」といって、妻は部屋に戻っていきました。子猫はおとなしく、クリクリした目で私を見ています。写真を写してから、妻はそっと猫の背中を撫でました。むろん、家に残してきたルーミーのことを思い出したのです。身内に世話してもらっているので安心とはいえ、淋しがりやの猫なので胸が痛みます。

 食堂は一階にあって、もう外人観光客が半分ほどテーブルを埋めています。私たちがキョロキョロしていると、家族で来ていたドイツ人の男性が、引き出しの中にフォークとナイフがあるよ、と教えてくれました。その男性の娘らしい金髪の小さな女の子は、食堂の床に寝そべって、おそらくクリュニュー中世美術館で買ってもらったお姫様と騎士の人形で遊んでいます。

 私たちが卵とハムを食べていると、黒人の女性がコーヒーとパンを持ってきてくれました。朝のコーヒーは実はそのホテルの内実を表すものですが、このコーヒーは格別のうまさでした。ホテルを選ぶのは、いつも妻の役割で、今回もホテル紹介のサイトで、世界中から寄せられている口コミ情報を分析してここを決めたとのことです。今はグーグルのストリートビューで付近の映像も見えるので、まず当て外れということもありません。

 食堂の壁には、古いホテルの写真がたくさん飾ってあって、パリ解放の日の写真ではホテルの前に戦車が止まりアメリカ軍の兵士と街の人たちが笑って写っています。私は、古いパリの写真を見るのがとても好きなので、食堂へ降りてくるたびにこれらの古い写真を見て飽きませんでした。ホテルの近くの、サン・セヴラン教会やサン・ニコラ・デ・シャルドネ教会、川向こうに見えるノートルダム大聖堂、サン・ジャック通りの人通り、セーヌ川にかかるサン・ミッシェル橋など、モノクロの写真はすべて味があります。

 

 さて、もう一度部屋に戻ってから身支度を整え、いよいよ朝のパリの街に繰り出しました。今日の行き先はパッシーのピアノ工房です。すぐ近くのクリュニュー・ラ・ソルボンヌ駅からメトロ10番線でミッシェル・アンジュ・オートゥイユ駅へ、そこで9番線に乗り換えて、ラ・ミュエットで降りました。ここは16区の高級住宅地です。駅を出るとすぐそこはパッシー通りで、華やかで活気のある商店街が続いています。約束の10時半までまだ少し時間があったので、パッシー・プラザというショッピング・ビルに入って時間を潰すことにしました。そこには、ZARAH&MGAPの出店があります。妻が、H&Mで髪飾りを買っているうちに時間になったので、私たちはパッシー・プラザのすぐ横を入ったところにあるピアノ工房を訪れました。

 

 バルロン・ピアノ修復工房(Pianos Balleron)は女性ばかり三人で古いピアノの修復をしています。その一人、日本人のOさんは、翌日の日本への休暇帰国を控えて、忙しい中、わざわざ私たちのために時間を割いてくれました。日本人の夫とパリ郊外で暮らすOさんは、日本での調律・修復の修業を経て、いまここパリで、古いピアノの魅力に囚われながら仕事をしています。とても控えめながら熱心に仕事の説明や古いピアノの良さを教えてくれて、工房の部屋をすべて案内してくれた後で、自らピアノを弾いてその美しい音色を聞かせてくれました。「ちょっと片付けなければいけない仕事が残っていますので、よかったらピアノをお好きなように弾いてみて下さい」といって、作業場に戻ったので、妻は歴史の中から蘇ったプレイエルやガヴォーを存分に弾くことができました。

 ここで、Oさんからきいた話を要約してみます。修復しているピアノは、主に、1885年から1940年にかけてのフランスのピアノメーカー(プレイエルPleyel、ガヴォーGaveau、エラールErard)のもの。年代を限っている理由は、1885年以前は近代ピアノの構造が確立していず、1940年以降では戦後の大量生産でピアノ全体の質が落ちているからだそうです。戦前のピアノ製作者たちは情熱を傾けてピアノを作り、それぞれ個性的な名品を世に出していた。しかし、大量生産、大量消費の時代には、欠点のない、どれも似たり寄ったりのピアノができ上がる。ガヴォー、エラールはすでに会社自体がなくなっていて、プレイエルもドイツ企業の傘下に入った。しかし、そのプレイエルももはや戦前のプレイエルの音質とは違っている。ここに、ピアノの修復工房の存立理由がある。フランス全土の旧家には、まだ古いピアノが眠っているところが多く、修復の価値あるものを買い上げて修復すると驚くような美しい音のピアノに生まれ変わる。その価値は、もはや決して再び作ることのできない文化遺産を蘇らせる作業に他ならない。

 

 この話を聞いて、私はパリの街で見かける車のことを思い出しました。昔は、シトロエンやルノーやプジョーは遠くからでもすぐにわかりました。彼らのポリシー、センスが車の外観にはっきり表れていたからです。しかし、今は近寄ってエンブレムを確かめないと、区別するのはとても困難です。どれも皆、パソコンのマウスのような醜悪な形をしているのです。Oさんと話していて、去年暮れからの世界的不況に話が及ぶと、Oさんの顔が曇りました。すでに昔のピアノを買う人は少なく、さらに不況で、安い電子ピアノやYAMAHAの新品を望む人が多い。この工房もいつまで存続できるか疑問だ、オーナーも働く人も、古いピアノへの情熱で経営を支えているのだが。それを聞いて、妻も表情を曇らせました。妻がここを訪れたかったのも、いつかはプレイエル、それも戦前の本物のプレイエルを欲しいという思いと、日本で買う外国中古ピアノの値段の余りの高さにありました。ここで直接買うと、日本への輸送費35004000ユーロ(約45万から50万)を上乗せしても、小型グランドピアノでも200万、アップライトなら高くても150万円です。むろん、それでも私たちには高くて買えないのですが、夢のまた夢という値段ではありません。妻は、工房の地下で1953年製プレイエルの修復済みアップライトピアノを見つけた時は一瞬真剣な表情になりました。サイドボードのように折りたためるピアノで、輸送費入れても100万でおつりがきます。ただ、音質的にはそれほど優れていない、ありふれたピアノだと説明されて、買うのをあきらめました。

 

 私たちは、貴重な話を伺えたOさんにお礼を言ってそのピアノ工房を後にしました。パッシーから直行したのは、マドレーヌ寺院脇にあるチケット売り場で、ここでは当日券が半額で買えるのです。雨が降ってきたのに、売り場には行列ができています。妻は日本で買えなかったマクベスの当日券を買いたかったのですが、オペラの券は売っていないとのこと。今回のパリ滞在は失敗が多かったのですが、これもその一つです。急いで、オペラ・ガルニエに歩いていくと、120ユーロの席しか残っていません。二人で三万円はちょっと高すぎます。すでに53日の「仮面舞踏会」を買ってあるので、「マクベス」はあきらめました。少し気を落とした妻ですが、お腹がすいたといって、オペラ座近くの行列ができているパティスリーに入りました。ここでコーヒーと妻の好物のイチゴのタルト(3.9ユーロ)を食べたのですが、下の生地と苺を結びつけるクリームが絶妙のおいしさです。

 その後、楽譜屋に行きたいという妻の願いでオペラ座から近いサン・ラザール駅横を通るローマ通りへ。ここは楽譜店が集中しているのです。ローマ通りといえば、その72番地のアパートの四階はマラルメの「火曜会」が行われた場所で、ついでに見ておくのもいいかなと思いました。ローマ通りは、サン・ラザール駅に沿って長い坂になっています。上がっていくと、すぐに左に一軒の楽譜屋があって、妻は店頭に並べられているバーゲンの楽譜を夢中になって物色し始めました。私は楽譜には無縁ですが、フォーレの小品集でもないかと、楽譜の入れられた箱に手をつけようとしたとき、急な便意が襲ってきました。楽譜屋の横で、我慢しながら身をくねらせていると、さすがに妻が気づいて、「大丈夫」と心配そうな顔です。近くにトイレはないかと思案していると、すぐ近くにサン・ラザール駅の一番裏手の小さな鉄の門があります。その門を開けて下に降りていくと一番端のホームの最先端にでました。パリの駅(北駅、東駅、サン・ラザール駅、モンパルナス駅)はすべて終点であり始発駅で、丸山真男『日本の思想』で有名な「ササラ型とタコツボ型」のササラ型に当たる構造になっています。 ホームにいた駅員にトイレの場所を聞くと、正面にある、というので、ササラ型の根元まで早足で歩きました。トイレの入り口に黒人の男性がいて、そこで0.5ユーロ払うとジュトンというコインを渡されます。それを改札口のようなところに入れるとバーが上がってトイレに入れるのです。

 トイレの左右にはずらりと個室が並んでいますが、どうもすべて使用中の様子です。左側の一番奥の個室が空いているようなので戸を開けてみると、パイプがつまっているのか、汚物があふれています。右側の奥の個室がかろうじて空いていたので、入ってみると鍵がうまくかかりません。しかたなく押さえながら用を足していると、白人が強引に入ろうとしてきました。「セ・パ・リーブル!」とか思いついた言葉を言って戸を必死に押さえました。

 

 何とか落ち着いたので、駅のベンチにすわって休んだ後、ここから歩いて行けるアリ・シェフェールのロマン主義博物館に行くことにしました。サン・トリニテ教会の横の道をどんどん上がるとモンマルトルの街並みの外れにその博物館はあります。入り口でだらしない身なりの老人が切符を渡しています(無料の美術館でも必ず切符をくれます)。ロマン主義博物館といっても、もともとロマン派の肖像画家アリ・シェフェールの住居とアトリエと庭だけなのですが、ここにジョルジュ・サンドの孫娘が国家に寄贈したサンド関連の200点近いコレクションが集められて、19世紀の雰囲気を色濃く残す博物館となったのです。

 私たちが入った時は、幼稚園や老人の団体が見学に来ていて、狭い館内は歩くのもやっとでした。サンドは私の好きな作家の一人ですが、それでも灰色の髪の毛などが残されているのには思わず身を引いてしまいます。彼女の描いた画、すばらしい調度などもたくさん展示してありますが、見るべきはドラクロアの水彩画とデッサンでしょう。ショパンの弾いたプレイエルは特別展の展示のために見ることができませんでした。この博物館の眼目は、しかし、個々の展示ではなく、ロマン主義最盛期の雰囲気を体感させることにあります。当時、この辺りは「ヌーベル・アテネ」と呼ばれるほど、芸術家や作家や政治家が集結し、茶を飲み、論争を行ったところなのです。この博物館の庭はニセアカシアの木立に囲まれた静かなサロン・ド・テになっていて、傍らには小さな美しい温室(serre)もあります。天気の良い日には、リスト、ベルリオーズ、ロッシーニ、ドラクロア、ショパンらがこの木陰の椅子にすわり、コーヒーを飲んでいたことでしょう。まさに解説書に書かれているとおり、conserve le palfum romantique d’antan(昔日のロマン主義の香りを閉じ込めた)場所なのです。

 

 私が庭でその心地よい空間に身をゆだねていると、冷たいスチールの椅子に座っていたためか、鋭い便意が突き上げてきました。収まるまで待ってから、サン・ジョルジュの駅まで歩いて、メトロでホテルの近くのサンジェルマン・デ・プレまで帰りました。そこのシャンピオンで、ミネラルウォーター、果物、ヨーグルトなどを買って、途中のポールでバゲットとパン・オ・ショコラを買ったのですが、サン・ミッシェル広場の近くにくると、店頭に古本を大量に並べているお店があります。値段は何と一冊0.2ユーロ(約25円)です。その瞬間、また強烈な便意を催しましたが、何とか我慢して、トイレで読める軽い本はないかと探してみると、すべて屑のような本ばかり(ハウ・ツーもの、料理・趣味・旅行・育児など)です。がっかりして、奥の1ユーロ均一の箱を見ると、ここにも買いたい本はありません。かろうじて、ブレヒトの『ガリレオの生涯』の仏語訳を見つけましたが、すでに我慢は限界を越え、冷や汗が全身から出てきました。しかたなく何も買わず、妻に助けられてすぐそばのホテルに帰りました。

 

Pianosballeron

ピアノ工房の玄関。通りの喧騒がうそのような静けさ。

Piano

修復済みのピアノが置かれている部屋。妻が弾いているのがプレイエルの小型グランド。右にあるのがガヴォーのアップライト。

 

 

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2009年5月23日 (土)

パリ再訪(1)

 428日(火)

雨、雨、雨、横なぐりの風、傘をさしてもコートはぐしょぬれです。夜の8時半すぎですが、まだ外は明るい。サン・ミッシェル広場の近くにあるホテルに疲れた顔でたどり着くと、フロントにいたアラブ人は申し訳なさそうな顔で、部屋は六階(日本の七階)だが、エレベーターは故障中だ、と言うのです。重いキャリアケースを抱え、狭い螺旋階段を一番上まで上がると、妻は疲れきってシャワーも浴びずにベッドに倒れました。長旅の後で頭痛がおこるのは妻のいつものことです。私は、着替えてから、妻が薬を飲むためのミネラルウォーターを買いに外に出ていきました。

ホテルのある狭いアルプ通りはレストランがひしめき合っています。雨が止んだからか、通りは観光客であふれんばかり、この通りと、隣のサン・セヴラン通りとユシェット通りは安いギリシア料理屋などが軒を連ねていて、原宿の竹下通りや鎌倉の小町通りを思い起こさせる混雑です。長い鉄の串に肉や野菜を刺して店の前で焼いています。どの店も、髭を生やした店員が大声でお客を呼び込んでいます。中近東の食べ物ファラフェルを売っているお店には行列ができています。軒を並べる土産物屋の店先には低俗なTシャツや帽子が積まれています。何というにぎやかさでしょう。この狭い一角にパリ中の観光客が集結したかのようです。

食料品店が見当たらなかったので、ホテルに戻ろうとすると、ホテルのすぐ向いにチュニジアのお菓子を売っているお店を見つけました。そこでミネラルウォーターを買ったのですが、その店のウィンドウを見ると、いままで見たこともないたくさんのお菓子が並んでいます。カステラのようなもの、羊羹のようなもの、べっこう飴のようなもの、いったいどんな未知の味がこれらのお菓子に隠されているのでしょうか。私は、札に記されている菓子の不思議な名前と、見知らぬ菓子の形を一つ一つ見ていきました。アメリカ人らしい老夫婦が店の中に入ってきて、菓子を一つずつ買いました。それにつられたわけではないのですが、私も、アーモンドが上に載った茶色のケーキ(1.5ユーロ)を買ってみました。パティシェの白衣を着た髭の生えた主人が、紙に包んでくれて、歩きながら食べられるように小さなフォークを添えてくれました。

階段を上って部屋に戻ると、妻はもう寝込んでいます。起こして、薬を飲ませ、菓子を食べるかと聞くと、チラッと私が買ってきた菓子を見て、明日食べる、といってまた寝込んでしまいました。私は、飛行機の中でもらった小瓶のワインを飲みながら、チュニジアのケーキを一口食べました。何という甘さ、しかもケーキではなく、粟粒を蜂蜜で固めたような食感です。イスラームの涼しい家の中で、けだるい午後に、ミントティーを飲みながら食べるような強烈な甘さ。二口は食べられず、そのまま私はベッドに倒れて寝てしまいました。

 

一年半ぶりのパリ。前回は、ユーロ高(1ユーロが170円もした)と大規模なストライキで交通機関が麻痺したのに加え、身内の不幸で出発直前まで落ち着かなかったので、妻はかなり不満足でした。しかし、また仕事を休むわけにもいかず、ゴールデン・ウィークの長い休みを利用して再びパリ行きを計画したのです。五月といえば、毎年私は体を壊すのですが、今年は三月頃から健康に留意してアルコールも控えました。ところが、出発前に下痢をして体が弱り、妻も仕事を前日まで目一杯こなしていたので、二人とも疲れきってエール・フランスの朝の便に乗り込みました。

ところで、私にとって、パリ旅行の最大の苦しみは12時間半におよぶ飛行機の旅です。エコノミークラスは足が伸ばせないし、料理はお世辞にもおいしいとはいえません。ビジネスクラスなら良いのですが、この時期、安くても片道45万というのは私たちのような片隅の夫婦には無理なことです。機内では音がうるさいので、映画も読書も楽しめず、むろんゆっくり眠ることもできません。唯一の娯楽はゲームですが、座席に備え付けのゲームは幼稚すぎて楽しめません(チェスはこの時代にあるまじき弱さです)。「今度の旅はパソコンを持っていくから退屈しないわよ」と妻が言っていたのですが、妻のモバイル・パソコンは、どんどん電力を消耗していき、「東大将棋」の秒読みの声よりも電源の消耗度のカウントに気をとられて、たった1局しか遊べませんでした。

思えば、この苦しみの大本は、気圧を調整された密室に長時間閉じ込められるという閉塞感にあるのです。出発後7,8時間すると、苦痛は極限に達し、退屈と息苦しさで耐えられなくなります。機内はとても歩き回れる雰囲気ではなく、異常に狭いトイレは考えただけで憂鬱になります。しかし、到着まで2時間を切ると、やっと心が晴れてきます。窓から見える雲の形がさまざまに変わり、千切れたり、消えていったり、黒いかたまりになったりするのを楽しむ余裕も出てきます。こんな雲の様子を家で留守番するルーミー(猫の名)に見せたら、きっと目を丸くするに違いない、そよ風や葉のそよぎにさえ驚く猫だから、などと考えたりもします。

予算にまったく余裕のない私たち夫婦ですが、それでも固執していることがあって、それは必ず直行便を利用することと、便利で安全な地域にホテルをとるということです。空港を走り回るトランジットのあわただしさ、二度ボディーチェックを受ける面倒さと余計な離発着による事故の危険を考えると、直行便のメリットは計り知れません。そして、パリで宿をとるなら、ルーブル宮から歩いて帰れるほどの距離にすべきでしょう。パリ周辺部は極端に人気が少なくなるし、オペラなどの夜遅くの帰還や、ホテル周辺の散歩、食べ物の買出しなど不便さはお金に代えられません。

 

飛行機は定刻より早くシャルル・ドゴール空港に到着しました。妻はほんとうに疲れた様子です。とりあえず、エール・フランスのリムジンバスの乗り場に行って、ホテルに一番近いと思われるモンパルナスまでのお金を払いました。しかし、これが失敗で、バスは市街地に入ってから渋滞でぐずぐずし、特にリヨン駅からオーステルリッツ橋を渡ってモンパルナスまではなかなか進まず、その間に妻は今にも吐きそうなほど気分が悪くなってきました。「あと、どのくらい?」と何度も私に聞きます。私自身も疲れと眠気で、今バスがどこを走っているのか定かではありません。どうやら、モンパルナス墓地の裏側を走っているようです。モンパルナス墓地といえば、ボードレール、サルトルとボーヴォワール、ベケットなどが眠っていますが、2004年に新顔が加わりました。息子のディヴィッド・リーフが書いた『死の海を泳いでースーザン・ソンタグ最後の日々』によれば、ケネディ空港を発ったソンタグの遺体は、ヴォルヴォの霊柩車に乗ってパリに入り、オペラ座からマドレーヌ寺院、コンコルド広場を通ってセーヌ川を渡り、24歳で初めてパリに来てから第二の故郷のように愛した街、サンジェルマン・デ・プレに挨拶して、ラスパイユ通りからエドガー・キネ通りに入りました。モンパルナス墓地の正門はこの通りに面しているのです。ニューヨークの醜悪な墓地を嫌って、パリを選んだ息子の心と頭には、ソンタグがもっていたスノビズムが拡大遺伝して伝わっているようですが、それを笑うことは誰にもできないでしょう。パリこそスノビズムの永遠の都だからです。

 

ようやく、バスが停車しましたが、折からの突風と雨でとても歩けません。妻が、吐きそうで、乗り物に乗れないというので、雨宿りをしてからホテルまで歩いていくことにしました。レンヌ通りからヴォジラール通りに入り、最短距離でクリュニュー中世美術館を目指します。ホテルはその前のアルプ通りをサン・ミッシェル橋のほうに入ったところにあるのです。なぜ、いつも疲れ切ってホテルにたどり着くのでしょうか。それよりも、もう二度とパリに来ることはないだろうと思って帰るのに、つねに再びパリに来てしまうのはなぜなのでしょうか。

Okasi
チュニジアの菓子。すべて一個200円くらい。一番下のファンタの缶の右側のケーキを食べてみました。

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2009年5月17日 (日)

A.W.クロスビー『史上最悪のインフルエンザ』(2)

 スペイン風邪については、いまだ解明されていない(おそらく永遠に解明されない)ことがあまりに多いのですが、その名称の由来すら定かではありません。おそらく、当時は第一次大戦のさなかで、どの国も将兵の罹患者数は軍の機密だったので、大戦不参加国であったスペインのメディアが主にこのインフルエンザのニュースをとりあげたゆえに、その国名が冠されたのだろうと思われます。

犠牲者の数も、4000万人というのはきわめて大雑把です。比較的正確な数字が残されているアメリカの場合について見てみましょう。まず、どれだけの人間が罹ったのか? アメリカ公衆衛生局は1919年、国内11の都市や町を詳細に調べ上げ、それらの都市ではパンデミックの期間に1000人あたり280人がインフルエンザに罹っていたことを見出しています。もし、合衆国全体がこの比率になっていたとするなら、少なくとも四分の一以上、2500万人あるいはそれ以上がインフルエンザに罹っていたことになります。死者の数はもう少し正確に出て(死というのはたいへん印象的なことなので)アメリカ全体で675000人の死亡者が出ました。罹患した場合の死亡率は2.7%となります。

 

 <スパニッシュ・インフルエンザの特徴>

 第一波(1918年春夏)では比較的軽い症状だったのですが、変異をくり返して後、1918年秋の第二波では最悪の致死性をもったインフルエンザにかわりました。実は、このインフルエンザは例外的な二つの特徴を持っていたのです。ひとつは、インフルエンザにしては致死率が高いことで、わずか数ヶ月でこれほど多くの人命を奪った病気は人類史上類を見ません。致死率の高さは感染力の強さと、肺炎を誘発する割合の高さによります。第二波で凶暴化したインフルエンザ・ウイルスは人の気管に付着するや否や、一気に肺の繊毛をもった粘膜上皮細胞をそっくり刈り取ってしまうのです。呼吸器の最初の防波堤ともいうべき上皮細胞組織が攻撃された後に、肺炎を引き起こす桿菌や球菌がわがもの顔に暴れまわったというわけです。

 

 スパニッシュ・インフルエンザのもうひとつの特徴は、犠牲者が20代で最も多く、次に30代40代が続いて、合衆国の統計では死者の平均年齢は33歳であったということです。普通のインフルエンザの死者は、幼児と高齢者のU字型の年齢分布のグラフを描くのですが、スパニッシュ・インフルエンザは世界のどの地域でも、不気味なW字のグラフとなっています。

 つまり、このインフルエンザは、好んで弱者より強者を冒していったのです。若くて元気溌剌とし、身体的発育も栄養状態も申し分ない人間をとくに狙って襲っていたのです。死ぬどころか、カゼひとつ引いたことのないような青年ほど確実に罹り、そして死んでいきました。詩人で医師であったウィリアム・カルロス・ウィリアムズは「彼らは、たった一日で病気になり、そのままつぎの段階に進み、生きているだけで目いっぱいの状態になり、死んでいった」と書いています。作家でフランス遠征軍に加わったジョン・ドス・パソスは『三人の兵隊』の中で、オラフという兵士を登場させています。オラフは片手で180パウンドを持ち上げることができ、マティーニ25杯を飲み干し、たちどころに湖を泳ぎ渡ることのできる男でしたが、フランスへの航海途中でインフルエンザに倒れました。「彼らはアゾレス諸島が見えた頃、オラフの遺体を海に投げ入れた」(ドス・パソス自身もインフルエンザに罹りましたが、病院に行かず、フランスのポン引きから買ったラム酒一本を飲んで治しました。病院に連れて行かれた同僚はみな帰って来なかった、と書いています)

 

 スパニッシュ・インフルエンザは、人生最良の時期にあった人々の、しかもその中でも最高の状態の見本のような人々の命を奪っていきました。この理由については、現在ではサイトカイン・ストーム(免疫過剰反応による多臓器不全)によるものだとされているようです。免疫の過剰反応について説得力ある仮説を立てたのは、1960年にノーベル医学賞を受賞したオーストラリアのマックファーレン・バーネット卿です。彼はつぎのように説明しています。

 子供は、どうしたら立派な大人になれるかを学習するが、これは免疫についてもいえる。おたふくかぜ、はしか、水ぼうそうといった病気は、いわば免疫の学校で、子供はこのような病気を通じて感染症への対処の仕方を学ぶ。そして、ヒトの体は成人に達する頃までにあらゆる感染症を経験し、その免疫を獲得していくのだが、成人になった今では、全身性の傷害ではなく、骨折や靭帯断裂や創傷のような局所性の傷害に強い炎症反応を示すようになる。このことは、地球上に人類が生存してきたほとんどすべての時間を通じて、成人に課せられた役割とも関連している。

 しかし、スパニッシュ・インフルエンザのウイルスのように、瞬間的に気管から肺全体に侵食されるような時には、強い局所性の炎症が強烈な全身性の炎症に燃え上がっていく。肺は多量の滲出液を出し、その液体で自ら溺死することになる。40歳を過ぎる頃から、この極端な炎症反応の能力は減退し、局所的傷害に持ちこたえて生きのびる能力は低下するが、それと引き換えに全身的感染から生きのびる可能性が増してくる。以上のことは、たとえば、はしかや水ぼうそうという病気を成人になってから経験すると重篤化することが多いという事実、あるいはある土地にはじめてある病気がもたらされた時、最初に発症するのはたいてい若年成人である、ということからもわかる。以上がバーネット卿の説明です。

 

 次に、スパニッシュ・インフルエンザが、なぜ第二波において猛毒性のものに変異したかについてのリチャード・E・ショープの研究を紹介しましょう。ブタ・インフルエンザの存在は、1918年までまったく知られていませんでした。ブタのインフルエンザの存在をはじめて指摘したのは、連邦家畜産業局のJS・コーエンでしたが、このことは養豚業者や精肉業者の反発を買ったのです。1928年、コーエンと同じアイオワ出身のショープがふたたびコーエンの研究をとりあげました。アイオワは他州の2倍以上のブタを有し、毎年伝染病で多量のブタが死んでいます。ショープは死んだブタを集め、そこから肺炎を引き起こすファイファー桿菌を分離しました。ところが、その桿菌を他のブタに寄生させてもインフルエンザは発生しなかったのです。次にショープは、病気のブタの組織をろ過して、そのろ液を健康なブタに接種してみると軽いインフルエンザの症状が見られました。これこそインフルエンザ・ウイルスで、ショープはブタ・インフルエンザがウイルスによって引き起こされることを証明したのです。さらに、彼はファイファー桿菌とインフルエンザ・ウイルスを同時に接種すると、ついにそのブタは典型的なインフルエンザの症状を呈し、病気になったのです。

 重篤なインフルエンザがインフルエンザ・ウイルスとファイファー桿菌によって引き起こされることがわかったとして、次の事実はまだ謎でした。つまり、ヒトのインフルエンザは、カレンダー通りとはいかず、いつでも始まりうるのに、ブタのインフルエンザはきまって秋に起こることです。さらに、ヒトのインフルエンザはほぼ同心円状に拡大していくのに、ブタの場合はある地域全域で同時に大量に発生するのです。

 ショープは、20年の歳月をかけた研究で次のような理論を打ち立てました。ウイルスは自分にぴったりの宿主細胞を見つけると、外套を脱ぎ捨て自らの遺伝子である核酸を細胞の中に注入する。そしてそこで何かを待ちながらかなりの期間(数週間、数年間、ことによると永遠に)宿主に何のトラブルも起こさずにじっとしている。ブタにとりついたウイルスは、しばしばファイファー桿菌と同宿するが何らかの刺激を受けるまでは宿主細胞を破壊することはない。ショープは、健康なブタにウイルスとファイファー桿菌を接種したのちに冷たい水を浴びせました。その結果、何頭かが典型的インフルエンザ症状を呈しました。冷たい水は、アイオワの秋の寒く湿った気候に相当し、この環境操作でインフルエンザ発生のスイッチが入ったのです。

 このショープの説は、ブタ・インフルエンザのすべての謎を説明するものでした。ブタ・インフルエンザの流行が秋と冬だけに起こるのはその気候が引金になっているからで、また流行が中西部一帯で爆発的に起こるのは、この病気がブタからブタに漸次広がっていく必要がないからです。ウイルスはすでにブタの中で潜伏状態にあり、あとは単にそれを活性化する刺激を必要とするだけだったのです。

 このことからショープは、スパニッシュ・インフルエンザの第一波と第二波の違いを以下のように説明しました。すなわち、第一波においては単にインフルエンザ・ウイルスの種まきがなされただけであり、次に秋になり、涼しい気候とファイファー桿菌の蔓延が引金となってあのようなパンデミックを起こしたのである、と。むろん、この説も決定的な真実とはいえず、多くの反論を受けています。

 

 <忘れられたパンデミック>

クロスビーのこの本の原題はAmerica’s Forgotten Pandemic で、実は著者の主眼もここにあるのです。

アメリカにおいて、20世紀のすべての戦争の犠牲者よりも多くの死者を、たった一年で出したスパニッシュ・インフルエンザ、しかし、その最悪の日々が過ぎ去ってしまうと、アメリカ国民は急速にそれを忘れていきました。いや、過ぎ去ってからでもなく、その最中においてさえも、インフルエンザがアメリカの最高の恐怖として恐れられてはいなかったのです。そして、信じられないことに、アーサー・シュレジンジャー・ジュニアやリチャード・ホフシュテッターやサミュエル・エリオット・モリソン等といった歴史家の米国史のなかにそのインフルエンザについての記述を探しても、ただベイリーの『The American Pageant』のなかのわずか一文しかない、という有様です。

 

この理由はいくつか考えられます。

まず、一番大きな理由は、時期として、第一次大戦の末期とすっかり重なってしまったことです。しかも、犠牲者の多くが、戦争の死者とほぼ同じ年齢であったことが、このパンデミックを戦争の一部として見させる一助ともなっているのです。(インフルエンザの流行が、部隊の激しい移動によって助成されたこともむろんあります)。戦争中は死そのものが日常のこととなっているので、伝染病の死もそれほどのインパクトを残さなかった、という説もあります。

もう一つの理由は、この病気の狡猾な性質そのものにあります。すばやく来て、それと知らずに去っていく、死者だけ残して、という筋書きはあまり劇的とはいえません。家族や友人がともにその闘病を何年も見守る苦悩の時期さえ、この病気は与えてくれないのです。また、このインフルエンザが、もし、一命をとりとめた人間に、疱瘡やポリオのような目に見える瘢痕を残すことがあれば、社会はその苦悩をいつまでも目に焼き付けずにはおかないでしょう。しかし、死ななかった人間は、カゼが治ったぐらいの後味しか残らないのです。そしてそれは、病気にたいする私たちの偏見にも多く由来しています。めったに罹らないが、感染すれば死の危険の強い狂犬病のような伝染病と、多くの人が罹るが、めったに死なないインフルエンザと、どちらが私たちに恐怖を起こさせるでしょうか。それは前者であり、スーザン・ソンタグが書いていたように、必ず死に至る病気は何か恐れ多いものを感じさせるのです。

 

このことは、文学作品に、スパニッシュ・インフルエンザがほとんど現れない、という事実を説明してくれるでしょう。それは、劇的で苦悩に満ちた人生の一こまにしてはあまりにあっけなさすぎるのです。1918年当時もっとも感受性豊かであったはずの「失われた世代」の作家たちを見てみましょう。(この命名者であるガートルード・スタインも、このパンデミックのとき、フランスで救急車の運転手として働いていました)

自らを時代の記録者とみなしたフィッツジェラルドも、自らの部隊の四分の一が感染したフォークナーも、看護婦の恋人がインフルエンザとの闘いのため彼を捨てていったヘミングウェイも、自らの作品にはほとんどまったくこの病気のことを書いていません。

 

しかし、忘れていたのは社会という巨大な織物であって、個人のレベルではこのパンデミックは決して忘れることのできない痕跡を残したはずです。当時の無名の人たちの手紙や日記、権力の側にいなかった人たちの自伝の中には、亡くした家族への思い、パンデミックを生き抜いた悲痛な思いが現れている、とクロスビーは書いています。その後の人生を全く狂わせられた無数の人々の苦悩については想像するしかありません。

メアリー・マッカーシーは、その当時六歳だったのですが、一家でミネアポリスへの旅に出るため汽車に乗った時、家族全員(両親、兄弟たちも)がインフルエンザに罹っていました。そして一週間後に両親が亡くなったのです。もし、そのとき両親が死ななかったら、おそらく彼女は典型的なカトリックの中流家庭の中で心地よい子供時代を過ごし、誰もが予想するような人生を送ったかもしれません。「私には、アイルランド系の弁護士と結婚して、ゴルフやトランプに興じ、時々家に引きこもったり、カトリックブッククラブの購読者になったりする自分が手に取るようにわかるのです」(『Memories of a Catholic Girlhood』)しかし、彼女は作家になり、辛らつな社会批評家となったのです、、、。

 

アメリカ文学で、インフルエンザが大きな痕跡を残した例をクロスビーは二つ挙げています。一つはトマス・ウルフがその『天使よ故郷を見よ』で描いた最愛の兄、ベンジャミン・ハリソン・ウルフの死でした。トマス・ウルフがノース・カロライナ大学の学生だった頃、兄のベンはスパニッシュ・インフルエンザで倒れ、急いで帰郷したトマスに看取られて亡くなりました。トマス・ウルフは、愛する者がもうこの世にはいないという事実、この宇宙のすべての力を持ってしても彼を生き返らせることはできない、という事実を受け入れる瞬間を感動的に描いています。

「しかし息をこらした家族の間に、驚嘆の思いが募っていった。彼らは風のように来て風のように去った淋しいベンの生涯を、忘れていたくさぐさの振舞いや瞬間を、今更のように思い出したーそしてどこかこの世のものならぬ奇妙さが、終始ベンにまといついていたことを思い浮かべた。ベンがこの家の生活を影法師のようにすりぬけて歩いていたのは、この瞬間の予兆だったのだろうかーなきがらを見てひしひしとそれを感ずると、忘れていた呪文を思い起こす人のように、あるいは神を永久に失うということを初めて理解した人々のように、彼らは血の気の失せ切ったベンをながめた」

 

もう一人は、キャサリン・アン・ポーターです。1918年の秋、彼女は、コロラドのロッキー・マウンテン・ニューズ社で新聞記者として働いている時にインフルエンザに罹りました。当時の恋人であった若い陸軍の工兵少尉は病院に彼女を置いたまま、泣く泣く任地へと赴きます。彼女は、高熱のため頭髪は真っ白になって抜け落ち、その死はもはや時間の問題と思われ、新聞社は死亡記事を準備していました。しかし、彼女は奇跡的に回復し、たまった手紙類に目を通せるほど意識がはっきりしてきた時、その中に恋人の友人からの手紙で、彼女の少尉が兵営でインフルエンザで亡くなったことを知るのです。「パンデミックは私の人生を、何のためらいもなく、あのように真っ二つにしてしまった」と彼女は後に書いています。

キャサリン・アン・ポーターにとって、この経験はあまりに強く刻み込まれたので、長い間、彼女はそれを語ることさえできませんでした。彼女が経験した死の淵での長い語らいの記憶、失われた幸福な日々の約束は、20年間彼女の心の中でゆっくりと醸成され、20世紀アメリカ最高の短編の一つとされる『幻の馬 幻の騎手』(Pale Horse, Pale Rider 1939)となって結実するのです。

物語は、彼女の分身であるミランダという娘の目を通して、ひたすら主観的に描かれます。明るい日差しの下での恋人との語らい、戦時公債のキャンペーンの執拗さと、ひっきりなしに行きかう葬儀の車、ボストンで細菌がまかれたという噂、ドイツ軍への際限ない憎しみ、インフルエンザの始まりである頭痛と吐き気、しかし、それらはすべて現実の世界からすこしずれた夢のようなただミランダの意識の反映として叙述されていきます。そして、このスタイルがこの作品を深い文学の秘密の中へ引き寄せていくのです。なぜなら、死は徹底的に個人的なことであり、死の悲しみとはすべての人間関係から切り離される悲しみに他ならないからです。生のいちばん底まで降りていって、死の淵を巡って、ただ一粒の命の熱い微粒子になり、はじめてミランダは自分を取り巻いていた世界の深奥に触れるのです。「アダム」と死から蘇った彼女は亡くなった恋人の名を呼びます。「あなたはもう死ぬ必要がなくなったわ」と。その瞬間、すべては止まり、空しさと生への希望だけが残ります。この物語の最後の文章は、忘れられた疫病とそれによって愛するものを失った人々の決して癒されぬ心への鎮魂となっているのです。

「もはや戦争もなければ疫病もなく、あるのはただ、重砲のなりやんだあとの、茫然とした静寂だけ。鎧戸を下ろしたひっそりした家々と、人気のない通りと、死んでいるような冷たいあしたの光だけだった。今やそこには、あらゆるものにとって時間だけが存在しているようだった」

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2009年5月15日 (金)

A.W.クロスビー『史上最悪のインフルエンザ』(1)

 アルフレッド・W・クロスビーの『史上最悪のインフルエンザ』(みすず書房・西村秀一訳 原著は1976年刊)は19181919年に全世界で4000万人近い犠牲者を出したスパニッシュ・インフルエンザ(スペイン風邪)についてのおそらく最良の書物です。ここに報告されているパンデミックの実態は、今なお再現可能であり、事実再現されつつあるかも知れないのです。

 著者は2003年の日本語版に寄せた序文で、ウイルスの危険は1918年以来ますます危険になっており、「人も水鳥もブタも世界中で最大の数を有する中国からは1918年以降インフルエンザの新しい株が数多く出現してきており、また新型肺炎のような、たぶん我々を驚かす知らせがいくつも出番を待っていることだろう」と警告した上で、さらにつぎのように不気味な予言をしています。

 「巨大都市における公衆衛生問題は、このところことさら我々人類の重い負担になってきている。メキシコシティひとつとってみても、公式統計だけで1900万人、実際にはそれ以上が暮らしており、これは見方を変えればノルウェーとスウェーデンとデンマークの人口をすべて合わせたよりもずっと多い数なのである。そのようなメガロポリスは世界各地で急成長を遂げており、そのほとんどは病気をコントロールするために最も効果的な手段をとろうにも明らかに設備と資金が不十分な地域に存在している」

 

 スパニッシュ・インフルエンザの第一波は、1918年の3月にアメリカでひっそりと始まったようです。デトロイトの自動車工場で1000人以上の労働者がインフルエンザに感染しました。ほかに刑務所や新兵のキャンプで小規模のインフルエンザ感染が見られましたが、アメリカはまったく危機感を抱くことはありませんでした。というのも1918年はまさに激動の年だったからです。1月にアメリカ大統領ウィルソンの史上有名な十四か条の演説があり、3月にはボルシェヴィキが電撃的にドイツと和平してしまいます。これにより、第一次大戦からロシアが撤退し、ドイツは全力を西部戦線に差し向けることができるようになりました。こう着状態であった西部戦線のバランスは崩れ、今やドイツの大攻勢が目に見えていました。協商国側はアメリカに火急の援軍を要請し、こうして、大戦末期の半年で160万の米軍兵士が大西洋を渡ることになります。戦時国債のキャンペーンと若い新兵の移動で明け暮れるアメリカ大陸にはインフルエンザの恐怖など感じられなかったわけです。

その後、インフルエンザの第一波はヨーロッパ、アフリカ、アジアをとおり、再びアメリカに戻ってきます。すでにこの春夏の第一波で、スパニッシュ・インフルエンザの主要な特徴の一つ、成人男女に異常に罹患率が高い、という事実が顕著に現れていました。そして、4ヶ月かけて地球を一周したあとでは、このウイルスは変異を繰りかえした挙句、凶暴な肺炎を引き起こしやすい桿菌や球菌というハイエナを引き連れたライオンに変わっていたのです。

 

1918年秋の第二波は、シェラ・レオネのフリータウン、フランスのブレスト、そしてアメリカのボストンで同時に出現しました。フリータウンは西アフリカ最良の港を有し、ヨーロッパ、アフリカ、極東をつなぐ燃料補給基地として知られていました。この港で、英海軍アフリカ号の乗組員779名のうち75%がインフルエンザにやられ、51名が亡くなっています。さらに、シェラ・レオネの住民の3分の2がインフルエンザに罹り、全人口の3%が一ヶ月も経たずに亡くなっています。フランスのブレストは屈指の深さを誇る良港で、アメリカ遠征軍の500隻の船が常時停泊していました。ここで、わずか3週間のうちに1350人の兵隊が入院し、そのうち370人が死亡しています。

アメリカのボストンではインフルエンザがさらに猛威をふるいました。ボストンはニューヨークに次ぐ多くの新兵を抱えたキャンプ地で、そこで急造の兵舎に押し込められた新兵は抗うことなく次々にインフルエンザで倒れていったのです。そのキャンプ地の一つキャンプ・デーヴンスで起こったことを見てみましょう。

 

ウイリアム・ヘンリー・ウェルチは、20世紀初頭のアメリカにおける医学界の大物で、その名声はフランクリン以来とまで言われた人物でした。彼は、ウィルソン大統領の「すべての戦争という戦争をこの世から永遠になくすための闘いに加わろう」というよびかけに賛同して、大学の地位を捨てて軍籍に就きました。彼の任務は、広く軍の医学・衛生面での問題に対処することで、時まさにインフルエンザのパンデミックの報を受け、ボストンの南30マイルにあるキャンプ・デーヴンスに赴いたのです。

1918923日に、45000人が滞留するそのキャンプに着いて、ウェルチは愕然としました。着いた日に64人、翌日は90人と新兵が死んでいるのです。冷たい雨の中を濡れた毛布にくるまって診療を待つ青白い顔の兵隊たちの列、その傍らには死体が積み重ねられています。こんなことが信じられるでしょうか。アメリカの20代の若者といえば、人類史上最も強健な集団であるはずでした。それが、かくも簡単に倒れ、死んでいくのです。このインフルエンザは、健康そのものであった者がほとんど動けなくなるのに発症からほんの1,2時間ほどしかかかりませんでした。体温は38,3~40,6度まで跳ね上がり、体中の筋肉や関節、そして背中や頭にひどい痛みを訴えるのです。みな、まるで「こん棒に打たれた」ような感じと表現しています。たいていの患者の場合、これらの症状は数日続き、その後衰弱から回復していくのですが、5~10%は重篤で肺全体に広がる肺炎に見舞われ、その半数近くが死んでいくのです。

 

ウェルチが調査した結果、ぞっとする数字が現れてきました。第十三大隊の29.6%、第四十二歩兵連隊の17.3%、憲兵隊の25%が活動不能に陥っており、300名の看護婦のうち90名がダウンしているのです。彼は病棟を巡り、何かヒントになるものを見出そうとしました。ベッドを覆う麻のシーツは多くは血にまみれていました。血痰や突然起こる鼻出血はスパニッシュ・インフルエンザに特有の症状でした。顔色がまるで青インクのようになってしまった兵士たちにとって死は時間の問題でした。ウェルチは石盤のように灰色をした死体が、薪のように積まれた横を通って剖検室にたどり着きました。病理学者としてのキャリアにおいて彼の右に出る者などいないウェルチでしたが、遺体の胸部を開けてみて、震えを覚えずにはいられませんでした。普通、肺は人間の臓器で最も軽いもので、75000万個の肺胞が石鹸の泡と変わらないほどの薄さでひしめき合っているのです。ところが、スパニッシュ・インフルエンザの犠牲者の肺は、青みがかり腫れあがって重く、血液混じりの泡立った液体に満たされた二つの袋となっていたのです。

 

ウェルチにできることは、兵員をこれ以上増強させないこと、他のキャンプへの集団移送をやめること、一人当たり五平方メートルの空間を確保すること、医師や看護婦を増やすことだけでした。実際、なす術がなかったのです。抗生物質もなかったために、病人にとっては看護婦のほうが医師よりも大切な存在でした。温かな食事、暖かな毛布、新鮮な空気、そして看護婦自身が皮肉をこめてTLCと呼んでいた「優しく愛情に満ちた看護 Tender Loving Care」が、患者の命をつなぎとめ、この病気が過ぎ去るまでのあいだ持ちこたえさせたのです。それこそが1918年当時における奇跡の妙薬でした。

 

この点に関して、陸軍二等兵ロバート・ジェイムズ・ウォーレスがフランス航路で兵員輸送船ブリトン号上で体験したことは、洋上でインフルエンザに苦しめられた兵隊たちにとってたぶん共通に近い経験だったでしょう。

アメリカを経って数日後の朝、ウォーレスは目を覚ますと「ものすごく体がつらく」、朝食をとることもできずに軍医の診察を待つ長い列に加わりました。その頃の兵員輸送船は、患者の鼻から滴り落ちた血でできた血だまりがそこかしこに散らばり、床は吐瀉物と排泄物で汚れ、夜は恐怖でかられた人間のうめき声でまさに地獄に近い有様でした。医師は、39.4度の体温を見ると、ウォーレス二等兵に、毛布を持って上甲板で待機しろと命じました。もはや病人に許される場所はすべていっぱいだったからです。ウォーレス二等兵はしかたなく強い風の吹く上甲板に出て毛布を広げ、オーバーコートを着こんで寝込みました。彼が高熱で錯乱し、幻想と現実のあいだをさまよっている時、嵐が船を襲ってきました。ウォーレスの目前には、自分を苦痛から解き放ち平和と静寂の世界に引きずりこんでくれる誘惑が現れてきました。だが、「絶対にそちらの世界に行ってはならなかった」。そうしているあいだも、大波が甲板を洗い、デッキにしぶきを振りまきます。彼は自分の食事道具一式(それがないと食事をもらえない)がガラガラ音をたてながらどこかへ永遠に飛び去っていくのを耳にしました。気がつくと、自分の革ゲートルや帽子もどこかに流されなくなってしまっています。

翌朝、衛生兵が巡回し、夜のうちに死亡した者を運び出していたのですが、まだ息のあるウォーレスを拾い上げ、下の、サロンとして使われていた部屋に運んでいきました。たぶん、誰かが亡くなって、一人分のスペースが空いたのでしょう。まだベッドには入れないが、ウォーレスはともかく波しぶきのかからないところに横になれたわけです。ある夜、看護婦がウォーレスのところにやってきて、英国訛りで、何かつらいことや不便なことはないかと尋ねました。ウォーレスが飲み物がほしいと答えると、彼女はしばらくして飲み物と温かなお湯の入った盥(たらい)を持ってきました。「足を洗ってあげましょう」というと、彼女はウォーレスの軍隊ズボンの脚部の紐をとき、発熱で濡れて今は乾いて彼の足にへばりついている重い靴下を剥ぎ取りました。「いったいどれくらいこの靴下をはいていたの」「たぶん12日間ずっと、、」「まあ、かわいそうに、、」と彼女は言いました。それから半世紀もの時間が過ぎ去ったが、ウォーレスはそのときの看護婦のことを「人のかたちをした奇跡」として思い出すのです。「彼女の柔らかな、石けんのついた手が、私の足をやさしく洗ってくれたあのときのことは、私の心に刻みこまれており、私が天に召される時には、そのことを天国でしっかりと記録するのが私の務めなのです」

 

<フィラデルフィア>

ボストン近郊の軍キャンプその他から爆発したインフルエンザ第二波は、アメリカ全土を恐るべきスピードで覆っていきました。その中で、最悪の経験をした都市のひとつ、当時人口170万人(軍人などをふくめると200万近い)のフィラデルフィアを見てみましょう。

フィラデルフィアの市当局は夏から欧州におけるインフルエンザについての情報をいち早く入手していたのですが、なぜかインフルエンザを届出伝染病に指定することはありませんでした。フィラデルフィアが危険を察知すると同時にその準備をしていれば、ほとんどダメージを受けとることなくパンデミックをやり過ごせたかもしれません。何よりも強力なリーダーシップが必要なのに、コネや癒着のはびこる市役所はまったくその任を果たせませんでした。

9月の初め、フィラデルフィア市民は模範的な健康状態にありました。911,15,17,日にそれぞれフィラデルフィア周辺の軍事キャンプでインフルエンザの患者が発生しました。918日、市の保険局はやっと重い腰を上げ、インフルエンザについての警告を発し、人前で咳やくしゃみをしたり、痰や唾をはいたりしないように呼びかけました。しかし、その翌日、600名の水兵が市内の病院に入院し、市民の中からも入院患者が出始めました。921日、保険局は遅まきながらインフルエンザを届出伝染病に指定しました。しかし、それでも市の保健福祉部長と保健局長は市民に対し、このインフルエンザは一般市民のあいだで流行することはまずないだろうし、万一流行しても必ず阻止できると明言していました。保健関係の役人はパンデミックに懐疑的で、すすんで新しい情報を集めようともしませんでした。928日、市内23ブロックで戦時公債の宣伝のパレードが行われました。その翌日からフィラデルフィアではインフルエンザの爆発的流行が始まりました。103日、市当局は大勢の市民が集まる施設をすべて閉鎖することを決定しましたが、時すでに遅く、10月第一週で700人、第二週で2600人、第三週には4500人以上がインフルエンザと肺炎で亡くなりました。

 

 病院は患者であふれましたが、戦時のため医師や看護婦はいつもより不足していました。患者の増加に対応してやみくもに臨時の病院を各所に設置したため、さらにスタッフは不足し、インフルエンザにさらされた病院従事者、医師やコックや運転手まで感染して倒れていきました。インフルエンザはまたたくまに市民生活に深刻な打撃を与えていきました。483名の警察官が出勤できなくなり、欠勤率は消防士、ゴミ収集人その他の公共サービスでも高く、ベル電信電話会社では107日だけで850人の社員が欠勤して、事実上緊急以外は電話が使用不要となりました。両親が重症となった子供たちで児童収容施設はあふれ、ほとんどの家族は病人を抱えて動きがとれず、あるソーシャルワーカーが訪ねた家では家族六人が全員インフルエンザで倒れ、みなの面倒を見ていたのは比較的軽症だった八歳の男の子だった、という話もありました。

 

何より深刻だったのは増え続ける遺体の埋葬でした。棺も足りず、墓堀人も足らず、遺体は家の中や遺体収容所に何日も放置されていました。このことは、まず遺体の腐敗による二次的伝染病を発生させる恐れと、さらに遺体が多くの人にさらされることで、人々の士気を削ぎ、地域全体の気力を失わせる心配を生じさせるのです。市内の目抜き通りにあった身元不明の遺体収容所では数百体の遺体が三、四段に積み重ねられて並べられ、ひどい臭気のため戸もすべて開け放たれていたので子供でも中をのぞくことができたということです。

 

行政機関がほとんど役立たなくなっていたとき、そういうほとんど絶望的状況から市民のボランティアが立ち上がってきました。中心となったのは民間防衛組織である国防委員会で、24時間の電話サービスによってボランティアが現場に急行しました。その他、フィラデルフィア自動車会社、やフィラデルフィア自動車クラブも救急車両を提供しました。タクシー会社も協力し、しばしば動けないほど弱った患者を病院に運ぶ時も一度も乗車拒否はなかった、ということです。

看護婦の不足から、まだ免許のない看護生、引退した医療関係者、さらにまったく専門的バックグラウンドのない素人がボランティアで病人を献身的に看護しました。これらの人々は、自らも致死的病気に冒される危険を承知で、日に15~20時間も働いたのです。フィラデルフィアのすべての組織、キリスト教、ユダヤ教、経済的、政治的組織はこぞってこの運動に参加しました。商店街や会社の人たちは自主的に店や事務所を閉め、食料の配給や病人の運搬に活躍しました。特筆すべきは、全くなんでもない人たちの犠牲的精神です。(素人ボランティアは女性が多かったのですが)彼女たちは、食糧配給所の炊き出しに、緊急電話の受付に、病人の家庭の掃除に、半狂乱になった人を鎮めたり、あとに残された人を慰めたり、亡くなった人の目を閉じることさえしたのです。

11月に入って、やっとフィラデルフィアはインフルエンザとの闘いの最後の場面を迎えました。この1ヶ月で12162名のフィラデルフィア市民がインフルエンザとその合併症である肺炎で亡くなりました。統計学者はフィラデルフィアにおいても死者には三つのピークが、つまり5歳以下の幼児と65歳以上の高齢者の低いピークと、それに25~35歳の高いピーク、俗に「恐怖のW」といわれる年齢分布があった、と指摘しています。生命保険会社がフィラデルフィア市の人的損失は当時のお金で六千万ドルにあたる、という試算を発表しました。しかし、「いまだかって人の悲しみというものを測ったものはいない。それゆえ、悲しみについては読者の想像力に任すほかはない」とクロスビーは書いています。

 

<二つのサモア>

インフルエンザは、もちろん全世界を襲いました。おそらくインドの1700万人の死者が最も多い犠牲者でしょうが、死者不祥の中国でもかなりの数の人が死んだはずです。ここで、南太平洋サモアを見てみましょう。これはクロスビーが「防疫上の幸運は、それを懸命に追い求める者たちの方に転がってくるものなのだ」という事実の例証になっているのです。

サモアは第一次大戦でドイツが撤退してから、西サモアとアメリカン・サモアの二つに分かれていました。インフルエンザに対する戦いは、この二つのサモアで対照的であり、結果として、アメリカン・サモアでは無傷でインフルエンザを切り抜け、西サモアでは住民の五分の一が命を失うことになったのです。

西サモアを統治するニュージーランド軍中佐ローガンは、あきらかにインフルエンザにたいして何らの危惧も抱いていませんでした。パンデミックの情報は当然入手ずみなのに、それが、まさか南太平洋の自分の島にやってこようとは思えなかったのです。1918年11月7日、ニュージーランドのオークランドからインフルエンザの感染者をのせてタルーン号が西サモアの港アピアに入ってきました。船長も、検疫医務官も、むろんローガンも、そのことに対して具体的処置をまったくとらなかったということは驚くべきことです。そして、それから二ヶ月も満たないうちに総人口38302人の西サモアはその20%にあたる7542人をインフルエンザとそれに続く肺炎で失ったのです。西サモアが最悪の状況を呈しているころ、アメリカン・サモアの知事はローガンに「もし我々にできることがあったら知らせてほしい」という電報を打ちました。しかし、ローガンは何とこの電報を無視したのです。彼はアメリカン・サモアが検疫を理由に西サモアからの郵便物を留め置いていることに腹を立てていたのです。

 

一方、アメリカン・サモアの知事、ジョン・M・ボイヤー海軍中佐は、毎日送られてくる「電信ニュース」を見ながら、パンデミックにたいする準備を周到に行っていました。西サモアのアピア港にタルーン号がやってくる4日前に、サンフランシスコからホノルルを経由して、蒸気船サモア号がアメリカン・サモアの港パゴパゴに到着しました。このサモア号ではインフルエンザ患者が14名出て1名が亡くなっていました。ボイヤーは船を隔離し、パゴパゴの街に向う乗客は検査のため五日間港に留め置かれ、所持品は燻蒸消毒され、毎日体温をとられ、間違いなく健康であることが確認されてはじめて解放されました。これ以降、ボイヤーはサンフランシスコからやってくるすべての船にサンフランシスコ出航時の全乗員、乗客の体温測定結果を記す書類の提出を要求しました。さらにボイヤーは、すべての郵便物を二時間燻蒸消毒させ、船上や船着場で荷を扱う全員のマスク着用を義務づけ、何らかの作業に携った港湾労働者は全員検診を受けさせました。

しかし、本当に危険だったのは、港にやってくる大型の船ではありません。病気が蔓延する西サモアとアメリカン・サモアとは40マイルしか離れていず、両方の住民がボートで往来するのは日常茶飯のことでした。パンデミックから逃れようとして西サモアの住民が日中アメリカン・サモアに渡ってくれば直ちに隔離することもできます。だが、夜中に、さんご礁の上を潮にのってやってきて、どこかに上陸するとしたら、それを防ぐ手立てはあるでしょうか? ボイヤーはアメリカン・サモアの首都ツツイラに全部族の長を呼び出し、西サモアからやってくるいかなるボートの着岸も許さぬ24時間の監視を指示しました。サモアのリーダーたちはこれに全面協力し、後にボイヤーはリーダーたちのうち三名の表彰メダルの授与をウィルソン大統領に願い出ています。

19196月、任期が終わり、ボイヤーが17発の礼砲とともに任地を去る時、住民たちは自分や自分たちの子供を救ってくれたこの善良な知事への感謝の気持ちを包まず表しました。「もし、かつて帝国主義がほんの少しでも正当化されることがあったのなら、1918-19年のアメリカン・サモアがまさにそれである」とクロスビーは書いています。アメリカン・サモアは、ただ単にパンデミックの波を被らずにすんだだけでなく、そのおかげで島の唯一の輸出品であるコプラに史上最高の値がつけられたのです。

(2)に続きます。

 

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